S. Karmay & Y. Nagano eds. New Horizons in Bon Culture in Tibet, Senri Bon Studies 2, Ethnological Reports 15, National Museum of Ethnology, July, 2000

 本書は一九九九年八月に大阪の国立民族学博物館で行われた文部省COEシンポジウム「チベット文化域におけるポン教文化」の成果報告書である。シンポジウムには欧米や中国などから気鋭のチベット研究者が多数集まり、ポン教というこれまで未開拓な研究分野をテーマに、五日間にわたって活発な議論が行われた。わが国からも11名の研究者が研究発表を行った。シンポジウムの主催者である長野泰彦国立民族学博物館教授と、ポン教研究の第一人者で国際チベット学会会長でもあるS.カルメイ博士(フランス・CNRS)が編纂の労をとり、七百頁を越える大著として、シンポジウムの翌年に刊行されたのが本書である。
 なお、シンポジウムの最終日は言語学の立場からのシャンシュン語の研究発表に当てられたが、これらの成果は、ウッタルプラデーシュ州のチベット・ビルマ語系諸言語の研究とあわせて、Nagano & LaPolla (2001)として、別途に刊行されている。また、この二書以外にも、Bon Studiesと名付けられたシリーズとして、マンダラ集や文献目録などが続々と刊行されている(小論末尾の文献目録参照)。
 ポン教はチベット土着の宗教として、その名前だけは一般にも広く知られているが、内容や実体までくわしく説明できる者は、チベット研究者でもきわめてわずかであろう。現在のチベット自治区以外にも、青海省や四川省、あるいはネパールの一部に多くのポン教寺院があり、ポン教の僧侶たちが活発な宗教活動を行っていることも、ほとんど知られていない。独自の経典や図像の体系を有しているが、その規模はチベット仏教をしのぐかもしれない。
 本書の編纂者のひとりである長野氏は、シンポジウムについての報告の中で、ポン教を次のように説明している(長野 二〇〇〇)。

 ポン教は西南中国とヒマラヤ南麓のチベット文化域に広く分布している宗教で、仏教が政権と結びつくまではその地域にドミナントであった。民間信仰やシャマニズム等の土着的要素と密接な関連を保ちながら、独自の高度な教理体系を築き上げ、チベット人の生活の基盤に根を下ろしている。後に優勢となった仏教の哲学・儀礼にも強い影響を与え、仏教の儀礼や宇宙観の随所にポン教からの借用形態を見ることができる。また、文献によって窺われるチベットの社会構造の古い層がポン教徒によって保たれているらしいことが指摘されている。さらに、古いポン教徒はシャンシュン(Zhang zhung)語という未だその系統も文法も明らかにされていない言語を用いていた。この言語はチベット・ビルマ系諸言語の歴史や文語チベット語の成立を論ずるのに不可欠の要素であると同時に、この死後を解読することによって、今まで知られていない歴史と文化を明らかにすることができる。

 このような視点のもとに、長野氏を中心として本格的なポン教研究が始められたのは九〇年代後半のことで、九六年から三年間にわたって文部省(当時)の科学研究費補助金による国際共同研究(学術調査)が実施された。中国藏学研究中心、フランスのCNRS、ノルウェーのオスロ大学、国際チベット学会などと連携した、国際的かつ学際的な共同研究であった。その成果の一部は長野泰彦編『チベット文化域におけるポン教文化の研究』(国立民族学博物館 一九九九)として刊行されている。シンポジウムはこの共同研究を基盤としながらも、テーマや参加者をさらに拡大させ、現在の世界のポン教研究の最先端を示すものとなっている。
 本書の内容は、以下の通りである。

Preface Y. Nagano(長野泰彦)
Introduction S. G. Karmay
Bon and its Relationship to Buddhism
The study of Bon in the West: Past, present and future P. Kvaerne
Comparing Treasuries: Mental states and other mDzod phug lists and passages with parallels in Abhidharma works by Vasubandhu and Asa∫ga or in Praj__p_ramit_ Sutras: A progress report D. Martin
A preliminary comparison of Bonpo and Buddhist cosmology K. Mimaki(御牧克己)
The ‘Bon’ dBal-mo Nyer-bdun (/brgyad) and the Buddhist dBan-phyug-ma Nyer-brgyad: A brief comparison
H. Blezer
rDzogs-chen Doctrines
The Lo rgyus chen mo in the collection of the Ye khri mtha’ sel attributed to Dran-pa nam-mkha’ D. Rossi
Authenticity, effortlessness, delusion and spontaneity in the The Authenticity of Open Awareness and related texts A.-C. Klein
Myth and Rituals
Mandala visualization and possession M. Tachikawa(立川武蔵)
The mKha’ klong gsang mdos : Some questions on ritual structure and cosmology A.-M. Blondeau
The secular surroundings of a Bonpo ceremony: Games, popular rituals and economic structures in the mDos-rgyab of Klu-brag monastery (Nepal) C. Ramble
Victory banners, social prestige and religious identity: Ritualized sponsorship and the revival of Bon monasteries in Amdo Shar-khog M. Schrempf
Bon, Buddhist and Hindu life cycle rituals: A Comparison H. Ishii(石井溥)
A comparative study of the yul lha cult in two areas and its cosmological aspects S. G. Karmay
Monasteries and Lay Communities
The bla ma in the Bon religion in Amdo and Khams Tsering Thar
Bonpo family lineages in Central Tibet Dondrup Lhagyal
The Bon deities depicted in the wall paintings in the Bon-rgya monastery M. Mori(森雅秀)
Khri-brtan Nor-bu-rtse Bon monastery in Kathmandu S. Yamaguchi(山口しのぶ)
Bon in a wider context
Sacrifice and lha pa in the glu rol festival of Reb-skong S. Nagano(長野禎子)
The Indus Valley civilization and early Tibet G. Samuel
Kharamshin: An antidote against evil Ugyen Pelgen
Space, territory, and a stupa in Eastern Nepal: Exploring Himalayan themes and traces of Bon B. Bickel

 一瞥してわかるように、本書の内容はきわめて多岐にわたっている。各論文の詳細を示すことは、紙幅の関係からも、また評者の能力からもほとんど不可能である。ここでは、やや長文になるが、編者の一人であるKarmay氏がIntroductionで行っている各論文の概略的な説明を以下に示そう(原文は英語)。

 本書冒頭のKvaerne論文は、従来のポン教研究を鳥瞰するきわめて明晰な解説である。次のMartinの論文は、比較的古い文献に関する哲学的な考察を行っている。さらに、御牧論文は一四世紀の百科全書的な作品の一部分に対する明快な分析である。第一部の終わりのBlezerの論文は、ある集合尊の起源に関する考察である。第一部はもっぱらポン教と仏教の文献の比較研究を目指すものであるが、これまでにない広い視野で行われている。
 第二部は、まずはじめにRossiの論文でゾクチェンに関する著作が解説されている。これは重要でありながらこれまで欧米の研究者には知られていなかったものである。さらに、Kleinの論文は現代のゾクチェン研究ではほとんど言及されていない別の著作についての詳細な研究である。
 第三部のはじめに置かれた立川論文は、観想法や憑依の概念に関する真摯な考察である。続いてBlondeau論文では世界の表象を主要なテーマとする儀礼が明晰に分析されている。Rambleの論文は、これまで知られていなかった地域的な儀礼をとりあげ、その内部にまで深く踏み込んだ分析を行っている。Schremphの論文は、ある地域の僧院と在家信者とのあいだの儀礼的な経済関係に関する、詳細な調査研究である。次の石井論文は人生儀礼について比較研究を行っている。第三部の締めくくりとなるKarmayの論文は、二つの地域の土着的な神への信仰形態を、比較しながら記述している。
 第四部のはじめのTsering Tharの論文は、二つの地域のポン教社会において、僧侶が果たす役割がどのように変化したかを、批判的に考察している。これに続くDondrup Lhagyal論文は、中央チベットの聖なる五つの家系を、歴史的にくわしく眺めたものである。森論文は、ある僧院内の壁画とタンカに対して、詳細な図像学的な記述を行っている。山口論文は、カトマンドゥ市に近年建立された僧院での、僧侶の日常生活と修行階梯を説明したものである。
 第五部のはじめの長野論文は、アムド地方の村落共同体で、仏教の職能者によって行われる年中儀礼についての調査研究である。Samuel論文は、ポン教の信仰とインダス文明とのあいだに何らかの関係があるのではないかを検討している。Pelgen論文は、儀式の中で男性性器のシンボルが特徴的な役割を果たす、東ブータンの民間儀礼をくわしく説明している。おしまいのBickel論文は、ヒマラヤ山麓にある仏塔に関する興味深い研究である。

 巻頭にあげられているKvaerne氏の論文について、少し補っておく。これはシンポジウム全体の基調講演で、ポン教研究の歴史と現状についてきわめて豊富な情報をもたらしてくれる。Kvaerne氏はチベット学の世界的な権威であるが、若い頃よりポン教についても多くの論考を発表している。現在、ポン教のカンギュルの総合的な目録も準備中である。ポン教に関する概説やポン教研究史については、これまでにも何度か発表しているが(一九八七、一九九四など)、本論はその最新の成果である。なお、シンポジウムが開催された前年には、国際的なチベット学術誌のThe Tibet Journalの第二三号において、氏自身がポン教に関する特集を企画している。
 密教学の立場からのポン教研究の意義について、最後に述べておこう。二つの宗教のあいだにはほとんど接点がないようにも見えるが、伝統的な宗教と土着の宗教、あるいは民間信仰という視点から眺めると、いろいろな重要な点が見いだされる。インドにおいて密教が成立した背景には、伝統的な仏教と、インドの民間的な信仰や呪術との間に何らかの接触や交流があったことが想定されている。とくに儀礼や実践、あるいは多様な尊格などは、ヒンドゥー教を含め、仏教以外の要素を多分に吸収して成立した。チベットにおける仏教とポン教の立場は、インドにおけるこのような密教の成立や伝承に対して、多くの示唆に富むはずである。それはインドに限らず、中国や日本、あるいは、スリランカや東南アジア諸国などにおいて、外来の宗教として仏教が伝来した地域すべてに当てはまることでもある。
 一方、現在のチベットで見られるポン教は、僧院の形態、僧侶の組織、教理、儀礼、図像などさまざまな点において仏教の影響が強く認められる。しかし、それらはまったく同じではない。たとえば、ポン教の神々のイコンが与える全体的な印象は、チベット密教の尊格とほとんど変わらないが、細部に目を向けると、持物やシンボルなどに独自の要素を見いだすことができる。密教の図像を知った上で、ポン教独自の図像の体系を構築したと考えられる。この前提に立てば、ポン教の中に見られる密教の要素を抽出することで、ポン教徒が密教をどのようにとらえていたかがわかるであろう。異宗教でありながら仏教の影響を強く示すポン教から、仏教や密教の特質が逆に照射されるのである。
 なお、すでに本書の目次や各論文の紹介にもあるように、評者もこのシンポジウムの参加者の一人で、本書への執筆の機会に恵まれた。その点からすれば、みずからが寄稿した書を評する資格を欠くことは明らかである。本誌への執筆もいったんは辞退申し上げたのであるが、世界的にも類を見ないポン教に関する総合的な論文集が、わが国から刊行されたことを、広く知っていただくための紹介として、筆を執らせていただいたことをおことわりしておきたい。

文献
S. Karmay & Y. Nagano eds. 2001 A Catalogue of the New Collection of Bonpo Katen Texts, Bon Studies 4, Ethnological Reports 24, National Museum of Ethnology.
S. Karmay & Y. Nagano eds. 2001 A Catalogue of the New Collection of Bonpo Katen Texts: Indices, Bon Studies 5, Ethnological Reports 25, National Museum of Ethnology.
Kvaerne, P. 1987 Bon. In M. Eliade ed., The Encyclopedia of Religion, New York: Macmillan, pp. 277-281.
Kvaerne, P. 1994 The Bon Religion of Tibet: A Surbey of Research. In T. Skorupski and U. Pagel eds., Papers in Honour and Appreciation of Professor David Seyfort Ruegg’s Contribution to Indological, Buddhist and Tibetan Studies, The Buddhist Forum Volume III, London: SOAS, pp. 131-1141.
Kvaerne, P. ed. 1998 Bon Religion of Tibet. The Tibet Journal Vol. 23, No. 4.
長野泰彦編 1999 『チベット文化域におけるポン教文化の研究』(平成8〜10年度文部省科学研究費補助金 国際学術研究・学術調査 研究成果報告書)。
長野泰彦 2000 「文部省OCEシンポジウム「チベット文化域におけるポン教文化」」『民博通信』87: 108-113。
Nagano, Y. & P. J. LaPolla eds.  2001 New Research on Zhangzhung and Related Himalayan Languages, Bon Studies 3, Senri Ethnological Reports 19, Senri: National Museum of Ethnology.
Tenzin Namdak, Y. Naganno & M. Tachikawa 2000 Mandalas of the Bon Religion. Bon Studies 1, Senri Ethnological Reports 12. Osaka: National Museum of Ethnology.
(『密教学研究』第34号 2002年3月、pp. 195-201)