東インド・オリッサ州の密教美術

(1)密教美術の「ふるさと」

 インド東部に位置し、ベンガル湾に面するオリッサ州は、日本の密教美術の「ふるさと」と呼ばれてきた。ここはマハーナディー川を中心とした肥沃な平野が広がり、古くから文化の栄えた地域である。オリッサの名が歴史に登場するのは、紀元前三世紀のアショーカ王の故事であろう。当時、カリンガと呼ばれたこの地を攻略し、多数の犠牲者を出したことから、王が仏教に傾倒していったことはよく知られている。七世紀前半にインドを訪れた玄奘も、オリッサについての短い記述を残している。
 現在のオリッサは、ヒンドゥー教の聖地として名高い。海岸に近いプリーには、ヒンドゥー教の四大聖地のひとつであるジャガンナート寺院があり、インド各地から集まる巡礼者の姿が絶えない。その北およそ二〇キロメートルにあるコナーラクには、太陽神の巨大な寺院が残されている。

 なぜこの地が密教美術のふるさとと呼ばれるようになったのであろうか。州都ブバネーシュワルやプリーを擁するプリー地区の北に、カタックと呼ばれる地区がある。ここに複数の仏教寺院の跡があることは、すでに前世紀の終わりに知られていたが、一九五〇年代に入り、インド政府考古局の手によって、その中のひとつラトナギリの僧院跡(図一)の本格的な発掘が進められ、インド美術の歴史を塗り替えるような発見が相次いだ。
 ラトナギリの僧院跡からはおびただしい数の石像彫刻が発掘され、その大半が六、七世紀以降のインド密教の時代に属することが明らかになった。しかも、その中には定印を結び、菩薩の姿をとった胎蔵マンダラに登場する大日如来や、光背の左右に八大菩薩をしたがえた釈迦像なども発見されたのである。八大菩薩も胎蔵マンダラをはじめとする初期・中期密教で重要な位置を占める菩薩のグループである。インドにおける密教仏の作例は、オリッサの北に位置するベンガル地方やビハール地方からのものがすでに知られていたが、その中にはわが国の密教美術に直接結びつくこのような作品はまったく知られていなかった。もっとも、インド考古局は当初これらの作品の持つ意義を十分把握していなかったようである。そのため、たとえば胎蔵大日如来を特殊な文殊として報告している。
 オリッサの密教美術の重要性にいち早く気付いたのは、わが国の故佐和隆研博士であった。一九六〇年代に現地を訪れ、遺跡の発掘現場に立ち会い、いくつかの報告を発表している。そして一九八〇年には自ら調査隊を組織し、長期にわたる現地調査を行った。その結果、先述の胎蔵大日如来や八大菩薩の多くの作例をはじめ、文字で構成された種子マンダラと呼ばれるマンダラの浮彫や、胎蔵や金剛界のマンダラの尊格で構成された尊像彫刻があらたに発見された。マンダラがすでに失われてしまったといわれるインドで、マンダラそのものや、マンダラと密接に関係する作例が発見され、しかもそのマンダラとは、わが国にも伝えられた胎蔵と金剛界の両部のマンダラだったのである。
 オリッサの密教美術については、その後も佐和氏の調査隊の主要なメンバーであった頼富本宏博士によって継続的に研究が続けられ、インド密教史における重要性が明らかにされた。現地を訪れたインド美術史や仏教学の研究者も多い。

 「密教美術のふるさと」という言葉にひかれて、筆者が現地をはじめて訪れたのは一九九五年の三月のことであった。オリッサに到着してはじめに感じたのは、「密教」ということばのイメージと、現地の気候や風土との違和感であった。三月のインドは乾期のさなかで、すでに摂氏三〇度を越す日が続く。遺跡へとむかう乾いた道路の左右に広がるのは、広大な米作地帯で、ココヤシの木やため池が点々としてある他は、山らしい山も見あたらない。遺跡に到着すると、さほど高くもない丘陵に僧院跡や崩れかけた仏塔があった。
 日本の密教は「山の宗教」である。空海も最澄も密教の修行の場として山を選んだ。高野山も比叡山も樹木の生い茂り、鬱蒼とした木立の中に大規模な寺院が点在している。山の宗教であったから修験道や神道と結びつき、回峰行のような修行法も生み出されたのであろう。高地特有の低温と湿気も、これらの密教寺院につきものである。梅雨時にはカビに悩まされ、厳冬期にはあらゆるものが凍り付いてしまう。
 カタック地区の仏教遺跡は、ラトナギリをはじめ「ギリ」という語がつくものが多い。ギリとは山のことで「ラトナギリ」は「宝の山」を意味する。遺跡のひとつに「バジュラギリ」という名の遺跡がある。「金剛の山」という意味であるが、山を峰に置き換えれば、空海が開いた金剛峰寺という寺院名と同じである。しかし、ラトナギリもバジュラギリも、あるいは他の「ギリ」のつく遺跡も、われわれの目から見れば山というよりは、せいぜい丘か高台である。
 ビハール州の大僧院跡であるナーランダーやヴィクラマシーラなどの遺跡を見たものの目には、オリッサの仏教寺院の規模はほほえましいほど小さいものだ。ナーランダーが数千人を超える学僧を擁する国際的な仏教センターであったことを考えれば、ここはローカルなカレッジといったところであろう。
 しかし寺院の規模が小さいことは、必ずしもこの地の仏教が劣悪な状況にあったことは意味しない。むしろ、選ばれた少数の僧侶が恵まれた環境で修行や学問に励んでいた姿を髣髴とさせる。その理由のひとつは仏像の数である。たとえばナーランダーの寺院跡からも相当数の仏像が出土しているが、その数はせいぜい数百で、この寺院が擁していた僧侶数から見ればそれほど大きいものではない。これに対して、ラトナギリは僧院の規模から考えて、僧侶の数は百人にも満たなかったと推定されるが、これに対し作例数は五百以上にものぼる。しかもラトナギリをはじめカタックの仏教遺跡からは、像高が三メートルにもおよぶ本尊仏や、等身大もしくはそれ以上の大規模な作品が多数出土している。ビハールやベンガル地方の作品でこれに匹敵する規模の作品はきわめて稀である。
 オリッサの仏教寺院の中のこれらの仏像は、おそらく近郊の在家信者からの寄進であったであろう。信仰心の厚い比較的裕福な在家信者に、寺院が支えられていたことが予想される。ナーランダーなどの大僧院が、パーラ朝というこの時代の王朝の庇護のもとで存続していたのに対し、オリッサの仏教寺院は一般の民衆との、より強固な結びつきの中で活動を続けていたのであろう。そしてパーラ朝の版図にあった諸寺院が、王朝の滅亡とともにその支援を失い、ムスリムの軍勢によって壊滅した後にも、オリッサではかなり後世まで仏教が存続していたと伝えられている。

  日本の密教美術とのつながりが強調されることの多いオリッサの仏教美術であるが、パーラ朝の仏教美術との比較からも、いろいろ興味深い点がある。
 たとえば、パーラ朝の釈迦像で、脇侍に二菩薩をしたがえる場合、その組み合わせは観音と弥勒がほとんどである。これは仏像誕生の地であるガンダーラやマトゥラーの三尊形式の流れを汲むもので、グプタ朝やポスト・グプタ朝を経て、パーラ朝に至るまで受け継がれたのである。これに対し、オリッサでは観音と弥勒にかわって、蓮華手と金剛手が釈迦の脇侍となる。この組み合わせは、西インドの石窟寺院として名高いアジャンタやエローラで流行した形式である。距離的にはオリッサとこれらの石窟寺院とは大きな隔たりがあるが、文化的には両者のあいだには活発な交流があったことが予想される。
 また釈迦像に関していえば、パーラ朝では釈迦の生涯を描いた仏伝図の作例がきわめて多く、とくに重要な八つのシーンを表した八相図の人気が高い。ところがオリッサでは、釈迦の仏伝と呼べるのは降魔成道図や初転法輪図が認められる程度にすぎず、涅槃図や誕生図の作例はほとんど知られていない。成道図なども単なる礼拝像として作られた可能性が高く、仏伝という説話的な性格はきわめて薄い。

 仏教の尊格の中でもとくに高い人気を誇る観音も、両地域で大きな断絶がある。観音には四本以上の腕を持つ多臂像があるが、臂数にしたがって分類すると、パーラ朝では四臂、六臂、八臂、十二臂といういくつかの種類があるのに対し、オリッサからは六臂以上の作品はほとんどない。その一方でオリッサでは四臂の観音の割合が全体の半数近くを占める。これらの四臂観音の一部は、手に羂索を持つことから、わが国にも伝わる不空羂索観音に比定されることが多い(図二)。パーラ朝からは羂索を手にする四臂観音の作例はほとんど報告されていない。
 インド後期密教の代表的な尊格であるヘールカやサンヴァラがオリッサから出土していることも注目される。金剛界や胎蔵といった中期密教の時代だけではなく、かなり後世の密教も実践されていたことが確認できる。最近インドネシアからも、これらの尊格を中尊とする後期密教のマンダラの作例が出土していることが報告されている。これらの作品はオリッサのものと様式的にも共通点が多い。インド内部だけではなく、東南アジアの仏教美術ともオリッサは密接な関係を有している。

 最近になってオリッサ州政府やインド考古局は、カタックの密教遺跡の重要性を認識しはじめ、現地博物館の建設や遺跡の整備を進めている。ラトナギリではあらたな僧院跡の発掘も始められたらしい。しかし、現地の出土品の大半が野ざらしの状態で放置され、気温や湿度の変化のはげしい過酷な状況におかれている。土中にあって破損や磨滅を免れていた作品が、発掘されたことによって、短期間のあいだに表面が著しく損なわれてしまう皮肉な結果になっている。図二の観音像は、土中にあった下半身と、露出した上半身との保存状況の差異を示す好例であるが、筆者がこの写真を撮影した一年後にふたたび現地を訪れたときには、下半身の部分は発掘前のように土中に隠されていた。その一方で、心ない人たちによる盗難にも現地スタッフは頭を悩ませている。八大菩薩を左右に置いた転法輪印釈迦坐像(図三)は、類例のない貴重な作例であったが、盗難によって現在はその頭部が失われている。
 オリッサで造像のピークを迎えたのは七〜九世紀頃と考えられている。これはわが国では奈良時代から平安時代に相当する。この時代の作品で造形的にも美術史的にも優れたものであれば、日本ならば大半は国宝や重要文化財に指定されるであろう。オリッサではそのような作品が遺跡のあちこちに無造作に転がされているのである。(『春秋』第411号 1999年8月 pp. 21-25)