インドにマンダラを求めて


 インドと聞くと私たち日本人の多くは仏教を連想します。仏教の開祖であるシャカが生まれたのは、現在ネパール領にあるルンビニーですが、悟りを開き、教えを広めたのは、インドのガンジス川流域です。そのため、日本人ばかりではなく、世界中からたくさんの人々が、シャカの活躍したこれらの場所を訪れます。しかし、そこで見ることのできるのは、仏教の寺院の跡や、チベットやスリランカなどの海外から来た仏教僧たちのすがただけです。現在のインドには仏教はほとんど残っていません。インドの仏教は今からおよそ700年前にすでに滅んでしまったからです。仏教はその生まれ故郷であるインドの地に根をおろすことができなかったのです。
 今ご覧いただいているのは、有名なナーランダーと呼ばれる寺院です。5世紀に建立され、最盛期には1万人以上もの僧侶を擁していたと言われています。今も残る大規模な建造物から往時をしのぶことができます。
 これはヴィクラマシーラという名の寺院の跡です。現在では塔を中心とした十字形の建造物の一部と、それを取り囲む一辺400メートル近い回廊状の僧院の跡が残されているにすぎません。しかし、このヴィクラマシーラこそインド密教の中心的な寺院でした。イスラム教徒によってこの寺院が完全に破壊された西暦1203年が、インド仏教の滅亡の年とみなされています。
 これらの仏教寺院跡からは、たくさんの遺品が出土しています。その多くは密教の仏や菩薩などを刻んだ彫刻で、なかでも釈迦如来や観音菩薩、文殊菩薩などは、出土数の多いものです。女性の仏であるターラーや鬼子母神の像も見られます。不動明王や降三世明王などの忿怒形の仏も、わずかですが発見されています。
 しかし、密教美術の代表ともいえるマンダラは、インドからはただの一点も発見されていません。完全な遺品はもちろん、断片すら見つかっていないのです。これには理由があります。
 当時のマンダラは、わが国に伝わるような絵画のマンダラではなく、地面の上に顔料や米の粉などで描かれました。このようなマンダラは、特定の儀式を行うために準備され、儀式が終了すると必ず壊すことになっていました。また、マンダラを寺院の壁や天井に描くチベットやネパールとは異なり、インドではマンダラを建造物に描かなかったことも理由にあげられるかもしれません。
 それではインドにはマンダラと呼べるような遺品は何も残されていないのでしょうか。マンダラは仏教そのものとともに、自分を生み出したインドの地から完全に消滅してしまったのでしょうか。
 ナーランダーやヴィクラマシーラのあるビハール州の南に、オリッサというところがあります。ベンガル湾に面し、肥沃な大地が広がる、インドの穀倉地帯です。オリッサからも仏教の寺院の跡がいくつも発見されています。その中でも最も有名なのは、ラトナギリという遺跡です。
 このラトナギリから3体の仏像がそれぞれ向かい合うように安置されたお堂が見つかりました。正面には大日如来、その手前には向かって右に金剛法、左に金剛薩□という2体の菩薩がおかれています。大日如来は宝冠をかぶり、肩まで髪を垂らし、体には飾りをつけた独特の姿をしています。わが国にも伝わる胎蔵マンダラの本尊と同じ特徴を持ち、胎蔵大日と呼ばれています。手前の二人の菩薩は聞き慣れない名前ですが、金剛法は観音菩薩、金剛薩□は金剛手菩薩にそれぞれ相当します。密教の時代になって、あらたな名前と姿が与えられたのです。
 この3尊は、密教の仏たちの三つのグループの代表でもあります。大乗仏教から密教の時代にかけて、たくさんの仏たちが登場しましたが、彼らはその種類や起源にしたがっていくつかのグループを形成するようになります。このグループは部族と呼ばれます。初期の部族は3種類で、仏部、蓮華部、金剛部からなります。各部族の代表はシャカ、観音、金剛手でした。オリッサからは、観音と金剛手を左右に配したシャカ像も多数出土していますが、それはこの三部の構成に由来するのです。
 部族はマンダラの構成にも重要な役割を果たします。先ほどふれた胎蔵マンダラでは、大日如来を中心とした仏たちを中央に置き、その向かって右には観音、左には金剛手に率いられた仏たちのエリアがあります。胎蔵マンダラは三部で構成されているからです。ラトナギリの胎蔵大日、金剛法、金剛薩□は、この胎蔵マンダラの三つのエリアの代表だけで構成された立体的なマンダラとみなすことができます。
 ラトナギリから西におよそ10キロ・メートル離れたところに、ウダヤギリという仏教遺跡があります。ここからはレンガでできた仏塔が出土していますが、その四方に四体の仏像の浮彫がはめ込まれています。四尊の仏は、東が阿◎、南が宝生、西が阿弥陀、北が先ほどと同じ大日如来です。これらの四人の仏たちは金剛界マンダラというマンダラに含まれる仏で、マンダラでも同じ方角に描かれます。ただし、金剛界マンダラでは北の仏は不空成就で、大日ではありません。この理由はわかりませんが、少なくとも、仏塔を作り、浮彫を置いたものたちが、金剛界マンダラの構造を意識していたのは確かでしょう。
 この浮彫には、四体の仏の左右にそれぞれ二体ずつの菩薩の姿も彫られています。これらは観音や弥勒、文殊などで、全体は八大菩薩と呼ばれています。八大菩薩もマンダラと関係の深いグループで、初期のさまざまなマンダラに登場します。胎蔵マンダラもそのうちのひとつです。
 最後にウダヤギリ出土の別の大日如来像を紹介しましょう。ほぼ等身大のこの像は、宝冠をかぶり、手は独特の印を結んでいます。これは金剛界マンダラの中央の大日と同じ姿で、金剛界の大日如来とも呼ばれます。この作品には、上下の四隅に小さく女性の姿が表現されています。それぞれ手には別のものを持っています。灯明や花輪、香炉などの供物です。これらの四人の女性も、やはり金剛界マンダラに登場する菩薩たちで、いずれも供物を持っていることから、外の四供養菩薩と呼ばれます。
 このように、インドではマンダラそのものは残されていませんが、マンダラの中から一部の仏たちを抽出して構成された作品や、マンダラを構成する原理をもとに制作された作品を見つけることができます。そして、作品の背景となった金剛界マンダラや胎蔵マンダラは、中国を経由してわが国にも伝えられました。二つの地域は数千キロの空間を隔てながらも、マンダラという糸で結ばれているのです。
(「心の時間」CATV スカイパーフェクト 平成10年放映の「曼荼羅について」第4回台本)