経幢と陀羅尼信仰


 中国の最南端に位置する雲南省では、かつて密教が栄えていた時代があった。それは唐代の長安を中心に流行し、わが国の密教にも大きな影響を与えた中国密教とは大きく異なる。今回はその信仰や実践に焦点を当ててみよう。

 八世紀から一三世紀にかけて雲南の地を支配した南詔と大理国の時代には、「阿●力教」とよばれる宗教が流行したと伝えられる。「阿●力」とはサンスクリット語の慶罫yaを音写したもので、阿闍梨すなわち密教における師僧を意味する。阿●力教こそが雲南で信奉されていた密教と考えられているが、その実態はこれまでほとんど知られていなかった。
 近年刊行された王海濤『雲南仏教史』(雲南美術出版社、二〇〇一)は、断片的ながらこの阿●力教についていくつかの情報をもたらしてくれる。それによれば、阿●力教は在家の僧侶による密教で、その僧侶職は父から子へと継承されたという。在家の仏教というのは、わが国では一般的な形態であるが、インドやチベットの伝統的な仏教では正統とはみなされない。しかしインドでも密教の時代には、在野の修行僧が妻帯し、子どもをもうけ、その子どもによって教えが受け継がれたことがあった。
 南アジアで在家仏教の形態をとる最も重要な地域は、ネパールのカトマンドゥ盆地である。この地の仏教はバジュラーチャーリヤとよばれる僧侶階級によって維持されてきたが、彼らは自分の家族とともに寺院に住み、父から男子へとその職分が受け継がれる。ヴァジュラーチャーリヤは社会的な同職集団すなわちカースト名となっているが、本来は「金剛阿闍梨」を意味するサンスクリットで、古くは「アーチャーリヤ」とのみ呼ばれていた。阿●力教と同じ名称である。
 阿●力教の僧侶たちは、祈雨や止雨、悪鬼退散などの呪術的な儀礼を行っていたようであるが、その一方で国王の灌頂も執行していたことが『雲南仏教史』に記されている。灌頂とは密教における入門儀礼であるが、中国や日本では皇帝や天皇、貴族たちに対しても頻繁に行われた。阿●力教が行っていたのも、同じように密教の灌頂を国王に適用したものであろう。
 阿●力教の灌頂については『灌頂大儀軌』という文献が残されているらしい。『雲南仏教史』はその一節を引用するが、同書によると、四種の曼荼羅を道場に準備し、そこに請来した仏たちに供養を行い、灌頂の受者に対して容器から水をそそぐ。このとき、阿闍梨は五仏の宝冠を戴き、五仏の智慧(五智)を象徴する金剛杵を手にする。そして、灌頂を行うのは大日如来そのものであると観想する。はじめに準備されるマンダラの種類は明らかにされていないが、この灌頂の方法は、特殊なヨーガや瞑想を行う後期密教の灌頂とは異なり、わが国の灌頂も含む中期密教までの灌頂の作法によく似ている。儀礼の方法の詳細な比較から、インドやネパール、チベットの灌頂との共通点も見つかれば、それはアジアの密教における阿●力教の位置づけの解明にもつながるはずだ。

 南詔・大理国の密教を特徴づけるもののひとつに陀羅尼信仰がある。陀羅尼とは本来、仏の教えを正しく記憶し、よく保持することを意味する。密教では神秘的な力をそなえた言葉、すなわち呪句となり、さまざまな種類の陀羅尼が生まれた。このような陀羅尼はしばしば特定の尊格(とくに女尊や観音)と結びつけられ、その尊格への信仰にも発展する。
 陀羅尼の功徳を説く陀羅尼経典は、早くから中国に伝来し、皇帝から庶民にいたるまで、幅広い層の人々に信奉された。その流行を現在に伝えるものに経幢がある。経幢とはこのような陀羅尼の呪句や経文を刻んだ石柱で、石幢とも呼ばれる。初唐から作られはじめ、唐代・宋代に大きく広まり、その後一時衰退したが、明、清にいたってふたたび流行した。その多くは寺院の前庭に立てられ、現在でも中国各地に残っている。
 雲南に残る最も重要な経幢は、昆明市博物館に展示される地蔵寺経幢(図1)である。八.三メートルの高さを持つこの経幢は、龍の浮彫のある円筒形の基台の上に、経文などを刻んだ経石が置かれ、その上に八角形の幢身がそびえ、尖端は宝珠形となっている。幢身の部分は上に行くほど細くなり、全体が七層に分かれる。
 経石に刻まれているのは、経幢建立の由来と『般若波羅蜜多心経』すなわち『般若心経』である。『般若心経』は有名な「色即是空、空即是色」という一節から、哲学的な内容をもった経典と理解されることもあるが、歴史的には陀羅尼経典として流布していた。わが国でも寺院の参拝や巡礼で『般若心経』を唱えることが多いのは、読誦することによって功徳が得られる陀羅尼経典であることによる。『般若心経』は経幢に刻まれる経文としても広く見られる。
 地蔵寺経幢で一番目を引くのは、この経石の上に、邪鬼などを踏んで立つ四天王である。いずれも中国風の甲冑を身につけ、やや短躯ながら重厚な作りで威容を誇る。浮彫で表されたこれらの四天王の間には、びっしりと文字が刻まれている。『陀羅尼経呪』と現地では紹介されていたが、これは特定の経典名ではない。全体がかなりの長文であることから、いくつかの陀羅尼がまとめられていると推測される。悉曇にも通じるインド系の文字が用いられているのは、翻訳せずにそのままの音を伝えた陀羅尼にふさわしいが、当時この地に、これらの文字を自在にあやつることのできる僧侶たちが、実際にいたことを伝えてくれる。
 第二層から上はほぼ同じような構成をとり、八面のうち四方には仏を中心とする諸尊図が、その間にある四隅には特定の尊格が置かれる。このうち四隅の尊格については、第二層ではたくましい力士が忿怒の力をみなぎらせ(図2)、第三層では優美な供養菩薩が供物を手にしている。第四層より上には、多面多臂をそなえた尊格も現れる。四方の仏たちは印相を異にすることもあり、さらに全体が楼閣のような建造物を意識した構造になっていることから、仏国土やマンダラの楼閣を意識していたとも考えられる。

 雲南からは小規模な石碑にインド系の文字で陀羅尼を刻んだものも見つかっている。大理市博物館が所蔵する作品では、石碑の上部に四臂の尊格を小さく浮彫にし、残りの表面に陀羅尼を刻む。ここに記された陀羅尼は「仏頂尊勝陀羅尼」である。上部に表されているのは、この陀羅尼の女尊、すなわち仏頂尊勝で、同じ尊容をもつ金銅製の作品も、同博物館に展示されている(図3)。
 仏頂尊勝陀羅尼は数ある陀羅尼の中でもとくに人気が高い陀羅尼である。わが国にもすでに奈良時代に伝来し、その後、空海らの入唐僧らによっても請来された。平安時代の貴族社会では、除障や延命などのためにさかんにその修法が行われたことでも知られる。
 この陀羅尼はインドからネパールやチベットにも伝播している。ネパールでは長寿を祝う儀礼と結びついたり、人気の高い陀羅尼を七種集めた文献などにも含まれている。チベットでも長寿や追善の仏として信仰され、この尊の絵画や彫刻が多数制作された。ただし、これは三面八臂をそなえ、大理市博の一面四臂像とは尊容が異なる。
 漢訳経典には尊勝陀羅尼を説いた経典が十種余りある。この陀羅尼の中国伝来は、唐代のインド僧で、五台山と結びつきの深い仏陀波利が大きくかかわっている。彼は五台山で文殊の化身である老人より、この陀羅尼を中国に請来するよう命じられ、あらためてインドに帰国し、苦難のすえに入手して長安にもどった。しかし、仏陀波利がもたらした梵本は彼ではなく杜行■によって翻訳され、そのまま禁中に入れられ門外不出となってしまう。懇願の結果、ふたたび梵本を手にした仏陀波利は、あらためて翻訳をしなおし、それを五台山にもたらしたという。
 中国で仏頂尊勝陀羅尼が広まるとともに、すでに述べた経幢にその本文が刻まれることになる。実は経幢の陀羅尼文のほとんどは、この仏頂尊勝陀羅尼なのである。そして、経幢が多く残るのが、仏陀波利ゆかりの地である五台山であった。これらの経幢に刻まれた仏頂尊勝陀羅尼は、当然、杜行■やその他の訳経僧の訳文ではなく、仏陀波利自身の手になるものであった。
 しかし、雲南の仏頂尊勝陀羅尼は、中国で一般的なこの仏陀波利のテキストではない。この陀羅尼には長短ふたつの系統がある。仏陀波利や杜行■のものは短い陀羅尼で、わが国に伝えられたものも同じ系統に属する。これに対し、長い陀羅尼はネパールやチベットで流布した。漢訳経典では宋代の法天による翻訳のみがこれを伝える。そして、雲南の石碑の陀羅尼もこの長文のものに一致する。
 長文の仏頂尊勝陀羅尼を伝える中国の資料としては、北京の郊外にある居庸関が有名である。元代のはじめにチベット仏教の影響を受けて作られたこの建造物には、仏頂尊勝陀羅尼が六カ国?の文字によって壁面に刻まれている。雲南に残る尊勝陀羅尼が、居庸関と同じようにチベットから伝えられたものか、あるいはその文字が由来するインドやネパールと直接関係を持つのかはわからないが、同じ仏頂尊勝陀羅尼に対する信仰でありながら、中国の他の地域との間に断絶があるのはたしかなのである。

 ネパール仏教を想起させるような阿●力教という在家の密教、中国で流行した経幢、インド系の文字で記された陀羅尼、これらは雲南の密教全体から見れば、ごくわずかな例に過ぎないが、その成立背景の複雑さを十分に物語っている。アジアの密教史におけるミッシング・リンクとして、これからますます雲南という地域の重要性が増していくだろう。
(『春秋』第458号掲載予定)

※●は「くちへん」に託のつくり。■は「豈」に「おおがい」。