東インド・オリッサ州の密教美術

(3)神は細部に宿り給う

 「神は細部に宿り給う」というのは、イコノロジー(図像解釈学)研究を提唱した有名な美術史家A.ヴァールブルクが好んだ格言である。彼は美術作品やその図像表現の細部にわたる具体的な研究から、人類の精神史や文化の体系を総体的に明らかにしようとしたのである。彼のイコノロジー研究は、今世紀における美術史研究の一大潮流となったばかりではなく、哲学、歴史学、文学、人類学などのさまざまな領域に大きな影響を与えた。
 オリッサの仏教美術の作品をいくつか取り上げ、その「細部」から当時この地に流行していた密教について探ってみよう。

 ウダヤギリ遺跡から、多くの眷属尊を伴った四臂観音の立像が出土している(図一)。僧院や仏塔から少し離れた高台で、作品の下部を土中に埋めたまま、やや後ろに傾いて立っている。表面は雨水や直射日光のために若干磨滅したり、損傷を受けているところもあるが、保存状態はそれほど悪くはない。
 中央にはほぼ等身大の四臂観音が、腰をややひねって立ち、その周囲には複数の人物がいる。右の足元には観音の方を見ながら手に持った睡蓮の花弁を右手で開くしぐさをする女尊がいる。観音の脇侍としてもっとも一般に見られるターラーである。その反対側には四臂で忿怒形を示す馬頭がいる。馬頭も観音の眷属で、わが国でも馬頭観音として知られている。ただし、インドでは馬頭はつねにこのような忿怒形で表され、しかも観音の脇侍以外で単独で表されることはない。観音のむかって右上には結跏趺坐で坐る四臂の女尊がいる。水瓶と数珠などの持物からブリクティーに比定できる。それらの三尊はオリッサの観音の脇侍としてしばしば登場し、パーラ朝の作例でも観音の脇侍となることが多い。
 これ以外の人物の比定は容易ではない。ブリクティーの反対側には観音にむかって合掌する女尊がいる。そして作品の上部には横一列に七尊の仏坐像が、建造物を模した小さな龕の中に置かれ、さらにその下には、やせこけた四人の人物が合掌したり、供物を供えるしぐさをしている。
 これらの人物たちを解釈できる有力な文献がある。わが国の密教でも重要視された『不空羂索神変真言経』という経典である。同経の中には経題にもある不空羂索観音を中心としたマンダラが何種類も説かれるが、その中のひとつに、中央の観音の頭上に七仏を横一列に配し、ターラーや馬頭をはじめとする眷属尊を周囲に置くものがある。経典の記述から考えて、尊名が不明であった合掌する尊格はシュヴェーターという女尊であることがわかる。また七仏の下に描かれているのは、マンダラの中に登場する「苦行者」たちであると考えられる。やせこけた姿をしていたのはそのためであろう。この作品では、これらの人物を配した部分に意図的に凹凸を付け、山岳表現をとっている。経典では不空羂索観音を中心とするこのマンダラが、観音の聖地である補陀洛山という山を舞台とすることが説かれている。
 もっとも経典の記述がすべて忠実に再現されているわけではない。経典ではこれ以外にも多数の尊格や人物が言及され、仏塔や龍王までも周囲を取り囲むという。ターラーなどの眷属尊も、経典の記述にしたがったと見るよりは、類似の眷属尊を伴った観音の他の作例と同じ伝統で制作されたと考えるべきである。造像の伝統をふまえた上で、可能な部分にのみ経典の記述を反映させたというのが妥当な解釈であろう。
 『不空羂索神変真言経』は中国密教や日本密教では重視されたが、インドでは後世の密教にほとんど影響を与えなかった。また、この経典に含まれる尊容の記述に一致するような図像作品も知られていなかった。しかし、ウダヤギリのこの四臂観音は、オリッサにおいて同経が流布していた時代があったことを予想させる。そして作品の様式や銘文などから、この作品の年代を確定できれば、逆に同経の成立年代に関する重要な資料となるかもしれない。

 ラリタギリ遺跡には、ラトナギリやウダヤギリには類例のない独特の作品が出土している。それは、等身大の八大菩薩の単独像のセットである。観音、弥勒、文殊、金剛手、普賢、地蔵、虚空蔵、除蓋障の八尊からなる八大菩薩そのものは、オリッサのみならずパーラ朝でも人気があった菩薩のグループで、いずれの地域からも出土例がある。しかし、それらは一枚のパネルに八尊すべてを表したり、主尊の如来像の脇侍のように置くだけで、一尊一尊を別の石材に刻んだものは、ラリタギリ以外からは発見されていない。類似の作例があるのは、インドでは西インドのエローラ石窟の後期窟に限られる。そして、ラリタギリの八大菩薩単独像で注目されるのは、等身大という規模の大きさもさることながら、それぞれが眷属尊を伴っていることである。このような眷属尊はエローラでも見られない。
 ラリタギリの作品は、現在、一部がカルカッタのインド博物館に展示されているが、ほとんどが現地収蔵庫に安置されている。これらは様式や図像上の特徴から、少なくとも四つのセットに分けることができる。このうち一部の作品には眷属尊が現れないが、大半は足元に小さく女尊や男尊が表現されている。彼らの中には特徴的な持物を持っていたり、独特の尊容をそなえているものもある。
 観音の脇侍としては、先述のターラーとブリクティーが置かれる。それぞれの尊容もウダヤギリの四臂観音の脇侍と共通し、オリッサで一般的に見られるものであるが、胎蔵マンダラで、観音を中心とする蓮華部院の中に同じ姿を見いだすことができる。
 金剛手の作例のひとつには、金剛杵を載せた睡蓮を持った女尊と、金剛杵を直接握る女尊が表されている。類似の尊格は、胎蔵マンダラの金剛手院に、やはり金剛手の眷属として登場する。睡蓮を持つものが金剛牙、直接手にするのがマーマキーと呼ばれている。オリッサ州立博物館には、バジュラギリから出土した四臂の金剛手立像が展示されているが、この作品にも金剛杵を捧げ持つ女尊が付き従っている(図二)。
 文殊に比定される作品では、脇侍の尊格は一定しない。その中の一尊に剣を握って結跏趺坐で坐る女尊が現れる。類似の女尊がやはり胎蔵マンダラの文殊院に二尊含まれる。ケーシニーとウパケーシニーである。またウダヤギリ遺跡の近くには、文殊の立像が出土しており、その足元には水牛にまたがったヤマーンタカ(大威徳明王)が刻出されている。ヤマーンタカも文殊の眷属(あるいはその忿怒形をとった姿)としてよく知られ、胎蔵マンダラに含まれる。
 このほかの尊では、剣を載せた睡蓮を持つ女尊が虚空蔵の脇侍として現れる。胎蔵マンダラでは虚空無垢という尊格が、やはり類似の持物を持って虚空蔵院に置かれている。また地蔵の作例のひとつに宝珠を持った男性が現れる。胎蔵マンダラの地蔵院の中で探すと、宝手菩薩がその名のとおり宝珠を手にして描かれている。
 このように、ラリタギリの八大菩薩単独像の左右に小さく表された脇侍たちの姿は、そのいくつかを胎蔵マンダラの中に見いだすことができる。彼らはいずれもそれぞれの主尊の菩薩を中心とするグループに含まれている。
 しかし、八大菩薩像のこれらの脇侍尊のすべてが、マンダラの中に現れるわけではない。むしろそれらは例外的で、大半は明確な同定の根拠を有していない。その多くは睡蓮を持って輪王坐で坐ったり(図三)、あるいは脇侍にふさわしく払子を持った姿のものたちである。また一部の脇侍は主尊と同じ持物を持っている。彼らはいわば「名もない脇侍」たちであり、それに交じって特定の名称や尊容が与えられた脇侍が散発的に登場するのである。
 胎蔵マンダラに見られるような何百という尊格が一度にできあがったとは考えられない。八大菩薩のそれぞれが眷属尊を増やしていく過程で、名称や尊容が次第に固定していったと考えた方が自然であろう。ラリタギリの八大菩薩と眷属尊たちが、胎蔵マンダラの典拠となった『大日経』系の密教の流れの中で制作されたことはまずまちがいないが、彼らの姿はマンダラ形成におけるこのような状況を反映しているのかもしれない。
 それにしても、このような巨大な八大菩薩像たちが何セットも、いったい何のために制作され、どこに安置されていたのであろうか。僧院や仏塔を飾るためなのか、それとも専用の祠堂のようなものがあったのであろうか。その場合、ちょうど東寺の講堂のように、その配列は胎蔵マンダラを立体的に表現しようという意識があったのであろうか。

 オリッサ州の仏教美術の重要性は、個々の作品の持つ美術作品としての価値にだけあるのではない。それらは総体的に扱われることで、さらに大きな意味を持つようになる。たとえば、オリッサの仏教美術に表された尊像の種類を、パーラ朝の版図であったベンガル地方やビハール地方のそれと比較すると、両者のあいだには明らかな差異がある。これは両地域のあいだで好まれた尊格や主題が異なることや、両地域で受け継がれた造像の伝統の違い、さらにはそれを生み出した密教そのものが異なるものであったことを表している。
 われわれはインド仏教の最終的な段階が密教の時代であり、それがあたかも一枚岩のようなソリッドなものとして理解しがちである。そして、その内部ではチベット仏教の経典分類に見られるように、密教がいくつかの段階を経ながらも直線的に発展していったようなつもりでいる。しかしオリッサの図像作品に見られるこのような地域性は、インド密教の内部が重層的かつ複線的であったことを強く示している。また、図像上の様式や主題の一部に見られるパーラ朝の作品との断絶や、逆に西インド、あるいは東南アジアとのつながりは、この地域の密教が、つねに外にむかって開かれていたことを予想させる。(『春秋』第414号 1999年11月 pp. 13-16)