北村太道、ツルティム・ケサン共訳『秘密集会安立次第論註釈 チベット密教の真髄----』永田文昌堂


 本書はチベット仏教の最重要人物の一人ツォンカパ・ロサンタクパによる『秘密集会安立次第論註釈』rNam gzhag rim pa'i rnam bshad dpal gsang ba 'dus pa'i gnad gyi don gsal ba(以下『安立次第論註釈』)の全訳である。巻末には九〇葉におよぶ同書のチベット語テキストの影印版も付されている。
 翻訳者である北村太道氏とツルティム・ケサン氏(日本名・白館戒雲)のおふたりは、すでに長年にわたり、チベット仏教のテキスト研究や現地調査に関する共同研究を遂行してこられた。たとえば、灌頂儀礼に関する北村氏の一連の調査研究において、ツルティム氏はインフォーマント以上の貢献を果たしておられる。テキスト研究に関しても、本書と同じツォンカパによる密教概論『真言道次第』sNgags rim chen poの翻訳研究を、現在も継続的に発表されている。わが国のチベット仏教学者の中でも、独自の学風を持って、精力的に活動を続け、大きな成果を上げてこられた研究者たちである。
 本書はこの両者による「チベット密教資料翻訳シリーズ」の第三巻として刊行された。ちなみに第一巻はガワン・パルデンによる『大秘密四タントラ概論』(永田文昌堂、一九九四)、第二巻はツォンカパによる『吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第』(同、一九九五)である。これらの三冊が、わずか五年の間に上梓されていることからも、両氏がこのシリーズにかける意気込みが感じられる。各巻にはそれぞれ副題も付いており、第一巻は「チベット密教入門」第二巻は「チベット密教実践入門」、そして本書第三巻は「チベット密教の真髄」である。入門的な内容から徐々に高度なものへという長期的な展望のもとに、翻訳と出版が進められてきたことがみてとれる。
 さらに、ツルティム氏による同書の「はしがき」によれば、本書の翻訳はダライラマ一四世からとくに依頼されたものであるという。いわば、勅命をうけての翻訳として、並々ならぬ決意のもとでその作業が進められたのであろう。
 『安立次第論註釈』は、そのタイトルにあるように、ナーガブッディNagabuddhiによる『秘密集会安立次第論』(以下『安立次第論』)に対する註釈の形をとっている。ナーガブッディは『秘密集会タントラ』のインドにおける二大流派のひとつ聖者流に属する学匠で、他にも『秘密集会マンダラ儀軌二十』などの著作でも知られている。聖者流の文献としては、龍樹による『五次第』Pancakramaや『成就法略集』Piindikrtasahanaがよく知られているが、ナーガブッディの『安立次第論』は、これらとならぶ同派の重要な典籍である。ナーガブッディの正確な年代は未詳であるが、聖者流の中では比較的初期に位置づけられ、生起次第と究竟次第という同派の実践体系や、それにもとづくマンダラ理論の形成などに、『安立次第論』は大きく関与したと考えられる。
 なお『安立次第論』の内容の簡単な紹介は、すでに田中公明氏の『性と死の密教』(春秋社、一九九七、一五五−一六〇頁)に含まれている。田中氏はこの書の中で、『安立次第論』などの聖者流の実践体系と、母タントラ系の密教のそれとの関係や、さらにそこから『時輪タントラ』へといたるインド後期密教の成仏論の展開についても論じている。本書の理解にも役立つであろう。
 ナーガブッディの『安立次第論』への註釈という形をとりながらも、ツォンカパによる『安立次第論註釈』は、北村氏の言葉によれば、「単なる逐語釈でも達意釈でもなく、その内容からして、堂々たる無上瑜伽密教についての大論文」であるという。実際、本文中にナーガブッディの『安立次第論』からの引用文や引用語句は散発的に現れるにすぎず、大半がツォンカパ自身による言葉で記述が進められている。
 北村氏は「はしがき」の中で、『安立次第論註釈』の内容について、次のようにまとめている。

「(本書は)われわれの、生・死・中有が変化、法、受容の三身と同じ性質のもとして変化させ、両者を結びつけるという巧みな方便を示すことが主な内容になっている。つまり人間は本来、智慧の身体を具えた存在であったが、自らの業と煩悩に制圧され、その支配下にあるが故に、空性義に無知であり、粗なる大種の身として有に彷徨するのである。それ故、身体は成立しても光を失い、沈んだただの一般の相としての男女の粗なる形態を採っているにすぎないと考える。しかし、その身体の生滅、つまり母の胎内の五位の段階を経て出生する人間の身体として生を享けるあり方と同じく、本初尊を起こさせるのである。」

 原典の翻訳は文献学の基礎であるが、その成果を発表することは、論文や研究書の刊行よりもはるかにむずかしい。たったひとつの誤訳や誤読が、その価値を失うことにつながりかねないからである。ツルティム氏というチベット語を母国語とする共訳者を得ていても、本書のような特殊な内容を持ったテキストを正しく理解することは容易ではないであろう。本書を含む一連の翻訳作業を継続するおふたりの翻訳者には、大きな敬意を払いたい。このような地道な努力によって、われわれはチベット仏教の基本的かつ重要な文献を、日本語で読むことが可能になるのである。訳文も両氏の学問に対する真摯な姿勢がよくあらわれたものである。
 チベット仏教、とくにその実践に対する関心は、欧米では以前より顕著があったが、わが国でも近年急速に高まっている。しかし、その一方で信頼のおけない解説書や、場合によっては、伝統的なチベット仏教とは正反対の内容を持つ文献も一部に出回っていることもたしかである。それがチベット仏教への誤った理解や偏見にもつながっている。その背景には、チベット仏教の原典からの正しい翻訳が、これまであまりに少なかったこともあげられるであろう。本書の刊行が、そのような傾向に歯止めをかけることにつながればと思う。
 本書の翻訳部分には、全体を通じて五百あまりの訳注が付されている。テキストの異読や参考文献の指摘のほかに、ツォンカパが本文中に引用したり言及するテキストの出典箇所を示したものも多い。ツォンカパの博覧強記ぶりは『真言道次第』などの他の著作でも顕著であるが、その典拠を明示するのは容易ではない。文献の同定と、その出典箇所の確定、両者のテキストの校合などを必要とするからである。このために両翻訳者が費やした労力は、並大抵のものではないであろう。
 本書には人名、典籍名、語彙の三つの項目からなる索引も付されている。はじめのふたつはチベット語、おわりの語彙は日本語による。典籍名には西蔵大蔵経の東北目録の番号も付されて、研究者への便がはかられている。ツォンカパが本書を執筆するために用いた文献や、本文で取り上げたテーマや事項を鳥瞰する上でも有益である。
 評者が気になった点を最後に二、三あげておこう。
 第一に翻訳についてであるが、もう少し平易な文章を用いたり、文章の構造に工夫をこらすなどして、日本語として読みやすい訳文にしていただければと思う。そのためには、仏教の専門用語や伝統的な訳語にとらわれないことも、場合によっては必要であろう。また、ツォンカパの文章そのものが、他のチベット人の著作に比べても、必ずしも読みやすいものではないので、ひとつづきの文章をいくつかに分けたり、理解をはかるための語句を意識的に補ってもよいのではないだろうか。
 本書にはふたりの翻訳者によるそれぞれの簡単な「はしがき」があるほかは、内容についての研究や考察は含まれない。しかも、ツルティム氏の「はしがき」は本書の翻訳にいたる経緯を述べたもので、『安立次第論註釈』の内容の理解につながるものではない。北村氏の「はしがき」は、本文からの引用をまじえながら、内容の紹介をおこなっているが、その分量は約三頁にすぎない。本書の翻訳を読んで、その内容を十分理解できるのは、この分野に精通したごくひとにぎりの研究者のみであろう。チベット仏教に関心のある一般の読者や、あるいはせめてチベットやインドの密教以外を専門とする仏教学者が、スムーズに本書に入っていくためには、文献の背景となるインド密教の修行体系やツォンカパによる密教理解についての解説が、ある程度は必要であろう。
 わが国におけるチベット語文献の翻訳研究としては、たとえば東洋文庫から刊行されているトゥカンの『一切宗義』をあつかった『西蔵仏教宗義研究』のシリーズなどが、ひとつのスタンダードとなっている。これらに含まれるような詳細なイントロダクションと周到な訳注が、この書にも与えられればと思う。
 本書でとりあげられた『安立次第論註釈』が、インドの密教経典にもとづく論書の注釈書であることにも、さらなる配慮が必要であろう。たしかに同書において、註釈が与えられているはずのナーガブッディの著作からの引用は限られており、それをくわしく解説したり語句の説明をおこなうことはほとんどない。しかし、ツォンカパがインド人の著作の注釈書という形で自分の著述をおこなったということは、重要な意味を持っていたはずである。ツォンカパがナーガブッディの著作に何を見いだそうとしたのか、それにもとづいて彼自身がどのような考え方を示したかったのかが、おそらくこの文献を理解するための重要な点となるであろう。ツォンカパにはじまるゲルク派が『秘密集会タントラ』を重視したことはよく知られているが、その具体的な理由も、おそらくここにあるであろう。そのためには、少なくとも『秘密集会タントラ』、ナーガブッディの『安立次第論』、そしてツォンカパの『安立次第論註釈』という三つのレベルを分けて、実践体系やマンダラ理論の展開を跡づけることが必要である。もっとも、これは本書を手にしたわれわれ自身の課題でもある。
(『密教学研究』第33号 2001年3月 pp. 174-178)