書評:島 岩・坂田貞二編 『聖者たちのインド』春秋社  2000 年


 聖者とはその名の通り、聖性を体現している人間である。その呼び名は地域や時代によってさまざまであるが、宗教の成立や伝承においてなくてはならない存在である。インドの歴史の中で、これまで無数の聖者たちが出現し、そして現在においても多くの聖者が活動し続けていることは誰もが認めるところである。しかし、インドの歴史上の聖者たちの中で、詳細な研究が行われた人物はほとんどいない。仏教を開いた釈迦は別として、ジャイナ教の開祖マハーヴィーラ、シーク派の開祖ナーシクなどの研究もきわめてわずかである。さらに、現代を生きる聖者たちを客観的な立場であつかった研究はほとんど見られない。ありふれた表現であるが、神秘のヴェールに包まれているのがインドの聖者の世界なのである。
 島岩、坂田貞二の二氏の編纂による本書『聖者たちのインド』は、そのような渇を癒すのに十分な成果である。本書の帯にはその内容が次のように簡潔にまとめられている。

「人々を魅了し奇跡を起こし、時にイカサマと糾弾され社会問題と化す<聖者>とはいかなる存在か。大ブームになったサイババ、世界的に展開するマハリシと超越瞑想、仏教の伝統を現代社会に生かそうとするゴエンカやサンガラクシタ、数々のトラブルを起こしオウム事件の先蹤ともいわれるラジニーシとその教団など現代の聖者の紹介と、聖者を生む歴史・伝統・社会の分析の双方から<聖者>の本質を鮮やかに描き出す」

 また、編者たちによる「あとがき」には、本書の編集方針として、次の二点があげられる。

(1)ワールドワイドに活躍している現代インドの聖者を取り上げること。
(2)現代インドの聖者を成り立たしめている背景に関して、歴史学的・宗教学的・社会学的・人類学的な視覚から、さまざまな考察を行うこと。

 この書の母体になったのは、1995年から97年にかけて行われたインドの聖者に関する3回の研究会である。この中でのべ11人による研究発表が行われ、そのうちのいくつかの研究テーマは、そのまま本書の論考のタイトルにもなっている。発表の中には古代インドの仏教や、バングラデシュ、パキスタンのイスラム教の聖者たちに関する発表もあったが、先ほどの編集方針に合致しないためか、残念ながら本書には収録されていない。
 本書の内容を目次にしたがって示す。

プロローグ 島岩
第I部 現代インドの聖者たち
第1章 マハリシ・マヘーシュ・ヨーギーと超越瞑想運動 星川啓慈・越智秀一
第2章 バクティヴェーダーンタ・スワーミーとクリシュナ意識運動 中野毅
第3章 ラジニーシ教団 教団の形成・外部社会との対立・対立の回避 足沢一成
第4章 サイババと奇跡 山下博司
第5章 ゴエンカとヴィパッサナー瞑想法 島岩
第6章 サンガラクシタとユーロブディズムの成立 島岩
第II部 インド聖者論
歴史的考察 聖者の伝統
第7章 世俗を捨てた聖者シャンカラ・アーチャーリヤ 澤井義次
第8章 ヴァッラバ師の諸相 思想家・呪術者・組織者 坂田貞二
第9章 ラーマクリシュナと近代インド 臼田雅之
宗教学・社会学、人類学的考察
第10章 聖者のパラドックス 比較宗教学的考察の試み 宮本要太郎
第11章 インドの聖者と政治 社会学・人類学的考察 杉本良男
エピローグ 島岩

 全体が2部から構成され、第I部では現代のインドで活動を続けている聖者やその教団をおもに取り上げている。個人的な宗教実践として瞑想を重視し、インド文化圏を越えて、欧米や日本でも信者を獲得している教団が選ばれている。はじめの4章がヒンドゥー教、あとの2章は仏教をバックグラウンドとするが、思想や教理、実践などには共通する部分も多い。なお第5章のゴエンカはミャンマー出身(ただしインド系)で、第6章のサンガラクシタはイギリス人である点は、第1部の「現代インドの聖者たち」というタイトルに必ずしも一致しない。サンガラクシタの教団ユーロブディズムの活動領域も、その名のとおりヨーロッパを中心とする。
 第II部はさらに二つに分かれる。「歴史的考察」とまとめられているはじめの3論文は、シャンカラ・アーチャーリヤ、ヴァッラバ、ラーマクリシュナという3人の歴史上の聖者を取り上げ、それぞれの時代背景を視野に入れながら聖者やその教団の特徴や意義を説き明かす。後半の2論文は「宗教学・社会学・人類学的考察」と名付けられている。各論文の副題に示すとおり、これら三つの学問領域からの聖者へのアプローチを分担して行っている。
 執筆者の顔ぶれや専門領域も、編集方針の第二の点にふさわしく多彩である。インド哲学、ヒンドゥー教、インド文学、歴史学、宗教学、社会人類学、さらには治療論・治療と文化論を専門とする研究者も含まれている。「癒し」を重要なキーワードとする現代の聖者に格好の研究分野なのであろう。
 全体には編者の一人である島氏によるプロローグとエピローグが前後におかれている。プロローグの中で島氏は、20世紀に「対抗文化」あるいは「代替文化」として登場した各種の宗教の流れをふまえた上で、インドで聖者が出現する背景やメカニズムを鳥瞰している。このプロローグは、本論の11の論文がそれぞれどのように位置づけられるかも示す。一方のエピローグは、本書全体のまとめと言うよりも、最後の杉本氏の論文が取り上げた宗教と政治や社会の問題を受け継ぎ、それを補完するように見える。島氏はこの中で、アジアの近代化の流れの中で伝統的な諸宗教がそれぞれ変容していく過程と、それと平行して出現した原理主義やカルトと呼ばれる諸宗教を取り上げる。
 本書に収録された11の論文は、いずれも斬新な内容と豊富な情報を含んでいるが、個々の内容の紹介は紙幅の関係もあり、ここでは行わない。本書の書評・紹介としては、すでに高島淳氏と沼田一郎氏のものがあり(『南アジア研究』第13号、『印度哲学仏教学』第16号)、後者には各論文の要約も含まれている。これらとの重複を避けて、以下には本書全体についていくつかの点を指摘しておこう。
 何よりもまず評価すべき点は、すでに述べたように、わが国においてほとんど類書のないインドの聖者について、本格的に取り組んだパイオニア的な成果であることであろう。これまでわが国のインド学は、インド哲学や仏教学という古典的かつ哲学的な文献を主としてあつかう研究者が大勢を占めてきた。ヒンドゥー教やインド文学の領域でも古典語による文献学が主流であった。現代インドの聖者に関するわが国の研究の蓄積はきわめてわずかである。一方、人類学者が現代インドの宗教を扱う場合、研究者自身のフィールドワークにもとづくため、対象が特定の村落など比較的小規模な範囲にとどまり、数千、数万という信者を擁し、活動の拠点をインドの外にも置くような教団は、研究の対象とはなりえなかった。
 もちろん、本書が取り上げた聖者や教団についての情報が、これまでにもたらされていなかったわけではない。しかし、そのほとんどは教団内部からのもので、護教的立場からの教祖や教理の紹介、あるいは礼賛に終始している。このような文献に客観的な記述はほとんど期待できない。
 もっとも、本書の執筆者たちが、すべて純粋に外部から記述や考察を行っているわけではない。むしろ、実体験を重視する立場からの記述が多い点も、本書の特徴のひとつにあげられる。たとえば、第I部の執筆者たちの多くは、何らかの形で「体験」をふまえている。実際に超越瞑想を実践している越智氏、ヴィパッサナー瞑想法の体験コースに入ったり、ユーロブディズムの信者へのインタビューを行った島氏、サイババのダルシャンを試みた山下氏などである。またムンバイー在住の足沢氏は、ラジニーシ教団の本拠地であるプネー市とは至近距離にあり、教団の動向に関する生の情報を入手している。さらに、ラーマクリシュナを取り上げた臼田氏は、インド留学中に、カルカッタにあるラーマクリシュナ・ミッションに長期滞在した経験を持つ。
 このような実際の体験は、聖者や教団の全体像をとらえるには必ずしも十分ではないが、体験を通して自らいだいた疑問は、単なる部外者の客観的な記述よりも、より生き生きした描写を生み出すことがあるのもたしかである。
 現代のインドを中心にあつかいながらも、歴史的な背景をつねに重視する態度がほぼ共通してみられることも、指摘すべきであろう。とくに、近代ベンガル史や近代インド史の中にラーマクリシュナとその後継者ヴィヴェーカーナンダを位置づける臼田氏の論文は、その一方でラーマクリシュナ自身の個人的資質にまで踏み込むことで、密度の濃い内容になっている。歴史的文脈で聖者をあつかう上できわめて示唆に富む論考である。
 聖者に対してさまざまな視点からのアプローチを試みていることは、編集の方針にも見られたように、編者たちの意図するところである。実際、多くの論文が、従来のインド学の枠組みを越えた内容を持つ。聖者を読み解くためには、インド学で支配的な文献学はきわめて非力である。しかし、全体を通してみると、本書における多角的アプローチは、いささか物足りなさを感じさせる。インド学とは異なるディシプリンとしてあげた宗教学や人類学の論文がわずか2編にとどまり、しかもそのうち、宮本氏の論文はインドの聖者論から離れ、キリスト教、仏教、イスラム教の聖者の一般的な類型を抽出するにとどまり、杉本氏の論文では聖者と政治というテーマが、実際には宗教と政治という、より一般的な問題に置き換えられている。島氏のエピローグであつかう近代社会の形成と伝統的宗教の変容という問題も、聖者論に直接結びつくものではない。
 一方、本書で取り上げた聖者やその教団のうち、仏教をバックグラウンドとする2編(第5、6章)以外は、ほとんどが思想の基盤をヴェーダーンタ的な伝統におくため、全体を通して単調な印象を受ける。これはインド文化圏を越えた突出した聖者をあつかうという制約があったためかも知れないが、インド世界には無数の「聖者の群れ」がいることも見逃すべきではないだろう。ヒンドゥー教のサドゥー、イスラム教のフォキール、歴史的に見れば仏教の菩薩や成就者たちも聖者としてとらえることが可能である。インドの聖者の持つ多様性が十分示されていないことが惜しまれる。
 編者がふたりであることの意義が必ずしも明瞭ではないことも、このことに関連する。プロローグとエピローグの両者を島氏が執筆しているところから見ても、本書は坂田氏よりも島氏の問題意識に近い視点から編纂されているように感じられる。もう一方の坂田氏が、インドの巡礼や民衆文学にすぐれた成果をこれまであげてこられただけに、聖者自身が説く思想や実践よりも、教団を支える信者や、さらにその周囲にあるインドの大衆の視点からの聖者論も可能であったはずである。坂田氏自身によるインドの聖者に関する総論があれば、本書全体が複眼的な視点を有することができたであろう。
 複数の執筆者による論文集の場合、やむを得ないことかも知れないが、表記の不統一、重複的な内容が散見される。また、明らかな誤認やわかりにくい記述もいくつか認められる。「上座部仏教」と「上座仏教」は「上座部仏教」に統一すべきであろうし、同じ「プロテスタント的」という形容詞が、執筆者によって異なる意味を持つ(62、152頁)。「クリシュナがヴィシュヌ神やナーラーヤナ神と同一視されていくことで、バラモン教にも取り入れられていった」(55頁)という文中の「バラモン教」は「ヒンドゥー教」にすべきであろう。ヴァッラバが仏教などのヒンドゥー教を批判する諸宗教についても学び、公開の場で論破したという記述(186頁)は、歴史的に見ておそらくあり得ない。「フェイス・トゥ・フェイスのコムニタス的構造」(21頁)、「マンダラ的構造」(272頁他)、「金剛乗仏教圏」(271頁)というような造語も、意図することを理解できなくはないが、一般の読者のためには、もう少しくわしい説明が必要であろう。
 このような問題が含まれてはいるが、類書の少ないインドの聖者を考える上で、本書がこの分野の基本図書となることはたしかである。実際、本書の中で提示されている聖者の三類型(118頁)や、聖者を成り立たせる三要素(172頁)、さらに教祖と宗祖の間にある差異(213頁)などは、インドの聖者に限らず、宗教や聖者一般に理解する上できわめて示唆に富み有益である。本書の母体となった研究会は、現在でも「バクティ研究会」として活動を続けていることが「あとがき」に記されている。さらなる研究の継続と進展が期待される。
(『北陸宗教文化』第14号 2002年3月 pp. 156-160)