密教とは何か インド密教の思想と実践

1.はじめに

 今日はだいたい三つのことをお話したいと思いますが、その前に「密教とは何か」ということに、お答えしなければいけませんので、最初に概略的なことを申し上げます。これは別に私自身が調べたことでもありませんし、従来からも言われていることです。そのあとで具体的なところから、密教はどういうことを行い、どういうことを考えているのかということを、「神変」「マンダラ」「灌頂」という三つのテーマから、お話させていただこうかと思います。

2.インド仏教史における密教

 まずはじめに密教概論的なことを序論としてお話したいと思います。簡単に言ってしまえば、密教とは仏教のひとつです。ある時期のインドの仏教を指しています。ある時期というのは、インド仏教の歴史の中では一番最後に位置するものです。そのため、昔の解説書などでは、仏教がその末期においてヒンドゥー教に影響を受けて変質してしまったもの、あるいは堕落してしまったもの、というようにネガティブな評価が与えられることが多かったようです。ただしこれは現在では一般的ではなく、特殊なものではあっても仏教であり、しかも大乗仏教とほとんど変わらない部分を沢山もっている、そういうものだったと考えられています。ですから、おそらくインドの密教を信奉していた当時の人々は、自分たちのことを密教徒だとは思ってなかったと思います。それはこの高野山で「密教」あるいは「真言密教」という言葉が非常に重い意味を持っているのとは、ずいぶん違っていたと思います。彼らにどういう仏教を信奉しているかと聞けば、おそらく大乗仏教だというふうに答えたでしょう。ただし、われわれはそれとは実践の仕方が少し違う、あるいは信仰の対象とする仏が少し違う、そのように考えていたとは思います。しかし、あくまでも自分たちは大乗仏教徒だと考えていたのです。
 インドの仏教の流れを非常におおざっぱに見ますと、インドで仏教が起こったのは紀元前5、6世紀頃ですので、今から二五〇〇年から二六〇〇年前になります。それからインドの地から仏教が消えたのが、だいたい西暦一二〇〇年頃となっております。インドで仏教がまがりなりにも存在していたのは、単純に計算して、だいたい一七〇〇年から一八〇〇年間ということになります。もちろん、ある時は非常に勢力があったでしょうし、最初と最後は微々たるものだったでしょう。
 最初に釈迦の時代とそれに続く初期仏教とか原始仏教といわれる時代があります。その後、いろいろな部派が分かれ、部派仏教の時代を迎えます。そして、部派仏教の中から大乗仏教が生まれて、インドにおいてはこれが中心的になります。その一方で、部派仏教の中の伝統的あるいは保守的な部派は上座部仏教と呼ばれ、スリランカから東南アジアへと伝わる南伝仏教となってきます。インドにおいてもこのような伝統的な集団は存続しましたが、大乗仏教の方からは蔑称の小乗仏教という名称が与えられることになります。
 いずれにしましても、インドにおいては大乗仏教が有力な中で、西暦五〇〇年、あるいは六〇〇年頃からわれわれが密教と呼ぶものがでてきたようです。つまりインドの仏教の歴史の中の終わりの六百年から七百年間は密教的な要素が存在していたということです。先ほどインド仏教の歴史は一七〇〇年ぐらいと申しましたが、そのうちの七百年ということなので、密教の時代は意外に長いのです。先ほどの「インド仏教末期に現れた堕落した宗教」という説明は、長さの点でも違っていたようです。
 場所についても確認しておきますと、仏教がインドで勢力があったときはかなりの地域で仏教の寺院が築かれたようで、有名なガンダーラ、今のパキスタンからアフガニスタンにかけての地域で、地図の中でも北のはずれの地域から、南の方でも、半島の逆三角形の一番先端ではありませんが、そこからちょっと中に入りましたアーンドラ・プラデーシュというところまで、仏教遺跡が残っています。ある時期には仏教はこうした広範な地域に広がっていたようですが、密教が現れてからは、仏教全体から見ますと衰退の時代なので、その領域はだんだん小さくなっていきます。最終的にどこに残ったかといいますと、もともと釈迦が生まれて活動した地域、ガンジス川の流域、つまりインドの北東のあたりのベンガル州やビハール州がまずあげられます。現在では別の国ですがバングラデシュも、広い意味でのベンガル地方に含まれます。この南に位置するオリッサ州のあたりにも密教の遺跡があります。さらに、日本人も観光でしばしば訪れますが、反対側の西の方のエローラ、アジャンターなどでも、一時期、密教が流行していたようです。このあたりには石窟寺院が数多く作られましたが、その中には密教の仏像も含まれます。
 密教も含めインドの仏教は、一二〇〇年ぐらいにほぼ勢力を失います。これは、その頃西の方からイスラム勢力が侵入し、彼らによって寺院が破壊されていったことが直接の要因と言われています。一二〇三年がインド仏教滅亡の年と言われていますが、この年にヴィクラマシーラというインド密教の中心的な寺院が破壊されました。ただし、総本山のようなところが破壊されたからといってすぐに仏教がなくなってしまったわけではありません。その後もしばらくは残ったようです。しかし、それは非常にわずかなものでした。
 インドから密教も含め仏教が滅んだ後、その伝統を受け継いだのは、たとえばこの高野山というはるか離れたところで生きていますけれども、アジア全体で考えますとチベットがやはり一番大きいと思います。チベットでは、どの仏教の宗派もほとんど密教的な要素をもっております。また、チベットの土着のポン教という宗教も、密教的な要素をたくさんもっています。ポン教の寺院ではマンダラも見ることができます。ですから、チベットは密教の国と見てもそれほどまちがってはいません。
 忘れられがちなのですが、ネパールという、インドと中国にはさまれた地域でも仏教の伝統は残っております。カトマンズ盆地を中心とした地域にネワールという民族がおりまして、彼らが密教の要素をふんだんに残した仏教を現在でも伝えております。
 それから、日本と直接関係があるのが中国、それから朝鮮半島です。中国では唐の時代に密教は非常に有力とはなったのですが、おそらく現在までその伝統が残っているということはないと思います。朝鮮半島でも密教の仏は残っていますが、活動している密教寺院はおそらく存在しないでしょう。
 これらと方向は違いますが、東南アジアの方にも密教は伝わっております。東南アジアといいますと先ほど申しました上座部仏教のイメージが強いのですが、たとえば、アンコールワットの壮大な遺跡は、ある研究者によれば、マンダラを立体的に表現したといわれております。ただし、生きた宗教としての密教は東南アジアにも残ってません。遺跡や文献を確認できるにとどまっております。

3.タントリズム

 密教のことをよくタントリズム(tantrism)と呼びます。タントラ(tantra)という言葉にイズム(ism)を付けたものです。タントラというのは、お経をスートラというのというのと同じように、お経の綴じ糸のことのことを指した言葉のようです。密教の経典のことをしばしば「〜タントラ」と呼びます。はじめの部分は固有名詞で、「〜経」と同じようにそれぞれの文献に「〜タントラ」と名前がついております。そのような文献を聖典として扱うことからタントリズムと呼ぶようです。かつてはタントリズムのことを「タントラ教」と訳したこともあるようですが、最近はあまり見なくなりました。
 このタントリズムですが、密教と同義語とはいえないのですが、しばしば密教のことを海外の研究者などは「タントリック・ブディズム」(Tantric Buddhism)と呼んだり、あるいは「ブディッスト・タントリズム」(Buddhist Tantrism)と呼びます。仏教という語が加えられることからもわかるように、それ以外の宗教でも共通の要素をもっています。インドの宗教ではヒンドゥー教が重要ですが、そこにもタントリズムがあります。また仏教と同じ時期に起こりましたジャイナ教でも、タントリズムがあると言われています。複数の宗教に共通に現れた潮流としてタントリズムが存在したようです。もっともそれは宗教と言うよりは、実践形態として存在したようです。
 現在のインドでは「タントリズム」や「タントラ」というと、あまりいい印象を与えないようです。一般のインド人の感覚からすると、タントリズムというのは非常にいかがわしい宗教、卑俗な宗教というイメージがあるようです。インドというのはご承知のように、カーストに代表される身分制度の強固な社会です。その中で「タントリズム」というのは下層階級の宗教という印象がインドでは強いようです。 
 仏教を含むタントリズムがもっている要素として、四つあげられます。「現世拒否的態度の緩和」「儀礼中心主義の復活」「シンボルの重視」「導師の絶対化」。このようなものがほぼ共通して見られます。それぞれを簡単に説明しましょう。

4.現世拒否的態度の緩和

 まず最初の「現世拒否的態度の緩和」についてです。基本的に仏教というのは、悟りを究極の目標とします。そのために、たとえば業であるとか、煩悩であるとか、こういう悟りの道に至るのに妨げになるようなものは、止滅させようとします。これは釈迦以来、仏教の大前提となっています。しかし、これが密教の時代になりますと、肯定まではいかなくても、比較的緩やかになります。あるいは、本来ならば否定されるべきものが、それはそれで価値を持っていて、悟りのために用いることができるんだという考え方も出てまいります。
 もともとインドではさきほどの止滅の方法に対して、それとは逆の、いわば促進の方法というものも、究極の目標を獲得するための手段として存在していました。たとえば、人生の目標というものをあげた場合、そのうちの一つは解脱つまり悟りなのですが、それ以外は社会的な成功をおさめる、あるいはお金をたくさん稼ぐことが出来る、愛欲を満足させる、そういうことがあげられます。悟り以外のこれらの目標にとっては、止滅の道は当然有効ではありません。むしろ「促進の方法」の方が効果的です。これらのふたつは相反する方法なのですが、それぞれが意味あるものとしてインドでは存在していたわけですね。
 仏教の用いた従来の止滅の方法は、ヨーガの発想に近いようです。ヨーガというのは日本では健康法の一つとして行われていますが、あのような独特のポーズや呼吸法というのは何のために行うかというと、精神と身体の活動を最終的には止めるためなのです。つまり止滅に向かわせるためのものです。
 しかし、そのヨーガもタントリズムの流行とともに促進の方法として用いられる場合が出てまいります。たとえば、体の中にエネルギーを作り出す。そのエネルギーを利用して悟りを獲得する。そういう本来ならば止滅させるべきものを有効に活用して悟りに至るということが行われるようになります。そのため、極端な場合、性的なエネルギーさえも悟りのために用いられます。タントリズムというと性的な実践を含むと、とくに西洋の方では思われています。これは従来の止滅の道ではなくて、促進の道を有効に活用したことの極端な現れなのです。

5.儀礼中心主義の復活

 つぎに「儀礼中心主義の復活」です。これもインド全体で見た方がよいのですが、インドの宗教史の時代区分で、仏教が現れる前に「バラモン中心主義の時代」というのがあります。この時代は基本的に祭式宗教、つまり儀式を中心として宗教が構成されております。そこで行われた儀式の中で代表的なものは火を用いた儀礼で、「ホーマ」と呼ばれます。これは密教で行われる護摩に相当します。日本の密教寺院でもさかんに行われていますが、この護摩に近いものを古代のインド人たちは行っていました。密教の護摩は、古代インドのホーマを受け継いだヒンドゥー教から、この儀礼を借用したようです。インドでは現在でも伝統的なバラモン僧やヒンドゥー教の僧侶がホーマを行っています。彼らはタントリズムとは無縁のものたちです。
 このような儀礼を中心とした宗教がかつてはインドに存在して、それが地下水のように流れていました。そこに新興宗教として現れた仏教は、基本的に儀礼を重視しませんでした。もちろん、たとえば戒律を受けるための受戒の儀式などが存在していましたが、それはその内容が重要なのであって、行為や形式に特別な意味があるとは、おそらく考えられていなかったと思います。しかし、密教の時代になりますと、さまざまな儀礼が出てまいります。とくに灌頂と言われ儀式はとくに重視されます。これについては後でふれたいと思います。
 あるいは、加持祈祷という言葉もあります。これは、密教の専売特許というも変ですが、密教の代名詞のようにも用いられます。日本の仏教の歴史を考えた場合、平安時代というのは鎮護国家や貴族の現世利益的な願いをかなえるために、天台宗や真言宗の密教系の仏教が重要な役割を担ったということをご存じだと思います。
 このように、儀礼を重視したのが仏教のタントリズムであると説明することもできます。ただしその場合、仏教的な歯止めもかけられています。たとえば、護摩を焚いた場合、実際には護摩木を燃やして、その火の中に穀物などの供物を入れるのですが、実際に燃えているのは現実的なものであっても、護摩を行う行者そのものは自分の心の中で煩悩を燃やすというように説明されます。つまり、外的な行為というものが精神的な要素をつねに伴っているということです。護摩の場合、外的な護摩そのものを外護摩と呼び、自らの中の煩悩を燃やすことを内護摩と呼びます。この二つはつねに同時進行であると解釈されたり説明されます。

6.シンボルの重視

 三番目は「シンボルの重視」です。ここには「マンダラ」「マントラ」「ムドラー」いう三つの言葉があげてあります。「マンダラ」についてはあとからくわしくお話します。「マントラ」とは真言としばしば訳されるもので、主要な仏ごとに定められた祈願文であるとか、あるいは先ほどの儀礼の中で、ある行為を行う時に唱えられる神秘的な言葉です。一種の呪文なのですが、インドの宗教では昔からこのような聖なる言葉が重視されます。これによって、神々や仏などの聖なる存在に直接働きかけることができると考えられたからです。
 「ムドラー」は両手を用いて作り出される特定の形で、「印」とか「印契」と訳されます。仏像はそれぞれ特定の手の形、つまり印を結んでいますが、これはそれぞれの仏の性格や働きがそこに集約されて示されているからです。また、密教の僧侶の方は、儀式の中でさまざまな印を結びます。たとえば、仏をお迎えしたり、仏に花などの供物をお供えしたり、あるいはお帰りいただくなど、仏に対して働きかけを行うときに、それぞれ定められた印を結びます。実際に印を結んでいるところをお見せできるといいのですが、私は真言宗の僧籍を持っておりませんので、残念ながらできません。体の動き、とくに手を用いた所作によって特定の行為や心情を象徴させる、このようなものが重視されます。
 これらはいずれも、聖なるものである仏と自分を結びつける媒体のようなものだと思います。つまり、このようなシンボルを用いて、それを切り口にして、特定の仏に接触したり、仏に対して働きかけたりできるのではないかと思います。これについては「マンダラ」のところで、もう一度ふれたいと思います。

7.導師の絶対化
 
 最後の「導師の絶対化」は指導者をきわめて重視するということです。程度の差はあれ、これはどの宗教でも同じことだと思います。インドでは、先生のことは「グル」や「アーチャーリヤ」といわれます。「アーチャーリヤ」は日本では「阿闍梨」になります。密教ではその阿闍梨が非常に重視されます。自分が直接教えを受けた先生は、さらにその先生から教えを受けています。このようにたどっていきますと、どの教えも仏から来ていることになります。その流れのことを血脈(けちみゃく)といいます。まさに体の中を流れている血や血管と同じことばです。仏から自分に繋がっているということを非常に重視いたします。「相承」あるいは「師子相承」というようなことばを使うこともあります。
 日本ではたいていの真言宗のお寺では、真言八祖の画像が置かれていると思います。一番我々に近いところでは弘法大師ですが、そこに至る八人の先生たちです。これはチベットでも同様です。チベットの場合、八人ぐらいではなくて何十人という血脈を持っています。これらの先生たちの姿を絵に描いたものもよく作られます。このような絵を前にして、自分がその一番最後に連なっているんだということを、行法の中で確認することも行われます。
 これまでにあげた四つの要素は、仏教ばかりではなくて、インドのヒンドゥー教やジャイナ教のタントリズムに於いても共通して見られます。タントリズムとは何かといった場合、現在の研究者たちがしばしば提示する要素としては、このようなものではないかと思います。しかし、これではちょっと話が曖昧というか、漠然としておりますので、もう少し具体的なところから密教のあり方を見ていきたいと思います。

8.神変と宇宙論

 まずはじめに「神変」です。これは「ジンペン」と読みます。現代風な言い方をすれば、奇跡でしょうか。あるいは奇瑞、吉兆といいますか、きわめて稀な出来事のことです。とくに全宇宙的な奇跡をしばしばこの神変という言葉で呼びます。つまり、われわれの目の前で小規模に起こるのではなく、宇宙を巻き込むような規模で起こる奇跡を指します。この神変というのは、別に密教の専門用語ではないのですが、密教のいろいろなことを考える場合、非常に有効な言葉ではないかと思っています。
 たとえば真言密教において重要な経典に『大日経』というのがあります。この『大日経』というのは通称で、正式名称を『大毘盧遮那成仏神変加持経』といいます。大毘盧遮那というのは大日如来のことです。この経典の名前に「神変」という言葉が入ってまいります。これが日本密教が一番重視する経典の一つでもあります。
 神変とは全宇宙的な奇跡なので、まず全宇宙がどうなっているかということを、はじめにお話ししなければなりません。われわれは科学的な知識がありますので、宇宙についてある程度イメージできますが、仏教を含むさまざまな宗教を生んだインドでは、当然、それとは異なるものを持っておりました。
 インドの宇宙論というのは、一つの山を中心にできあがっております。この山のことを須彌山(しゅみせん)と呼びます。「メール」という場合もありますが、それに「良い」という意味の「ス」をつけて「スメール」と言います。世界の宇宙のまん中には巨大な山がある。世界の中心に軸があるというのはインドだけではなくて、たとえば宇宙樹を持った神話もありますし、珍しいものではないと思います。ただインドではそれを山として表象していたようです。この須彌山を取り巻くように、それよりも背がちょっと低いのですが、山脈が城壁を巡らすように取り巻いております。その外は海です。海の中に大陸が四つあって、その中の南の大陸にインドの人々は住んでいると考えておりました。そこから見る須彌山というのは、非常に巨大な山です。そして周囲の山脈や大海を含んだものが、地球規模に相当するようです。
 この下に円柱形のものが二段あります。ウエディング・ケーキのようなものをイメージしていただきたいと思います。そのケーキの上に細長い積み木を立てたような感じで須彌山が立っております。われわれが住んでいるレベルよりも上を、インドの人たちは神々の世界と考えていました。すぐ上には、「夜摩天」、そして「覩史多天」「楽変化天」「他化自在天」、こういうような神々の世界が空中に浮遊しています。それぞれの天の間は空間です。神々の世界が六種あるので「六欲天」といい、地面の下の地獄からここまでをあわせて「欲界」といいます。この上に「色界」という世界があります。ここは四つに分かれいて、「初禅」「二禅」「三禅」「四禅」というようになっております。
 欲界のすべてと、色界のはじめにある初禅までを、一つのまとまりとして考えました。これのことを小世界といいます。つまり、小さい世界、まだ小さいんです。これだけですでに太陽系ぐらいあるはずなんですが。「初禅」までは単純に上に積み重ねていったのですが、つぎの「二禅」からは、世界は爆発的に増えていきます。なぜかというと、小世界を千個集めて、ようやく「二禅」一つ分の大きさになるそうです。小世界を千個集めたものなので、「小千世界」といいます。小世界の千倍の大きさで一つの世界ができあがっているわけですね。これを「中世界」ともいいます。
 その上の「三禅」というのは、中世界をまた千個集めます。千の二乗になりますね。これが「三禅」一つの大きさです。これは「大世界」と呼ばれます。つぎもこれを繰り返します。大世界を千あわせて、つまり小世界を十億個集めて、「四禅」が一つできあがります。この世界のことが「三千大千世界」と呼ばれます。このように、上にいくほど広がっていく世界をインドの人たちは考えていました。
 さらにその調子で千を四乗してもいいようなものなのですが、ここで終わりです。「色界」というのはこれは色や形のある世界、つまり物質でできている世界ということです。その上には「無色界」というのがありますが、これは色や形のない世界、精神のみの世界なんですね。つまり、空間的な広がりをもたない世界がこの無色界なのです。宇宙の広がりという意味では、「四禅」の一番上の、「色究竟天」というところが、さいはてになります。しかし、精神的世界であるその「無色界」をさらに超越しないと仏には成れません。

9.大乗仏教の神変

 これまでの宇宙論は大乗仏教以前の宇宙論なのですが、大乗仏教になりますとさらにこれをとてつもなく大きくしていきます。その代表的なものが『華厳経』という経典に説かれています。『華厳経』では逆に大きい方から説明します。それによると、宇宙全体が巨大な蓮の華でできております。蓮の花の中にはハチスというのがあります。『華厳経』の宇宙論ではこの部分が基盤になります。ハチスの中には種が詰まっております。われわれの知っている蓮であれば、種の数は品種によって決まっているのでしょうが、なにぶん、巨大な蓮華なので、無数に種が詰まっているそうです。一つの種を取り出しますと、その中に二十の層があります。その二十の層はそれぞれまとまりを持っているのですが、このそれぞれの層の中に無限の「世界」が詰まっています。この世界が先ほどの三千大千世界です。これが、けし粒のように無数にあるそうです。そういう宇宙を『華厳経』の人たちは考えたようです。われわれが住んでいるのは、巨大な蓮の中の種の中にある、その種を構成している無数の宇宙の中の、何千、何億、数えられない中の、その中の一つの大陸に住んでいる、そういうような世界を大乗仏教の人々はイメージしました。
 このような宇宙論を当時の仏教徒は、別に趣味で考えてみたわけではありません。このことと先ほど申しました「神変」と関係があります。大乗経典の最初にはしばしば決まった表現が出てまいります。当然、お経の始まりですから、仏がこれから教えを説きますという場面です。その時に先ほど申し上げた宇宙的規模の奇跡というものが起こります。要点だけいいますと、まず、説法をする仏が精神的な統一状態に入ります。これを三昧といいます。そうすると、仏の体から光が発せられます。その光というのは、そこら辺が明るくなるだけではなくて、先ほどいいました全宇宙、蓮の世界すべてを照らし出すような強烈な光です。それは仏の体中の毛穴という毛穴から発せられるという表現も現れます。
 それと同時に、説法を始めようとする仏の蓮華を中心に、無数の蓮華が出てまいります。池でたくさんの蓮の華が咲きますよね。ちょうどあんな感じのイメージです。その一つ一つの蓮華の中にも仏がいます。これらの蓮というのは、先ほどの宇宙全体の蓮と同じものです。つまり先ほどは一つの蓮華の説明をしましたが、今度はそれを外に広げて、この蓮華を一つの単位として無数の蓮華が出てくることになります。要するに無限の世界を蓮でイメージしているのです。中心の仏が説法をする前に光を発しますと、まわりの蓮華一つ一つにも仏がおりまして、これらの仏もそれぞれ教えを説いている姿が見えるんです。つまり、これから教えを説こうという時に起こる奇跡というのは、世界中で、宇宙全体で、無数の仏の説法というものが同時に行われていることが確認されることなのです。これが大乗経典はじめに現れる神変です。
 このことは、じつは釈迦自身の生涯におこったある出来事に由来します。これは「舎衛城の神変」と呼ばれ、釈迦が異教徒と対決して奇跡を示して見せたことです。異教徒から神変比べを迫られた釈迦は、地面の中から巨大な蓮華を出して、さらにその周りにも無数の蓮華を出しています。その一つ一つには仏が住しています。このような無数の仏を乗せた蓮華というのを生み出すことで、異教徒を圧倒します。そのため千仏化現とも呼ばれます。
 釈迦の場合は単なる奇跡でしたが、無数の仏が登場する大乗仏教では、仏が現れるだけではなく、彼らが説く教えが重要になります。というのは、別の世界では全然違うことが全然違う方法で教えられたら、同じように悟りに至ることができないわけです。そのときにモデルとなるのは、当然釈迦です。その場合、モデルとなるのは釈迦の教えだけではなく、釈迦の生涯もです。つまり、すべての仏は釈迦と同じように行動する、同じように法を説き、同じように生涯をおくるという考え方もできてきます。ところが、さらにこれが進みますと逆転現象が起こります。つまり、釈迦は他の仏と同じ生涯をたどったはずだということになるわけです。モデルであったはずが、それは一つの例にすぎないわけです。そうしますと、釈迦も含めたすべての仏は、ある法則に従って法を説き、衆生を救済してさいごに涅槃に至るということになります。仏をも支配するような法則が存在するということになります。このことを非常に簡単な言葉ですが、「法」(ダルマ)といいます。つまり全宇宙を支配するような秩序、あるいはすべての存在の背後にある真理、こういったものに仏も従うわけです。
 インドでは仏教に限らず、昔から全宇宙を支配する秩序のようなものがよく言われます。ダルマということもありますし、古い時代では「リタ」という言葉も用いられます。「リタ」とは時間とか季節の移り変わりを支配する法則といったイメージが強かったようです。仏教の場合はそれを全宇宙の法則と考えるようになりました。そして、あらゆる世界にいる仏たちを支配する法が抽象的な秩序や真理というのではなく、何らかのイメージを伴ったものであってもいいんではないかということが出てきたようです。そのことを、法に「身体」という言葉を付けて「法身」(ほっしん)といいます。この法身こそが毘盧遮那、つまり大日如来です。先ほど申しました『大日経』の大日如来です。
 『大日経』の正式の名前の『大毘盧遮那成仏神変加持経』というのは、偉大なる毘盧遮那如来によって加持されて、つまり何らかの力を受けまして、それによって神変を示すということです。つまり法に従って教えを説くわけです。こうして説かれた教えが経典として伝えられるのです。

10.マンダラ

 毘盧遮那を中心としたこのような宇宙を示したものがマンダラです。日本では胎蔵曼荼羅と金剛界曼荼羅の二つのマンダラが両界曼荼羅と呼ばれて重視されます。きょうもこの二つを簡単に紹介しようと思います。
 マンダラは仏を中心とした世界の見取り図です。巨大な蓮華の中にある仏の世界です。日本のマンダラでは全体が蓮でできていることはよくわかりませんが、インドの文献に説かれるマンダラや、チベットに残るマンダラでは、マンダラの周囲は蓮の花びらで囲まれています。
 しかし、はじめて胎蔵や金剛界のマンダラをご覧になった方は、これが「仏の世界」といわれても「何がなんだかわからない」と思われるはずです。われわれは「仏の世界」と聞くと、阿弥陀如来を中心にした極楽浄土の光景などを思い浮かべます。しかし、マンダラというのは違うのです。そこには景色がまったくないんです。仏の姿をぎっしり詰め込んだだけの図です。その並べ方があまりに整然としているために、非常に緻密な細密画のような感じがするのです。
 胎蔵マンダラの中心にいるのは大日如来で、そのまわりを四人の仏と四人の菩薩が取り囲んでいます。菩薩というのは仏になるための修行をしている者たちを指す言葉です。さらにこの部分の左右には観音と金剛手という菩薩を中心とした区画があります。これは、仏を中心にして、その両側にこれらの菩薩をひとりずつ配した、仏三尊像という形式に由来するものです。三尊のまわりにさまざまな取り巻きを加えて、この三つの区画はできています。そして、そのまわりの部分も、中心となる菩薩などがいて、それを取り囲むようにほとけの群像が描かれます。マンダラ全体では三六〇あまりのほとけの数が描かれているそうです。実際は宇宙全体を表すのですから、無数のほとけが必要なのですが、代表のみを描いたのです。
 金剛界曼荼羅の方は、もう少し複雑です。とくに日本の金剛界曼荼羅は独特で、全体が九つの区画からなっているので、九会(クエ)曼荼羅という言い方もします。同じようなマンダラが九つあるのですが、基本になるのは中心にある一つです。ここは成身会(ジョウジンネ)と呼ばれます。チベットでは、金剛界マンダラといえば、たいていこの中心のマンダラだけを描きます。九会曼荼羅の他の部分は、これを基本にしてできあがったものです。これは、先ほどの仏の世界ということと関係があります。
 先ほど申し上げたように、われわれは仏の世界というと極楽浄土のようなことを考えますが、インドの人たちが仏の世界と言った場合、景観はあまり関係なかったようです。それでは、何が重要であったかというと、要素というか、どうやってそれを組み合わせて説明するかということだったようです。 金剛界曼荼羅を生み出したインドの仏教徒たちは、たくさんのほとけたちを「仏部」「金剛部」「蓮華部」「摩尼部」という四つのグループに分けました。最初のグループは仏、次の「金剛部」は金剛手菩薩を中心としたグループです。「蓮華部」というのは、観音菩薩を中心としたグループです。これは胎蔵マンダラの中心部分にも共通します。これに、宝石を意味する「摩尼」というグループを加えました。そのリーダーは虚空蔵という菩薩です。何百、何千という仏を、とりあえず四つに分けたわけです。
 これらの各グループが、それぞれ六つのマンダラとして表現されます。まずはじめは「大マンダラ」で、仏たちの世界をそのまま仏たちの姿で表現したもので、これが一番基本になります。次に「三昧耶(サンマヤ)マンダラ」というのがあり、そこでは仏はすべてシンボルで表されます。これは仏の救済者としての役割を強調したマンダラです。三番目は「法マンダラ」で、仏の智恵を強調したマンダラです。智慧を象徴する金剛杵とともに仏たちは描かれます。四番目は「羯磨(カツマ)マンダラ」で、仏の行為や活動を強調したマンダラです。以上の四つのマンダラは、基本となる大マンダラと、仏の持つ三つの側面に焦点を当てた三つのマンダラです。五番目は「四印マンダラ」で、仏の数が多すぎるから減らして表現しようと、五尊だけで描いた簡略なマンダラです。最後の「一印マンダラ」は、それでも多すぎるから一番大事な仏だけを取り出して描いたものです。つまり基盤となる大マンダラを中心に、三つの機能分化した姿、それから二つの簡略化した姿という六つの形で仏の世界を表しているわけです。
 これらの六種類のマンダラを、先ほどのた四つのグループがすべて持っています。つまり4?6の二十四通りのマンダラの描き方ができるわけです。二番目の「金剛部」だけは、さらに四種類のマンダラがあるのですが、これについては省略します。日本のマンダラは二四のマンダラのはじめの八つ、つまり、仏部の六種のマンダラと、金剛部の六種のはじめの二種のマンダラをまとめたものです。全体の基本となる仏部の大マンダラが成身会に相当し、中心におかれ、そこから右回りに、残りのマンダラをならべるのです。ただし、右上のマンダラは『理趣経』という経典にもとづく別の系統のマンダラです。
 仏の世界を表すために、我々でしたら景色で表現するようなところを、彼らはすべての要素を一度分解して、それを組み合わせることで表したようです。

11.灌頂

 最後に「灌頂」についてお話しします。日本の場合、代表的なマンダラはこの二つだけなのですが、インドにまいりますと、ご存じの方が多いいかも知れませんが、何十とマンダラがあります。インドから密教が滅んだ一二〇〇年頃に、どのくらいマンダラがあったかというと、少なくとも百ぐらいはあったようです。これは文献から確認できます。そうしますと、なぜそれだけたくさんのマンダラを作らなければなかったのか、疑問を覚えます。宇宙の姿であれば一つでいいはずなんですが、どうしてそんなに必要なのか。このことは、マンダラとは何のために作られたかということに関係します。
 日本の場合、一般にはマンダラは礼拝の対象であったり、あるいは、多くの人にとっては観賞用の絵画や骨董品だったりします。しかし、マンダラは密教で行われる灌頂という儀礼と関係があるのです。
 灌頂というのは何かといいますと、単純にいえば、密教の僧侶としての資格を得るための儀式です。ですから、特定の修行を終えると高野山でも灌頂を受けます。灌頂は真言宗だけではなく、密教の要素を持つ他の宗派でも行われます。しかし、資格を受けるための儀式とは申しましても、資格検査や試験のようなものではありません。これは人間が仏になることを約束するための儀式なのです。灌頂は阿闍梨によって弟子に与えられるのですが、それによって弟子がたしかに仏に成ることが約束されるという儀式なのです。
 ここでマンダラが重要になります。本来、マンダラは地面の壇の上に作られました。日本ではこの方法は用いられず、敷マンダラというマンダラが床の上に広げられます。文字通り、敷くマンダラです。インドの場合、地面の上にマンダラを作るとき、色の付いた砂で作りました。チベットでは砂マンダラというのがあって、現在でもその伝統は残っていますが、これはインドが起源です。そして、儀式の中の道具、あるいは装置としてマンダラは用いられます。どのような装置かというと、仏の世界をわれわれの目に見えるかたちで便宜的に表したものなのです。そのため、仏の世界が描かれる必要があるわけです。
 仏の世界とは無色界をも超越していますから、空間的な広がりはないので、それをわれわれにも見える形で地上に投影したものなんですね。ですから、これが仏の世界を正しく描いたものであると言ったら、おそらく間違いなのです。形のないものに便宜的に形を与えたものです。先ほど申しました、聖なる世界に接触するための媒体として用いられるシンボルなのです。これが儀式の中で地面の上に描かれたり、あるいは日本の場合は描いたものを広げたりします。
 灌頂はこのマンダラを前にして行われます。いろいろな所作があるのですが、重要なところは阿闍梨が弟子に智慧を与えることです。智慧はある時は水によって象徴されます。灌頂とは文字通りには「水をそそぐ」という意味です。そのために、灌頂瓶というのですが、灌頂用の水瓶を用いまして、阿闍梨が弟子に水を注ぐのです。これによって弟子に仏の智慧が与えられます。また、水が注がれた後、阿闍梨は弟子の瞼に、細長い金属製の棒で触れます。この棒は「金箆」、「コンピ」とか「コンペイ」と呼ぶそうなんですが、目医者さんがこれに薬を付けて目にこすりつけると目が良くなるという、もともとは医療器具だったようです。つまりそれまでは智慧がありませんでしたから、目が見えない状態だったわけですね。仏の智慧が授けられたことによって、目が開かれることになります。つまり開眼するというわけです。さらに、その後、阿闍梨は弟子に鏡を示します。これによって智慧の目が開かれたことを弟子自身が自覚するのです。
 灌頂の儀式の最後の部分では、阿闍梨が弟子に法輪と法螺貝を与えます。この二つはいずれも教えを説くことと関係があります。昔から仏教では教えを説くことを「法輪を回す」とか「法螺貝を吹く」というたとえを用います。このような一連の所作を通じて、仏の智慧を与えられた弟子が、そのことを自覚した上で、仏として法を説く資格が与えられるということが儀式の中で行われます。つまり、弟子は、経典の冒頭などで示された神変を再現することになります。これから仏が法を説くという全宇宙的な規模でおこる奇跡の、擬似的にではありますが、その準備段階にまで至るわけです。マンダラはそれが行われる場であり、そこに含まれる仏は弟子そのものの姿でもあるわけです。
 ここまでは仏教的なのですが、密教というのはそれだけではなくて、シャーマニズム的な要素があります。というのは、弟子を仏にするために、阿闍梨が仏そのものを弟子の中に降ろしてくるのです。これには独特の行法があるようです。阿闍梨は仏の世界から仏を呼んできます。そして自分の中に仏を一回通過させて、弟子の中に入れます。阿闍梨は一種の「避雷針」のような役割をするのです。灌頂において弟子は儀式の最初には目隠しをしているのですが、阿闍梨が弟子に仏を降ろした後に目隠しを取ります。取ると目の前にマンダラがあるのです。マンダラの中心にいるのは今降ろしてきた仏と同じなんですね。つまり仏の世界から一番中心の仏を阿闍梨が降ろしてきて、弟子に入れるわけです。弟子に入れた仏というのは、いま目の前に見ているマンダラのまん中の仏なんですよということを阿闍梨は弟子に言います。こういう図式で、灌頂儀礼というのは行われるようです。阿闍梨が弟子に水を注いだりして、仏の智慧を与えるのはその後です。
 弟子は自らが凝視しているマンダラ、特にその中尊の姿を凝視することによって、自らがその仏と成ることを儀式の中で確認するわけです。そして、それは単に仏に成るということだけではなく、大乗経典などに見られる宇宙論的な意味でです。そのとき、弟子は宇宙の全てを見渡すことができ、その中で自分が仏として法を説くんだということを自覚するのです。
 別の見方をしますと、阿闍梨が弟子を仏にするということは、阿闍梨が弟子に仏としての魂を入れることなんですね。じつはこのことはこの儀式の性格を考える上で重要なことだと思います。同じような方式で行う儀式がインドでもう一つあります。それは仏像の開眼供養なんです。どんな偶像でもそうでしょうけど、木とか石とか金属とかそうしたものが本当に神が宿るものとして礼拝の対象、信仰の対象となるためには、その中に何か入ってなければなりません。それをわれわれ日本人は魂と言ったりしますね。仏像を刻んで、その中に魂を入れると言います。仏像ではなく、弟子に魂を入れる、弟子の開眼をするというのが、じつは灌頂の儀礼だということです。弟子の灌頂と仏像の開眼供養とでは、どちらが起源であるかははっきりとはわかりませんが、少なくとも共通の方法でそれをなしうることができると、当時の密教の人は考えていたようです。

 「密教とは何か」というタイトルとは裏腹な内容になりましたが、最初に概略的なことを、そして後半で具体的なお話をさせていただきました。ご静聴どうもありがとうございました。
(高野山大学助教授)
(2000年度宗教研究所ゼミナール「真言密教を学ぶ」第一講演)
(『出会い キリスト教と諸宗教』51号 2001年4月 pp. 3-19、2000年9月11日に行われた日本キリスト教協議会宗教研究所主催のゼミナール「真言密教を学ぶ」における講演の記録)