東インド・オリッサ州の密教美術

(2)マンダラの形あれこれ

 インドには厳密な意味でのマンダラは残されていない。密教経典をはじめとするインドの文献に説かれるマンダラは、膨大な数にのぼる。インドの密教徒たちがマンダラを作り、さまざまな儀式を行ったことは確かである。その多くは地面の上に色の付いた砂や粉などで描いたマンダラで、灌頂などの儀式のために作られたと考えられる。そして、儀式の終了した段階で壊すことも定められており、この破壇そのものも儀式の一部とされた。
 インドでは後世のチベットのように、マンダラが壁画や天井画のような装飾の目的で描かれることもなかった。インドの仏教壁画としては、アジャンタのような石窟寺院のものが有名であるが、寺院の壁面に画材を用いて絵を描くことは、少なくとも仏教寺院においては行われなかったのである。
 経典などには布製のマンダラに言及する場合もある。中国などを経てわが国に伝えられたマンダラは、絹などの布に描かれたこのようなマンダラである。しかし、それを生み出したはずのインドではおそらくすべてが失われてしまった。
 こうして長い間、インドにはマンダラは存在しないと考えられてきた。オリッサの密教美術は、このような「常識」をくつがえす一大発見だったのである。インドにもマンダラが残されていたことは学界に大きな衝撃を与えた。しかし、そのマンダラはわれわれの慣れ親しんでいる金剛界や胎蔵のようなマンダラの姿はしていなかった。あるいはチベットの密教が伝えるようなマンダラでもなかった。それは外見上はマンダラには見えない「マンダラ的」な作品だったのである。

 オリッサ州カタック地区でもっとも有名な遺跡ラトナギリからは、三体の密教仏がひとつの祠堂跡から発掘された。インド考古局が第四テンプルと名付けたこの祠堂は、縦横二メートルほどしかない小さなお堂である。三体の尊像は大日如来(図一)、金剛法、金剛薩に比定された。このうち、大日如来は、定印を結び、結跏趺坐で坐り、さまざまな装身具で身を飾り、髪を肩まで垂らす。菩薩の姿、すなわち菩薩形をとるこのような大日は、胎蔵マンダラの中尊として描かれる大日如来の尊容に一致することから、胎蔵大日と呼ばれている。祠堂はこの大日如来を本尊として正面にすえ、その手前に互いに向かい合うように金剛法と金剛薩を置く。これら二尊は順に蓮華手(観音)と金剛手の流れを汲む密教の尊格である。この二尊も胎蔵マンダラと密接な関係を持つ。
 『大日経』を典拠とする胎蔵マンダラは、基本的に三つの仏のグループで構成されている。釈迦あるいは大日を中心とする仏部、蓮華手に代表される蓮華部、金剛手に率いられる金剛部である。マンダラでは大日如来とそのグループである仏部の諸尊を中央に置き、これをはさむように、左右に蓮華部と金剛部の仏たちを配する。三つの部族から構成されるためこのような形式を三部と呼ぶ。
 ラトナギリの祠堂は、この三部の形式をふまえて、その代表である三尊のみで構成されていると考えられる。ただし、経典において金剛法や金剛薩のような密教化した菩薩が登場するのは、『大日経』よりも成立の遅れる『金剛頂経』(『真実摂経』)の時代を待たなければならない。そして、そこではすでに三部に新たな部族を加えた四部や五部が優勢となっていた。ラトナギリの祠堂の三尊は一時代前の形式の中に新しい尊格を組み合わせた結果なのである。
 釈迦に蓮華手と金剛手の二尊を脇侍として配するのは、オリッサでは広く流行した形式である。ラトナギリをはじめ多くの僧院の本尊が釈迦であったと考えられるが、その左右にはこれら二菩薩が置かれるケースが多い。また一枚のパネルで、中央に主尊の釈迦を大きく表し、その左右に蓮華手と金剛手を配する作品もかなり知られている。

 ラトナギリとならぶ重要な遺跡ウダヤギリからは、四仏のセットが出土している。しかもこれらは仏塔の四方に置かれていたことがわかっている。すなわち、東に阿◎、南に宝生、西に阿弥陀、北に大日である。このうち北の大日をのぞく三尊は金剛界マンダラなどに見られる、いわゆる金剛界五仏に尊容なども一致する。北はその場合、不空成就であるが、ウダヤギリの仏塔では、かわって先ほどと同じ胎蔵大日が置かれている。
 胎蔵大日がここに現れる理由は明らかではないが、不空成就が伝統的に歴史上の釈迦と同体視されることと、ラトナギリでも見られたように、三部の主尊としての釈迦が密教仏である大日と交代可能であったことから、不空成就にかわって大日如来が登場した可能性がある。また胎蔵大日の作例はオリッサからは八例報告されており、この尊格自身に対する何らかの特別の信仰が存在したのかもしれない。
 さらにこの四仏は脇侍として二体ずつの菩薩を従え、八体全体で八大菩薩を構成している。八大菩薩とは観音、弥勒、文殊、金剛手、普賢、地蔵、虚空蔵、除蓋障の八尊で、いずれも大乗仏教以来、信仰を集めた菩薩たちである。『大日経』をはじめとする初期・中期密教においてひとつのグループとして人気を集め、マンダラにも取り入れられた。胎蔵マンダラを構成する十二大院は、基本的にはこの八大菩薩を中心に形成されている。
 このようにウダヤギリの仏塔は金剛界を中心とする四仏に、胎蔵系の八大菩薩を組み合わせるというユニークな発想のもとで作られている。
 同じように八大菩薩の一部を脇侍とする仏坐像の作例がウダヤギリからもう二点出土している。印相からは宝生と阿弥陀(図二)に比定できる。仏塔の作品に比べると規模は小さいが、二点の間で技法や様式の点で違いがないことから、一具のものとして制作された可能性が高い。かつてはさらに二体が存在し、やはり四体で一セットであったのであろう。ウダヤギリからは現在、仏塔は一基のみしか発掘されていないが、未発掘の他の仏塔を飾っていたか、あるいは僧院の壁面にはめ込まれていたのかもしれない。
 ラトナギリとウダヤギリのちょうど中間点あたりに位置するラリタギリ遺跡は、最近の発掘によってかなりの新資料が発見された。これらの大半を占めるのは比較的規模の小さい仏坐像と仏立像の高浮彫である。このうち、仏坐像の中に触地印、定印、与願印、施無畏印、そして智拳印という金剛界の五仏の印相がすべて現れる。とくに、智拳印を示す仏坐像は二例あり、いずれも二菩薩を脇侍として持つ、かなり手の込んだ作品である。これが大日如来であるとすれば、密教系の仏のグループを意識したセットが作られた可能性がある。
 その一方で、カタック地区最大の遺跡ラトナギリからは、このような五仏のセットは発見されていない。これらの三遺跡は互いにきわめて近い位置にありながら、それぞれが独自性を持って寺院建築や造像を行っていたようである。

 ウダヤギリ遺跡からは、マンダラ的な構成をとる作品がもう一点出土している。金剛界マンダラの主尊となる大日如来像である(図三)。作品全体は約一三〇センチ・メートルの高さのある規模の大きな作品で、中央には髪飾りをたなびかせ、青年のような若々しい風貌で菩薩形の大日如来が表されている。胸の前に置かれた両手は、右手で左手の指を囲むようなしぐさをとり、智拳印を示していると考えられる。
 このような金剛界の大日如来は、パーラ朝の版図からは数点の出土が確認されているが、オリッサからはこれが唯一の作例である。作品の規模の点でも、インドから出土した大日如来の中でもっとも大きな作品である。
 この作品は、背板の上部左右と台座の左右の合計四カ所に、一尊ずつ女尊が置かれている。それぞれ異なった持物を手にし、むかって左下から右回りに香、華鬘、灯明、ほら貝であると考えられる。これらは金剛界マンダラに含まれる外の四供養菩薩、すなわち金剛香、金剛華、金剛灯、金剛塗香の持物に一致する(ほら貝は塗香の容器であろう)。しかもその配列も、マンダラに占める位置と同じである。金剛界マンダラでは中尊の大日如来は西に頭を向けて描かれ、マンダラの東南の隅、つまり大日如来の右下の方角に金剛香が置かれる。そして残りの三尊はここから右回りに四隅に配される。われわれが目にする金剛界マンダラから、中尊と外の四供養菩薩のみを取り出して、位置関係をそのままに石板のパネルに移し変えたのが、この作品なのである。
 四供養菩薩を周囲に配した類似の作品は、このほかにビハール州から二例が知られている。いずれも中尊は金剛薩で、周囲の四菩薩は外の四供養菩薩ではなく、同じ金剛界マンダラの内の四供養菩薩、すなわち金剛喜、金剛鬘、金剛歌、金剛舞である。これらの作品でも四供養菩薩の位置はマンダラでの方角に一致している。
 三部で構成された胎蔵マンダラは、中尊と二脇侍からなる三尊形式におそらく由来するが、上下左右がすべてシンメトリーな構造を持つ金剛界マンダラは、そのままでは造像することは困難である。すでに見た周囲に四仏を配するウダヤギリの仏塔は、マンダラの構造が水平に投影されていたが、この金剛界大日如来や金剛薩では、それが垂直の石板のパネルに置き換えられている。それはわが国で軸装のマンダラを壁にかけたり、チベットで垂直な壁面にマンダラを描く場合と同じである。しかしインドにおいては、マンダラ全体ではなく、その一部の尊格のみが取り出されて作品が構成された。しかも、当時の密教徒がこれをマンダラと考えていたかは定かではなく、単なる礼拝像や諸尊図としてとらえていただけかもしれない。あくまでもインドにおいては「マンダラ的なもの」はあっても、マンダラそのものは残されていないのである。(『春秋』第413号 1999年10月 pp. 29-32)