テキストを読む・図像を読む


1.テキスト研究

 古い時代の宗教を研究するには、どのような方法があるだろうか。ここではインドの仏教を例にとって考えてみよう。
 日本を含むアジア全域に仏教が広まったことは誰でも知っているが、その発祥の地であるインドからは、仏教がほとんど姿を消してしまっていることはあまり知られていない。現代の日本仏教を研究するのであれば、実際に仏教の僧侶から話を聞いたり、寺院の活動状況や信者の信仰形態を調べることで、さまざまなことがわかるであろう。インタビューや現地調査、あるいは統計学的手法による宗教研究が可能となる。しかし、数百年前にすでに歴史の舞台から仏教が姿を消したインドでは、このような方法をとることはできない。仏教の開祖であるシャカ(釈迦)はもとより、その教えを受け継ぐ僧侶や信者もいないのであれば、仏教に関する説明を彼らから直接聞くことは不可能だ。
 おそらく誰でもこう考えるだろう。シャカに会うことはできなくても、シャカが残した言葉があるはずだ。そこから仏教を研究すればいいのではないかと。たしかにそのとおりである。いわゆる「お経」は仏の説いた教えであり、お経以外にもさまざまな種類の仏教の文献が残されている。「残されている」というのは正しい表現ではないかもしれない。それはわれわれの想像を絶するような途方もない量があるからだ。すでに失われたインドの仏教に対して、このような文字情報すなわちテキストからアプローチすることができるはずである。
 それではテキストを読むとは、具体的にどのように行われるのであろうか。一般に、英語などの外国語の文献を読むとき、われわれはわからない単語を辞書で引いて、日本語に翻訳して、その内容を理解する。そこから、仏教のテキストも同じように、日本語に置き換えて、その内容がわかれば、シャカの教えを知ることができると思うかもしれない。しかし、実際はそれほど単純ではない。
 シャカは紀元前5、6世紀の人物であるが、シャカ自身は著作を残していない。シャカの周囲にいた弟子や信者たちも、シャカの言葉を記録に残さなかった。彼らはシャカの言葉を聞き、そのうちいくらかを記憶し、他のものに伝えていったと考えられている。いわゆる口誦伝承の時代である。
 シャカの在世中は、機会さえあれば、教えの内容についてシャカ本人に確認することもできたであろうし、あらためて教えを受けることもあっただろう。しかし、釈迦が亡くなった後は、すべてはそれぞれの記憶に頼らざるをえない。このような状況にはやくから危機感をおぼえたシャカの高弟たちは、自分たちの記憶に残っているシャカの教えを全員で確認して、公式の教えを確立しようとした。これを仏典結集といい、シャカの死後、かなりはやい段階で行われた。
 しかし、このような統一的な「仏の教え」を定めたにもかかわらず、仏教徒たちは次第に別個のグループを形成するようになる。まず、シャカの死後1、2世紀で、伝統的な上座部と、急進的な大衆部に二分し、さらに両者の中にさまざまな部派が現れた。これらの部派はそれぞれが正統と考える「仏の教え」を有していた。その一方で、一般の信者たちがおそらく中心となって、大乗仏教が現れた。大乗仏教も伝統的なシャカの教えを受け継ぎつつも、あらたに「仏の教え」を生み出していった。これが大乗経典である。法華経、阿弥陀経、華厳経など、日本仏教が尊重する経典は、ほとんどがこの大乗経典である。さらに時代が下ると、インド仏教は密教の時代となり、密教経典と総称されるあらたな「仏の教え」が登場する。
 このようなインド仏教の流れを概観すると、シャカのことばに端を発した「仏の教え」が、二千年近い歳月を経て、さまざまなテキストを生み出していったことがわかる。明らかに後世に成立した経典であっても、いずれも「仏の教え」であることを強調し、シャカ以来の伝統が受け継がれていることを主張する。しかし、本当にそこには、たとえわずかであってもシャカが説いた「仏の教え」が残されているのだろうか。あるいは、明らかに後世の付加と思われる要素を排除したり、テキスト間の成立順序を検討し、より古いテキストに順にさかのぼっていくことで、シャカの教えそのものに近づくことができるのだろうか。
 おそらく答えは否である。それは、けっして大乗仏教や密教の経典のように、新しい時代の文献だけではなく、すでにシャカの生きていた時代から、「シャカの公式見解」のようなものは存在していなかったと考える方が自然だからである。
 シャカはその生涯で40年以上にわたる布教活動を続けた。その中でシャカの教えにふれた者は相当な数にのぼるであろう。シャカはこれらの者たちに、つねに同じことばで同じ内容の教えを説いたとは考えられない。教養ある修行者には高度で抽象的な教えを示したであろうが、一般の人々にはわかりやすい比喩や身近な話題を用いたであろう。とくに、出家僧と在家信者とのあいだでは、教えの内容そのものにかなり大きな違いがあったと考えられている。
 受け入れる側にもさまざまな態度を持つ者がいたはずである。シャカのことばをかたくなに守ろうとする者もいれば、自分の理解した範囲で、自分のことばに置き換える者や、さらには、自分の解釈や補足的な説明をシャカのことばに加えて、全体をシャカ自身の教えとみなす者もいたであろう。シャカが教えを説く場所に居合わせた複数の人物が、その情景を他人に伝えるとき、同じ出来事を伝えているはずなのに、まったく異なる印象を聴き手に与えることも、けっして珍しいことではなかったであろう。
 ところで、現在われわれが手にしうる仏教の文献は、さまざまな言語で書かれている。主なものとして、漢訳(中国語)、パーリ語、チベット語、サンスクリット語がある。このうち、サンスクリット語以外の三つは、それぞれ大きなコレクションを形成し、全体が大蔵経(あるいは三蔵)と呼ばれる。この名称は仏教のあらゆる領域を網羅していることを表す。インドの古典語として著名なサンスクリット語は、仏教の場合、おもに大乗仏教以降に用いられた言語にすぎないため、サンスクリット語の大蔵経は形成されない。しかも、正統的な古典サンスクリット語とは異なる仏教独自のサンスクリット語が主として用いられる。
 注意しなければならないのは、これらの諸言語は、いずれもシャカが用いた言語ではなかったことである。古い時代のテキストを多く含んでいるといわれるパーリ語仏典でも、その成立はおよそ紀元後4世紀と推定され、シャカの時代からは千年近いへだたりがある。しかも、シャカが用いた言語はインドの東部方言と考えられているが、パーリ語はインド西部を中心とする言語である。広大な領域を持つインドにおいて、東西の言語のあいだにある差異はきわめて大きい。
 中国語もチベット語も、インドの言語から見ればまったく系統の異なるグループに属する言語である。このうち、中国語訳、すなわち漢訳経典ははやいもので1世紀頃に翻訳されたものもあるが、大半は4世紀以降の翻訳である。このころにはすでに大乗仏典がかなり出そろってきている。一方、チベット語への仏教文献の翻訳は、8世紀にチベットに本格的に仏教が導入されて以降、国家的事業として組織的に行われた。
 このように、われわれが手にしうる仏教の文献は、いずれもシャカが用いたことばではない言語に「翻訳」されたテキストで、シャカの時代から何世紀もあとに成立したものばかりなのである。その間には、口誦伝承で何世代にもわたってテキストが伝えられた時代があり、それはテキストを文字として書写する時代になっても、おそらくしばらくは平行して続いたと考えられれる。
 口誦伝承のテキストは、耳で聞き頭で覚えるために、書写されたテキストとは異なるさまざまな特徴がある。その多くはテキストを正確に記憶し、伝達するための一種の技術であった。
 たとえば、テキストが散文ではなく韻文、すなわち定型の詩句で表されるのもそのひとつである。インドでは古くから詩学が発達し、さまざまな定型詩がある。有名な叙事詩『マハーバーラタ』や『ラーマーヤナ』もこのような定型詩ででき、やはり口誦伝承の文学として成立した。仏教の文献にも、韻文のみで表されたものや、散文の中に韻文をちりばめたものがある。後者の場合、概して韻文の部分は散文よりも成立が古い。韻文の部分が核となって散文の部分が加えられたり、あるいは、すでに存在している韻文が、まったく異なる文脈の散文に組み込まれることがあったからである。
 くりかえしの部分が多いことも、口誦伝承のテキストによく見られる特徴である。仏教のテキストにはわれわれにとって冗長としか思えないくりかえしが、じつに頻繁に現れる。これはテキストを文字という媒体で読むことに慣れたものには退屈であるが、耳で聞くものにとっては心地よいリフレインであったかもしれない。何よりも、くりかえし現れる定型句は、人々の記憶に定着しやすい。テキストの定型化とその反復は、テキストの精度を高める上で最も有効な手段であったのだ。
 これらの特徴を実際の文献の中で見てみよう。
 パーリ語の仏典のひとつ『マハーパリニッバーナ経』は、シャカの入滅の前後を描いた経典で、漢訳経典の『泥おん経』やサンスクリットの『大涅槃経』などとも類似の内容を持つ。この経典が説くシャカの入滅とその直後の様子は次のとおりである。
 「もろもろの事象は過ぎ去るものである。怠ることなく修行を完成させなさい」という弟子に対する最後のことばを残して、シャカは涅槃に入る。シャカの入滅したことを告げる大地震や雷鳴が起こり、これを受けて、さまざまな者たちのが嘆きのことばを発する。まず、神々の王である梵天と帝釈天が、そして弟子の中からアヌルッダとアーナンダという高弟が、それぞれのことばを詩句の形で述べる。
 これらの詩句は、パーリ語のこの経典以外にも、サンスクリットや漢訳のテキストにもおおむね現れるが、注目されるのは、そのことばを発した主体が一定ではないことである。たとえば、第二の詩句はパーリ語本文では帝釈天のことばであるが、それ以外に如来のことばとするものや、帝釈天とは別の神とするテキストもある。第3と第4の詩句は、内容的に対称的で、アヌルッダがシャカの入滅を冷静に受け止めているのに対して、アーナンダは心の動揺をそのまま表現している。しかし、これらふたつの詩句をすべてアヌルッダが述べたというテキストがかなりある。これらの事実は、詩句のみがはじめから存在していて、散文の部分が後に加わり、その過程で、詩句を発した主体に不統一が現れたことを示す。
 パーリ語のテキストは、悲しみに打ちひしがれたアーナンダによる詩句を受けて、さらに何人かの修行僧たちが、嘆き悲しむ様子を次のように表現する。「両腕をつきだして泣き、砕かれた岩のように打ち倒れ、のたうち廻り、ころがった。『尊師はあまりに早くお亡くなりになりました。善き幸いな方はあまりにも早くお亡くなりになりました。世の中の目はあまりにも早くお隠れになりました』と言って」。
 これを目にしたアヌルッダは、世の無常を嘆くのは仏教の修行者にふさわしくないことをさとし、その対比として、天上や地上の神々が嘆くさまを示す。しかし、そこで神々が嘆く様子は、「両手をつきだして泣き・・・」という、修行者のものとまったく同じである。
 さらにアヌルッダはアーナンダに対し、近在の住民であるマッラ族の人々にシャカの入滅を伝えるように指示し、アーナンダはそれを実行する。アーナンダからシャカの入滅を告げられたマッラ族の者たちもやはり嘆き悲しむのであるが、その様子は「両腕をつきだして泣き・・・」と、またしても同じ表現がくりかえされるのである。
 仏教の修行者、天上や地上の神々、そしてマッラ族の人々が、同じ身ぶりや手ぶりで悲しみを表し、まったく同じことばで悲しみを語ったとは考えられない。悲しみを表す定型的な表現があり、それをこれらの者たちにそのままあてはめたと見るべきであろう。そもそも、この表現がシャカの入滅に結びついていたものかどうかも確証はない。まったく別の悲劇的な出来事に用いられた表現が、シャカの入滅に転用されただけかもしれず、ひょっとするとそれは仏教とは関係のない民間説話に古くからあった表現かもしれない。
 シャカの入滅とその直後を伝えるこの一節は、中村元氏の翻訳では、岩波文庫でわずかに5ページあまりであるが、これに対して中村氏は10ページの訳注を加えている。岩波文庫という一般向けの出版形態であることを考慮に入れれば、この訳注はおそらくしぼりにしぼった上で、どうしても必要と判断されたものであろう。実際、本文の数倍の量の訳注がつくことは、仏教文献の翻訳においては少しも珍しいことではない。中村氏の10ページの訳注には40あまりの項目が現れるが、その内容は、難解な語句の説明ばかりではなく、パーリ語とそれ以外のテキストとの間の異同、注釈書に見られる解釈の紹介、仏教思想史における意義、同一の表現が現れる別のテキストの指摘などさまざまである。
 仏教のテキストを読むことは、もちろんそこに描かれていることを正確に読むことであるが、それは単にことばの意味を理解することだけではない。「なぜそのように表現されるのか」という一歩踏み込んだ態度が求められる。そして、それを説明するためには論理的な根拠が求められる。訳注の形で示されているのが、この根拠であり、思索の軌跡なのである。
 テキストを読むことで何を明らかにするのは次の段階である。ある研究者は、シャカのことばに少しでも近づこうとするであろうし(もちろん、すでに述べたようにシャカのことばそのものは見いだせないとしても)、別の研究者は文献相互の影響関係や成立の過程を明らかにするかもしれない。文献に現れた思想や哲学を抽出するものもいるし、さらにそれを他の思想体系と比較することもあるだろう。あるいは、テキストそのものを生み出した人々の文化や社会に関心を寄せるものもいる。いずれも仏教研究という大きな枠の中に含まれるが、そのすべての基礎となっているのが「テキストを読む」ということなのである。

2.図像作品を読む

 「図像を読む」というのはおかしな表現である。図像すなわち絵画や彫刻は「見るもの」であって、「読むもの」ではないと、一般には思われているからだ。しかし、場合によっては、図像は文字テキスト以上にさまざまな情報をわれわれにもたらしてくれる。それは、仏教研究においても同様である。しかも、仏教の図像は文字テキストときわめて密接な関係も有している。このことを具体的な例とともに考えてみよう。取り上げるのは、インドの西北にあるガンダーラ地方から出土した一枚の浮彫パネルである。制作年代は紀元2、3世紀と推定されている。そこに表されているのはシャカの涅槃の場面である(図1)。

 この作品は、幅がおよそ一メートルの片岩の石板に、数多くの人物を浮彫に表している。その中でも、とりわけ大きく描かれているのが、中央に横たわる人物で、言うまでもなく涅槃に入った(あるいは入りつつある)シャカである。仏教についてわずかでも知識があれば、この作品が横たわるシャカを中心とした涅槃のシーンであることは見当がつくであろう。しかし、そのまわりにいる多くの人々が、いったい誰であり、何をしてるのかは、単に「見る」だけではわからない。文字の形で残されたテキスト、すなわち経典などの助けを借りなければ、この絵を「読み解く」ことはできないのだ。しかし、文字のテキストさえあれば、それですべて解明されるかと言えば、それでも不十分である。図像そのものの伝統や約束事に関する知識も、作品の理解に不可欠だからである。
 中央に横たわるシャカは右脇を下に向けて横臥している。この姿勢は死者のポーズとしてはいささか不自然であるが、テキストでは、この姿勢が「獅子の臥法」と呼ばれ、仏が涅槃に入るときの決まった形式であると説明されている。その一方で、ガンダーラ美術に関係の深いヘレニズム文化に、図像の起源が求められることもある。そこでは、貴族の石棺の装飾彫刻に「死者の饗宴」というやはり横臥する高貴な人物を表したモチーフがあり、それがガンダーラにも伝えられていることも知られている。
 シャカの横たわる寝台の前には、二人の人物がいる。このうち向かって左の人物はひげもじゃの男性で、衣をまとわない上半身にはたくましい筋肉が表されている。この人物はシャカの護衛を務める執金剛神である。日本の仁王の起源でもあるこの神は、その名のとおり金剛杵と呼ばれる武器を手にして、つねにシャカに付き従う姿で、ガンダーラ彫刻にしばしば現れる。涅槃を表す作品にはほぼ例外なく登場し、多くの場合、シャカの枕元などで、悲しみに打ちひしがれた姿をとる。ところが不思議なことに、涅槃を伝える文献でこの執金剛神に言及するものはほとんどない。この神が涅槃の図像に登場するのは、文字テキストを根拠にするのではなく、シャカの随伴者としてつねにそのかたわらに描くという図像の約束によるのである。
 一方、執金剛神の隣で座禅を組んで坐っているのは、スバドラという僧である。彼については多くのテキストがその物語を伝えている。それによれば、シャカがまもなく涅槃に入ることを伝え聞いたスバドラは、その臨終に駆けつけ、シャカから教えを聞くや、たちまちに悟りを得て、最後の仏弟子になった。シャカを取り囲む人々がドラマチックな身ぶりで表されている中で、ただひとり三昧の境地を楽しむかのように静かに坐っている。とくに、隣の執金剛神とは対称的である。
 シャカの足もとでは、しゃがみ込んだ僧侶をもう一方の僧侶が手を引いて支えようとしている。この二人は、シャカの涅槃に際してやはり対称的な態度をとったとテキストが伝えるアーナンダとアヌルッダに比定できる。「動揺するアーナンダ」と、それをいさめる「冷静なアヌルッダ」である。この二人の組み合わせは、ガンダーラの涅槃図で好まれたモチーフで、ほとんどの作品で見ることができる。
 シャカの枕元にもひとりの僧侶の姿がある。この人物も文献の記述からウパマーナという僧と考えられている。彼はシャカの近くで払子(あるいはうちわ)で風を送っていたのであるが、涅槃の場に集まってきた神々が、彼のためにシャカの姿がよく見えないため、シャカによって移動を命じられる。
 作品の左端には、僧侶と裸形の人物が向かい合って立っている。このうち僧侶はシャカの高弟であるマハーカッサパ(大迦葉)である。彼はシャカの臨終の場に居合わせることができず、そこに向かう途中で外道の修行者から、すでにシャカが1週間前に涅槃に入ってしまったことを聞く。裸形の人物が、当然この外道の修行者である。
 この説話はシャカの涅槃の中で重要な位置を占め、その後、涅槃に入ったシャカのところにたどり着いたマハーカッサパが、シャカの足に礼拝したところ、はじめて火葬の火がついたことや、シャカの衣鉢を彼が受け継ぎ、教団の中心的な人物になっていたことへとつながっていく。マハーカッサパは涅槃に関する一連の物語の重要な登場人物なのであり、ガンダーラの涅槃図でも欠くことのできない存在なのである。
 しかし、この作品を涅槃の情景を描いたと考えたならば、マハーカッサパの位置づけはおかしなものになる。彼はシャカの涅槃には間に合わず、遠く離れたところでその事実を知ったはずだ。しかもその時には、すでにシャカの入滅から1週間が経過し、火葬の準備が進められていた。異なる時間に属する別々の出来事をひとつの画面におさめるこのような手法は、日本の絵巻物などにも見られ、「異時同景図」と呼ばれる。説話的な内容を示す常套的な手法であるが、そのような約束事を知らなければ、この作品を正しく読み解くことはできない。
 これまで取り上げてきた人物以外は、いずれもターバンや髪飾りなどをつけ、仏教の僧侶ではない。このうち、シャカの寝台の左右にある樹木から、半身を出している女性は、沙羅双樹の精である女神である。平家物語の冒頭にも現れる沙羅双樹は、ガンダーラではこのように樹木の女神とともに表されることが多い。ただし、この女神そのものに言及する文字テキストはあまり多くはない。
 その他の人物は、両手や片手を上にあげたり、頭を抱える人々と、合掌したり右手に花を持つ人々にほぼ二分される。前者はシャカやその弟子たちのまわりに配され、おそらく経典で言及された「マッラ族の人々」に相当する。テキストの記述にもあったはげしい哀悼の身ぶりを表している。後者は全体の最上段に一列に並んでいる。おそらく彼らは涅槃という稀有なシーンを見るために集まった神々で、右手に持った花をその場に降らす、すなわち散華するところなのである。パーリ語テキストでは神々も人間と同じように慟哭したことになっているが、涅槃を賛嘆し、散華する神々に言及する経典もある。
 これまで見てきたように、ガンダーラの涅槃図に描かれている人物たちは、文字によって残されたテキストを参照することで、そのかなりを解明することができる。図像を読み解くためには、文字テキストの情報は不可欠なのである。しかし、その一方で、文字としては残されていない知識も図像を理解するためには必要であった。これは別の見方をすれば、図像というテキストは、文字のテキストを形によって「翻訳」したものではないということだ。涅槃図に表された情景は、一見、写実的に見えるかもしれないが、すでに見た異時同形図の手法や、異常に大きなシャカとそれと対称的に小さいまわりの人物というアンバランス、類型化された悲しみの表現などは、物語の内容を「ありのまま」に表したものではないということを、如実に示している。
 文字によるテキストと図像というテキストは、それぞれが自律的な存在であり、たがいに密接な関係を持ちながらも、独自の伝統を有している。仏教文献という文字のテキストと同じように、図像作品も長い年月と人々の手を経て成立したのである。その場合、文献と図像という2種のテキストのあいだに優劣関係はない。そして、いずれのテキストも、われわれが注意深く正確に読むことによって、限りない情報をもたらしてくれるのである。

文献
中村 元 1980 『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』(岩波文庫)岩波書店。
宮治 昭 1992 『涅槃と弥勒の図像学:インドから中央アジアへ』 吉川弘文館。
渡辺照宏 1967 『お経の話』(岩波新書) 岩波書店。
Norman, K. R. 1998 A Philological Approach to Buddhism. London: SOAS.

(『人文科学の発想とスキル』金沢大学文学部 2004年3月、pp. 123-130の増補版。図版は『世界美術大全集 東洋編 第15巻』より転載。)