ハス
芥川龍之介のよく知られた短編に『蜘蛛の糸』がある。極楽から地獄に救いの蜘蛛の糸を垂らす釈迦と、自分一人が助かろうとして、結局その糸が切られてしまう主人公◎陀多からなるこの物語では、ハスが単なる舞台背景以上の役割を果たしている。
物語の冒頭で、芥川は極楽の情景を次のように描写する。
「御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。」
そして、同じような描写を終結部でも繰り返し、◎陀多に起こった出来事と、極楽世界の静謐さとのコントラストを、たくみに浮かび上がらせている。蜘蛛の糸がつなぐ極楽世界のハス池と、◎陀多が苦しんでいる血の池との対比も見事である。ハスそのものからは蓮糸と呼ばれる白く細い糸が茎からとれるが、これも蜘蛛の糸のイメージとも重なり合う。
仏教学からすれば、極楽にいるほとけは釈迦ではなく阿弥陀であるし、その極楽に蜘蛛のように他の生き物を捕食する虫がいることもおかしい。また、極楽は西方浄土とも呼ばれるように、西の方角にあるパラダイスで、その真下に地獄があるというコスモロジーも一般的ではない。しかし、多くの日本人はハスの花から極楽浄土や仏を連想し、仏教とハスのイメージは分かちがたく結びついている。
極楽にハス池があることは、じっさいに多くの仏教文献が説いている。これは単なる観賞用の庭園でもなければ、レンコンをとるためのに栽培されているのでもない。人間が極楽浄土に生まれかわる、つまり往生するためには、このハスの花の中から誕生する必要があるからだ。これを蓮華化生という。
極楽浄土を描いた仏教絵画は浄土図と呼ばれ、そこには実際に阿弥陀が鎮座する宮殿の前にハス池が置かれ、ハスの花からはまさに生まれ出ようとする人間の姿が描かれる。一〇円玉の図案でおなじみの平等院鳳凰堂が、周囲に池をめぐらしているのも、この極楽世界を地上に再現しようとしたためである。また、日本の仏教美術でひとつのジャンルとなっている来迎図は、この極楽浄土から阿弥陀とその従者たちが、往生者(すなわち死者)を迎える様子を描いたものであるが、そこでは阿弥陀につきしたがう観音菩薩がハスの花の台を捧げ持っている。往生者を乗せるためであるが、単なる台ではなく、極楽のハス池での再生のための母胎となる。
インドの文化や美術に見られるハスのシンボリズムは、この「再生」を基本とする。そして豊穣、生殖、女性、母胎、宇宙などが、インド世界のハスの象徴的意味としてあげられる。古代インドの仏教美術の中心であるストゥーパ(仏塔)は、周囲にさまざまなハスの文様を飾る。それは壺、地母神、樹神などとも組み合わされ、ストゥーパを信仰する人々にとっての重要なイメージとなった。
大乗仏教の代表的な経典で、日本でも重視された『法華経』は「妙なる教えの白蓮華」というのが正式の名称で、苦しみの世界に出現した仏教の真理がハスの花にたとえられている。泥の中からすっくと伸び、けがれなき花を咲かせるハスがそのイメージのもとにある。やはり重要な大乗教典である『華厳経』では宇宙全体が巨大なハスの花であることが説かれる。ハスの花は外から順に蓮弁、雄しべ、花托(いわゆるハチス)からなるが、このうち蓮弁が世界を取り巻く山脈に、雄しべが宝の林に、花托が大地になる。ただしこの大地はわれわれの住むところではない。ハスの花托には種子がおさめられているが、この宇宙観では種子の中に無数の小宇宙がつめこまれ、われわれが住む世界は、そのひとつにすぎないのだ。手のひらに収まるような一輪のハスの花に、インドの仏教徒は宇宙を見ていたのである。(『みんぱく』2003年5月、pp. 20-21)
(◎=うしへんに健)