南詔と大理に残る密教の仏たち
昨秋、一週間にわたり中国の雲南省を訪れる機会があった。雲南省は唐から五代、宋、そして元にかけて南詔と大理というふたつの地方国家が栄えた地である。ここで独自の密教が信奉されていたことが、近年明らかになりつつある。今回の調査は種智院大学学長の頼富本宏先生を代表とする調査グループによって行われ、私もその一員として加わった。中国に現存するチベット系の金銅仏を研究テーマとするこのグループは、科学研究費補助金の交付を受け、その活動もすでに三年目に入っていた。これまでに北京、承徳、瀋陽などで現地調査を実施し、貴重な図像資料の調査研究と画像データの収集をすすめてきた。今回の調査は中国の南端に位置し、古くからチベットと密接な結びつきのあった雲南省が調査地に選ばれた。このときの調査の成果から、とくに注目される作品を中心に、雲南省の密教美術の魅力を、二回にわたって紹介していきたい。
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中国の中で最も南に位置する雲南省は、ベトナムやミャンマーと国境を接し、北には四川省、西にはチベット自治区が広がる。さまざまな少数民族が住んでいることでも知られ、公式に認められている中国の五五の少数民族のうち、この省だけで二五を数える。象形文字として有名な東巴文字を伝える納西族や、隣接する青蔵高原からこの地に入ってきたチベット民族すなわち蔵族もこれらに含まれるが、歴史的にも文化的にも最も重要な民族は白族である。南詔・大理国を築き、密教を信奉していたのも、かれら白族であった。その名にあるように、白を基調とする民族衣装をまとった姿は、省都の昆明でも古都の大理でも、街中のいたるところで見られた。
雲南の地は「照葉樹林文化」の一部としても知られる。これは西はヒマラヤの山麓から東は日本にいたる帯状の巨大な地域で、人類学者や生態学者から注目されてきた。稲作を主体とする農業をはじめ、さまざまな技術や文化がその中を伝播していったと考えられている。私たちが訪れた一〇月はじめの大理では、ちょうど稲の収穫の時期にあたり、郊外の田園地帯では、天日に干した稲をすべて手作業で脱穀していた。その光景はどこか懐かしさを覚えるものであった。
中国で密教が流行していた唐代、雲南の地は長安を中心とする漢民族の王朝と、吐蕃とよばれるチベット政権との対立の中にあった。唐代のはじめには雲南には六つの国、すなわち六詔があったとされる。このうち、最も南に位置する南詔が唐との間に軍事同盟を結び、吐蕃と結びつきの強かった他の五詔を併合し、この地の統一に成功した。その時の王である皮羅閣は、七三八年に唐より雲南王に封じられている。その後、王位を継承した閣羅鳳の時代に、いったん唐から離反し、吐蕃と結んだが、これに続く異牟尋はふたたび唐と盟約を結び、南詔国の最盛期を迎える。その領土は現在の雲南省よりもさらに周囲へと広がり、東南アジアの各地にも及んだとされる。
異牟尋のあとも南詔国は、九〇二年に滅びるまで百年近くにわたってこの地を支配した。その後しばらくはめまぐるしく王権の簒奪が続いたが、九三七年に段思平が大理国を建国し、元のフビライによって滅ぼされるまでこの国も三百年あまりにわたって存続した。南詔・大理国という二国をあわせてではあるが、漢民族以外の国家が六百年にもわたって栄えたことは、中国史上例のないことである。
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南詔時代の代表的な文化遺産で、大理市のシンボルとも言えるのが崇聖寺三塔である(図1)。市内のどこからでもその優美な姿を見ることができる。三塔の建築は同時期ではなく、千尋塔とよばれる中心の大塔が最も古く、九世紀中頃と推定され、左右の二基の小塔は一一世紀の大理の時代のものである。千尋塔の内部に入ることはできないが、一九七九年に大規模な修復が行われ、その時、塔頂と塔基から仏像、菩薩像、写経、印章、法具、金銀器などが大量に発見され、学界で大きな話題を集めた。いずれも唐代から宋代にかけての貴重な文物で、その数は六百点にものぼった。
注目されるのは、これらの出土品の中に、かなりの数の密教系の資料が含まれることだ。たとえば、長さが二〇?もある重厚な五鈷金剛杵が発見されている。大理国の時代のものと推定されるが、金銅製で五鈷の各鈷の付け根には龍頭をひとつずつ精巧に表し、柄には蓮弁と連珠が美しく刻まれた見事なできばえである。
明らかに密教の尊格である忿怒形の仏像も何例か見つかっている。これらはおそらくチベット密教の影響を受けたと考えられるが、インドやチベットの忿怒尊とは、図像的な特徴も様式も異なる。三面六臂をそなえ、展左で立つ像(図2)は、わずか一五?の小像ながら造形的にもすぐれ、怒りに満ちた表情や、蛇を思わせる逆立つ太い髪、短剣(独鈷?)を振り上げる腕、筋肉の充実した体躯などは、迫力十分である。この作品を展示する昆明市の雲南省博物館は「大黒天立像」と紹介するが、おそらく明王系の尊格であろう。
同様に三面六臂をそなえる女尊の作例もある。こちらは坐像であるが、六臂のうちの二臂は弓を引きしぼっている。このような姿勢をとる密教の尊格としては、クルクッラーという女尊が想起される。おそらくこの作品もチベット系のクルクッラーの流れを汲むと考えられるが、冠飾として頭の両側に、鎌首をもたげた蛇が一匹ずつ表され、チベットのクルクッラーにはない特徴をそなえている。
この作品を含め、インドやチベットの図像学の伝統や、漢訳の密教経典や儀軌類に含まれる情報からは、雲南の忿怒尊の比定はかなり困難である。いずれもこの地で独自の尊容を発達させたのであろう。
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密教の忿怒尊のまとまった作例としては、大理市の北およそ一三〇?のところにある剣川石窟をあげなければならない。この石窟は九世紀中頃から一一世紀頃にかけて開窟され、現在三つの地区に一六の窟が残っている。
三箇所のうちのひとつ、石幢寺地区には八つの窟があり、この中の第六窟の明王窟に、見事な八大明王の浮彫がある(図3)。中央の釈迦と二大弟子をはさみ、左右に四体ずつ、合計八体の等身大の明王が、岩壁から浮かび上がるように刻まれている。さらにその外側には多聞天と増長天の迫力ある姿もある。
八大明王は不動、歩擲、大笑、馬頭、大輪、無能勝、降三世、大威徳からなる。明王のグループとしてはわが国では五大明王が一般的であるが、八大明王も別尊曼荼羅のひとつである仏眼曼荼羅や、いくつかの図像集の中に含まれている。漢訳経典にも八大明王を説くものもあり、わが国でまったく知られていなかったわけではない。また、中国でも何例か現存することが報告されており、とくに西安市郊外にある法門寺から発見された奉真身菩薩の台座や五重宝函の装飾として、八尊がそろって表されることが、近年の研究で明らかにされている。
しかし、これらの現存する八大明王の作例や文献資料と、剣川石窟の浮彫像とを比べると、その尊容はかなり異なる。剣川石窟の八大明王は、いずれも三面六臂をそなえ(大威徳のみは六面)、左の第一手を胸に当てて人差し指を立てる期剋印を示す。このような特徴は、他の地域の八大明王には見ることができず、むしろチベットで流行した忿怒尊のグループである十忿怒尊と共通する。八大明王と十忿怒尊とは、一部の尊は重なるが、それぞれ系統の異なる忿怒尊のグループである。
八大明王の各尊は個性的な特徴もそなえている。たとえば、大威徳のみは三面ではなく六面で、さらに水牛の背に乗って下に垂らす足は六本を数える。これは東寺講堂の大威徳明王にも見られるように、この尊の伝統的な特徴である。また、馬頭が頂上面として馬の頭を付けたり、降三世が五仏の宝冠をいただく点なども認められる。一部の尊はどくろを連ねた不気味な冠飾を付けるが、不動や無能勝は花冠のような穏やかな飾りを付ける。これらは、画一化されたイメージが支配的なチベットの十忿怒尊には見られない特徴で、より古いそれぞれのイメージを維持していることが推測される。
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中国密教といえば、これまで空海が学んだ長安を中心とした唐の密教を考えるのが一般的であった。最澄の滞在した天台山や越州、あるいは入唐八家のその他の僧たちが学んだ地が加わることがあっても、その範囲は中原とその周辺を超えることはなかった。しかし、雲南に残るこれらの密教美術の数々は、中国の密教がけっして画一的なものではなかったことを示している。わが国に伝えられたのは、その中のごく一部にすぎないのだ。インドやヒマラヤ諸国、東南アジアの国々から、中国で最も近いところに位置する雲南が、アジアにおける密教の伝播を考える上で、きわめて大きな意義を持つことをあらためて認識させられるのである。
(『春秋』第457号、pp. 16-19)