マンダラ、その構造、機能、歴史


1.はじめに

 最近、写真集や展覧会でマンダラを目にする機会がかなり増えてきました。その多くは日本の密教寺院に伝わるマンダラですが、中には遠く海外から運ばれてきたチベットのマンダラなどもあります。「マンダラ」という言葉は知っていても、実際にその細部まで注意深く見たことのある人は、それほど多くはないでしょう。はじめてマンダラを間近に見て、その細部にまで目を向けると、たいていの人はその鮮やかな色づかいと、細密画を思わせる細かな表現に驚かされます。そして、いったいこれは何を表しているのかという疑問がわいてきます。しかし、説明の文章などを読んでも、「仏の世界」「宇宙の真理」といった、およそわれわれの日常とかけはなれた言葉や、「金剛界は智慧を、胎蔵界は慈悲の世界をそれぞれ表し、その両者で<金胎不二>を示す」という難解な説明が並んでいるばかりです。その結果、マンダラは「なんだかすごいけれど、よくわからないもの」という印象をいだくだけで終わってしまうことが多いようです。
 これはマンダラを絵画として理解しようとするためかもしれません。私たちの知っている仏教絵画の多くは、たとえば「釈迦如来像」や「不動明王像」のような、単独もしくは複数の仏を描いた画像です。そこに描かれている仏たちの種類や姿はさまざまですが、それが何であるかは、作品の名称を見ればたいていわかります。また、仏教絵画の中には、極楽浄土から阿弥陀如来たちがやってくる様子を描いた「来迎図」や、釈迦の臨終の場面を表した「涅槃図」のような、特定の情景を描いた作品もあります。しかし、この場合も、描かれている主題が作品の名称になっています。説明の文章を読めば、さらに作品についての理解は深まるでしょう。
 これに対し、マンダラという言葉はインドの古典語であるサンスクリット語ですから、その本来の意味を知る人はまれです。そこに描かれているとされる「仏の世界」や「宇宙の真理」という説明からは、具体的なイメージをいだくことはできません。「智慧の世界」や「慈悲の世界」も同じことです。
 ここでは、マンダラが絵画であることから少し離れて、単なる「もの」として扱うことにします。そして、私たちが「もの」の説明をするように、マンダラを説明することにします。たとえば、鉛筆について説明する場合、六角形の細長い木の棒で、中に黒鉛の細い芯が入っていると、その形状や材質だけ説明しても不十分です。むしろ手に持って文字や絵などを描く筆記具であると言わなければ、それが何であるかを説明したことにはなりません。何のために用いられ、どのような働きがあるのかは、「もの」を説明するときの重要な情報なのです。また、断面が六角形ではなく円形の鉛筆や、黒以外にも色鉛筆もあるなど、その種類について説明することも必要です。これらを統合することで、はじめて鉛筆とは何であるかが理解できるでしょう。
 これにならって、マンダラについてもその形態や構造、機能、種類などについて、順に述べていくことにします。

2.構造

 マンダラの3つの部分
 マンダラを見ると、円と正方形でできた幾何学的な形態に強い印象を受けます。全体から細部に至るまでほとんどが直線や円で構成されていて、これらの線によってできた区画に、仏たちの姿が整然と描かれています。いびつな円やゆがんだ線などはまったく見られません。
 マンダラの形態や構造を説明するために、マンダラの全体を三つに分けることにします。この場合のマンダラは、チベット仏教が伝えるマンダラです。日本のマンダラもチベットのマンダラも、基本的には同じ構造をしていますが、チベットのマンダラで一番外側にあたる円の部分は、日本のマンダラには含まれません。三つの部分とは、この一番外の円の部分とその中に含まれる正方形、そして、さらにその内部にある仏たちを描いた部分です。順に外周部、楼閣、内陣と呼ぶことにします。楼閣とは宮殿や都城のことで、この部分が仏たちの住む建造物に相当します。内陣はその内部ですが、内部空間よりも、そこに住む仏たちそのものにむしろ重点を置くことにします。

 楼閣の構造
 まずはじめに楼閣について見ていきたいと思います。
 建造物すなわち家などの構造を表すために、われわれは平面の見取り図(間取図)をよく用います。不動産の広告やインテリアの雑誌などで目にするもので、これによって家の中にいくつ部屋があり、それぞれがどのような形や大きさであるかがわかります。家というのは立体的な構造物なのですから、平面図だけでは全体像はわからないのですが、最も重要な情報として、このような平面図が示されます。そして、外観の写真や絵を添えることで、見る人に全体のイメージを伝えます。実際の建物を建てるときには、平面図だけではなく、すべての方角から見た側面図(立面図)が作られます。そして、このようないわゆる設計図にもとづいて、建築作業が進められます。
 しかし、建物の実際の外観を示す側面図に対して、平面図は建物の平面を「ありのままの姿」で表したものではありません。平面図は基本的に建物を上から下に向かって見たものですが、建物には屋根や天井がありますし、部屋や部屋を仕切る壁や建具があります。できあがった建物のどこに視点を置いても、平面図のような姿で家をとらえることができないのです。
 絵というものが、実際に見えるものをありのままに描いたものであるとすれば、マンダラの楼閣の部分は絵ではなく、このような設計図と言った方がいいでしょう。しかし、絵とは必ずしも見えるものだけをそのように描いたものではありません。たとえば、小さな子どもが描く絵には、このようなマンダラの表現方法に通じるものがしばしば認められます。家や乗物などを描く子どもは、建物や乗物の枠だけを描き、さらにその内部にいる人物や物体も描くことがあります。外からは見えないはずの人物などが「見えて」いるのです。まるで壁が透明な板でできているようです。また、建物の側面や背面のように、正面からは見ることのできない部分を正面に続けて描くこともよくあります。おとなであれば、遠近法(厳密にいえば消失点を持つ線遠近法)を用いて立体的な表現をとるところですが、そのような「約束ごと」を知らない子どもは、展開図のような方法をとるのです。
 マンダラに描かれている楼閣も、このような一種の展開図で表現されています。楼閣の全体は正方形で囲まれ、その内側にもひとまわり小さな正方形があります。そして、二つの正方形にはさまれた部分は、六つの層に分かれています(図の1〜6)。これは楼閣の外壁にあたり、その外側がこれらの六つの層で構成されていることを表します。1から6の順に下から上に積み重ねられているのです。つまり、この部分は楼閣の側面図にあたりますが、マンダラの中心から外という水平の方向が、実際の建物の下から上という垂直構造に対応しています。しかも、楼閣の四方はすべて同じ状態で表現されていますから、建物の四方の側面図をつなげたように描いていることになります。
 楼閣の各辺の中央には複雑な図形が描かれています。これは楼閣の門の部分を表します(10〜14)。ここも展開図の方法がとられていて、凸の字を逆にしたような図形を中にしたいくつもの線は、門やその周囲の構造を示しています。たとえば、14は門の天井に、12は門の扉を表していることが、その名称から知ることができます。門の扉は各辺とも左右に2枚ずつあるのですが、壁に対して垂直に置かれていることから、いわゆる観音開きの戸が開いた状態であることがわかります。7の部分は門ではなく外壁の一部で、3から6の部分に垂直に接しています。外壁がここで終わり、その側面の壁の厚みをおそらく示しています。
 7とまったく同じ大きさである8は、壁や門には含まれず、その外側で、楼閣の四方に描かれたトーラナの一部になります。トーラナは神社の鳥居を複雑にしたような形のアーチで、入口の指標となります。インドの初期の仏教美術を伝えるサーンチーやバールフットなどのストゥーパ(仏塔)のまわりに置かれたものが、よく知られています。このトーラナも外壁と同じように、中心に近い方が下、遠い方が上となり、15から25の11の水平の層が重なっています。15の下に伸びる8の部分は、トーラナの柱と呼ばれ、その名のとおり、15から上の部分を支えています。このアーチの下をくぐって、楼閣の入口に入ることができるのです。なお、トーラナはネパールの仏教寺院の入口にも飾られていますが、その形態はマンダラに見られるものとかなり異なります。
 トーラナの中心の部分は空白となっていますが、ここには連珠の飾りやカーテンのような布が吊り下げられます。豪華な装飾が施されていることがわかりますが、同じように、外壁の層の中にもさまざまな装飾が見られます。図5の3は宝と呼ばれる部分で、実際に宝を敷き詰めたように描きます。その上の4は瓔珞と呼ばれる連珠が吊り下げられます。さらに、楼閣の外側には宝の壺や、さまざまな吉祥なシンボルがところせましと並べられます。もちろん、この部分も展開図のルールに従っていますから、壁の外に描かれていますが、実際は楼閣の屋根の上に載っていることになります。仏の居城である楼閣は、贅を尽くした豪華絢爛な宮殿なのです。

 外周部とコスモロジー
 それではなぜ仏たちの住む住居が、豪華な宮殿の形をしているのでしょうか。それを説明するためには、楼閣のまわりを取り囲む外周部にも目を向けなければなりません。
 マンダラの外周部は四重の同心円からなり、三つの帯に分かれています。外側から光焔輪、金剛杵輪、蓮華の花弁と呼ばれています。実際に光焔輪の部分には燃えさかる炎が、金剛杵輪には等間隔におかれた金剛杵が、そして蓮華の花弁にはたいていの場合、64枚の蓮弁が描かれています。これらの三つの部分は、仏教の説く宇宙の構造を反映しています。
 仏教の宇宙論すなわちコスモロジーの基本となっているのは、須弥山(スメール)と呼ばれる巨大な山です。須弥山はさいころを二つ上下に重ねた形の縦長の直方体で、世界の中心にそびえていると考えられていました。この須弥山を中心に山脈と大海が広がり、地下には地獄が、地上から空中にかけては神々の世界が広がっています。われわれ人間がいるのは、須弥山の南方の大海に浮かぶ大陸です。須弥山の頂上には神々の王である帝釈天の居城がおかれ、帝釈天を含む33の神々が君臨していることから、三十三天と呼ばれています。マンダラの楼閣のモデルになっているのは、この須弥山上の帝釈天の城なのですが、それについてはまた後でふれます。
 三十三天の上空にも神々の世界が幾重にも続いています。ここには梵天などの神々が住んでいると考えられています。おもしろいことに、このような天界は、上にいくほど巨大化し、しかも、各層の間隔もどんどん開いていく、一種の「頭でっかちな」世界なのです。上にいくほどそこに住む神のレベルも上昇し、それに見合うような空間的な広がりをそなえているからです。
 須弥山を中心とした世界は、想像上の産物ですが、インドにおける聖なる世界を表しています。そのため、その構造は雑然としていたり、いびつであることはけっしてありません。須弥山を真上から見ると正方形をして、その周囲に広がる山脈もきれいに正方形を描いています。世界全体は鉄囲山という鉄でできた山脈が取り囲み、大海の水があふれないように防波堤の役割を果たしていますが、これも円です。聖なる世界とは秩序化された空間であり、それゆえ「コスモス」と呼ぶことができるのです。シンメトリカルな構造はこのようなコスモスの基本的な特徴となっています。
 須弥山を中心としたコスモロジーは、仏教に限らず、インドで広く見られるものですが、仏教徒たちはこれを基本にして、さらに複雑な宇宙観を発展させていきました。その代表的なものが『華厳経』などに説かれる「蓮華蔵世界」です。宇宙全体が巨大な蓮華ででき、その中に無数の須弥山世界が含まれているという考えです。伝統的な須弥山を中心とした宇宙をひとつの単位のように扱い、無限の須弥山世界を内包する蓮華で宇宙をイメージしたものです。蓮華すなわち蓮の花は、インドでは生命や豊穣と結びついた代表的な植物でした。宇宙全体をひとつの生命体としてとらえているのです。
 マンダラの外周部に描かれた蓮華は、このような宇宙全体に匹敵するハスの花の花弁を表しています。宇宙と同じ大きさの蓮華なので、その花弁の数も無数なのですが、64という聖なる数にしています。マンダラで蓮華の花弁の外側に描かれている金剛杵輪と光焔輪は、この蓮華の世界を包み込むような「バリア」に相当します。金剛杵輪は金剛杵を編んで作ったような網でイメージされ、その外側は光と炎によって覆われています。宇宙全体を包み込んでいるのですから、おそらく球体をしていたと思いますが、それをそのまま描いたのでは、その内部を見ることができません。中心の部分で水平に輪切りにして、その切り口だけを蓮弁の外側に描いたことになりますが、内部を透視できるように描いていると言うこともできます。
 蓮弁の内側は楼閣が置かれる空間ですが、この部分にも蓮の花が関係します。蓮の花びらの中にはいわゆる「ハチス」があります。「蓮華蔵世界」ではこのハチスの部分は「金剛地」という名称を持ち、金剛でできていると考えられました。マンダラの場合も楼閣がそびえる大地は同じように「金剛地」と呼ばれ、実際に無数の金剛杵が、ちょうど原子のように結びついてできあがっていると説明されます。マンダラでは無数の金剛杵を表すかわりに、十字に金剛杵を組み合わせた羯磨杵を楼閣の下に描きます。羯磨杵とは文字通りには、すべての方角に先端を持つ金剛杵という意味です。羯磨杵の大部分は楼閣の下に隠れていますが、四方のトーラナのまわりにその一部を見ることができます(図8のトーラナの周囲参照)。蓮華を主要なモティーフとした宇宙の姿は、外周部だけではなく、楼閣の方にまで及んでいることになります。
 
 仏と王
 須弥山世界であれば、須弥山頂に居城を構えるのは神々の王である帝釈天ですが、マンダラの場合は仏になります。マンダラには多くの場合、複数の仏が描かれます。日本の密教で代表的なマンダラである金剛界マンダラでは、中心に大日如来が置かれ、その四方の東南西北に、阿◎、宝生、阿弥陀、不空成就が位置します。これらの4尊の仏は、それぞれの方角にある仏国土をつかさどる仏たちですが、マンダラでは全員が大日の居城に集合したように描かれます。蓮華蔵世界に含まれる無限の仏国土とそれを支配する仏たちを、四方の四仏で代表させているのです。そして、大地を形成する無数の金剛杵をひとつの巨大な羯磨杵で表したように、無数の須弥山世界にある無数の楼閣も、ただひとつの楼閣としてマンダラに描かれます。
 この楼閣の中央に位置する仏---金剛界マンダラであれば大日如来---は、それ以外の仏たちと同格の仏ではありません。宇宙全体の根源的な存在ともいうべき仏です。四方の仏たちも、それ以外の無数の仏たちも、この中心の仏が姿を変えて現れたにすぎません。いわば、宇宙全体の統轄者であり、支配者でもあるのですが、武力によって支配するのではなく、法すなわち仏教の教えによって支配するのです。
 仏が法によって世界を支配するという考え方は、仏教の中ではその成立当初より認められます。釈迦の伝記によれば、その出生前後に将来を占ったところ、俗世にとどまれば理想的な帝王である転輪聖王となり、出家すれば仏陀となると釈迦は予言されます。これは、武力や権力によって世界を支配する転輪聖王のイメージを、法によって支配者となる仏陀に重ね合わせたと見ることができます。仏を王と結びつけるのは、仏教徒たちの巧みなイメージ戦略だったのです。無数の世界を想定する蓮華蔵世界のような大乗仏教のコスモロジーでは、それぞれの世界に転輪聖王と仏陀が必ずセットで出現するというルールもありました。
 神々の王である帝釈天の居城が、世界を法によって支配する仏の楼閣のモデルとなっている背景には、仏教徒たちが伝統的に持っていた<王=仏>という図式があったと考えられます。

 瞑想とマンダラ
 マンダラの仏たちをおさめる楼閣の内部、すなわち内陣についても、これまでの部分と同じような説明が可能です。宮殿の内部なのですから、本来は外からは見ることができませんが、天井や屋根のない状態で描かれています。内部の平面図の中に仏たちの姿だけを加えたということもできます。金剛界マンダラなどでは、内陣の中に井桁のしきりがあって、仏たちはそれぞれ小部屋にいるように描かれています。この井桁の線は、実際は楼閣内部の柱を表し、本来は垂直に立っているものです。外壁やトーラナと同じように、垂直の構造物が平面に表されているのです。なお、楼閣の内部には視界をさえぎるような壁や扉はなかったようです。
 内陣に整然と配される仏たちは、日本のマンダラとチベットのマンダラとでは、描かれる向きが違います。日本のマンダラでは、一方向、すべてマンダラの上に頭を向けた状態で並んでいるのに対し、チベットでは中尊の下の仏は頭を下に、左右の仏たちはそれぞれ中尊と反対側に頭を向けています。つまり、中尊から外に向かって広がったような状態になっているのです。ただし、壁画として描かれたマンダラなどの場合、チベットでも日本と同じように天地が一定の向きになったものもあります。
 チベットのマンダラに一般に見られるこのような独特の配置法は、一見すると不自然な感じがしますが、実はこちらの方が、マンダラの描き方としては本来的です。もともと、インドではマンダラは地面に描かれることが一般的でした。壁画や日本の軸装のマンダラは、このような水平なマンダラを、垂直に起こしたものなのです。垂直に表現するときには、仏たちも頭を上に向けないと違和感がありますが、水平であるならば、どちらを向いていても、実際の向きに一致することはありません。これは楼閣の外壁などでも同様で、そのために上下の関係を平面上では中心から外へという方向に置き換えることができたのです。仏たちも同様で、マンダラの中心、つまり中尊に近い方が下、外が上になるので、頭が中尊と反対の方向に向きます。
 しかし、その場合、楼閣の外壁などと大きく違う点がひとつあります。楼閣のような構造物の場合、マンダラに描かれていたのは、外から見た側面図でした。これに対して、仏たちは、マンダラの中央から見た姿が表されているのです。マンダラに含まれる仏たちは、すべて中央の仏の方を向き、これをそのまま背後に倒したような状態で描いていることになります。幾重にも花びらを重ねた花が、その花弁を開いたようなイメージでとらえられるかもしれません。花弁の内側には仏たちの姿が描かれているのです。
 マンダラがこのように描かれるのは、マンダラを瞑想する実践方法に関係します。マンダラは実際に描くだけではなく、瞑想の対象としても重要でした。というよりも、むしろ、仏たちの世界を瞑想するときに、その見取り図として用いられたのがマンダラであると言った方がよいでしょう。瞑想上のマンダラの方が、実際に形として表現されたマンダラよりも重要であったのです。
 マンダラを瞑想する行者は、はじめに仏たちをおさめる場を作り出します。これが宇宙全体を表す外周部や、仏たちの居住空間である楼閣です。このときは、行者は宇宙全体を創造しているのですから、その全体を外から鳥瞰しています。こうして場が準備されると、はじめにマンダラの中尊を生み出します。そして、順次、中尊に近い仏から生み出していきます。その時、行者の視点は中尊と同じマンダラの中央にあります。そして、自分のまわりにつぎつぎと生み出される仏たちは、すべて中央、つまり行者の方を向いています。子の過程は楼閣や宇宙全体という一種の容器を作り、それを中心から周縁に向かって、仏たちによってつぎつぎと満たしていくというイメージでとらえることができます。
 マンダラに描かれる三つの部分は、外周部と楼閣を表現する場合と、内陣の仏たちを描く場合とでは、同じように立体的なものを平面に置き換えながらも、それを見ている視点は同じではないのです。
 
3.機能

 マンダラを作る
 マンダラはさまざまな形で表現されます。日本のマンダラは絵画の形式をとるのが一般的です。掛け軸のように表装され、壁などに掛けて用いられます。チベットでは壁に直接描かれる壁画のマンダラも数多く残っています。チベットには、一般に立体マンダラと呼ばれるものもあります。木や金属を用いて楼閣を立体的に作り、その中に仏たちの像を安置します。
 わが国にはこのような立体的なマンダラはありませんが、寺院の内部にマンダラの仏たちの像を並べ、マンダラの世界を再現することがあります。たとえば、東寺(教王護国寺)の講堂の諸尊像は、しばしば立体マンダラと呼ばれます。また、仏塔の内部に五仏を置き、さらにその周囲の壁や柱に、マンダラの諸尊を描くこともあります。これは、仏塔の内部空間をマンダラの世界とみなしているからです。
 地域はことなりますが、有名なインドネシアのボロブドゥール寺院も、立体的なマンダラと紹介されることがあります。これはむしろ、マンダラの背景にある仏教の宇宙観が、寺院の構造に反映されていると言った方が正確ですが、仏たちの世界を立体的にとらえていることは共通しています。
 このように、マンダラの作例は日本やチベットをはじめとする諸地域に、さまざまな形で見ることができます。ところが不思議なことに、マンダラを生み出したインドには、マンダラはほとんど残されていません。それは、インドのマンダラは、このような絵画や立体の形をとらず、地面の上に描かれることが一般的だったからです。すでに述べたように、それは地面の上に輪郭線を引き、色の付いた砂などを用いて彩色するマンダラです。その伝統はチベット仏教に忠実に受け継がれ、「砂マンダラ」の名で知られていますが、インドの場合、これに相当する語はなく、単に「マンダラ」と呼ばれたり、「彩色されたマンダラ」と呼ばれていたようです。
 地面の上にマンダラを描く方法は、厳密に定められていました。それは単に輪郭線を引いたり、彩色するだけではなく、その前段階として地面の整備を行うことや、彩色の終わったマンダラに仏たちを招く手続きなども含みます。マンダラは芸術家のインスピレーションで描かれるような絵画ではなく、厳格な儀礼的な手続きにのっとって制作される一種の「装置」なのです。

 制作儀礼
 このようなマンダラの制作儀礼は、インドで伝統的に行われている家屋建築の儀礼と共通しています。すでにくりかえし述べてきたように、マンダラとは仏たちの「家」であり、どんなに抽象化され、簡略化されていても、家をつくるためには、それにふさわしい儀礼を行わなければならないからです。現代の日本でも、家やビルなどを建てる場合、地鎮祭や上棟式、竣工式などの儀礼が行われます。このような儀礼がマンダラを作る場合にも必要なのです。
 マンダラの制作儀礼の大まかな流れは次のようなものです。
 はじめにマンダラを描くための土地を選定し、いくつかの方法でこの土地が適格であるかを検査します。そして、適切な条件を備えていることがわかれば、地面の浄化を行います。地面のきまった場所を掘り起こし、土の中に不純なものがないか確認します。もしあれば、取り除き、ふたたび整地してマンダラを描くことができるようにします。また、浄化の過程で土地に五種の宝石や穀物などが埋蔵されます。これは家屋の建築儀礼で重要な位置を占める「受胎の儀式」と呼ばれる儀礼に相当します。土中に埋められた穀物の種や宝が「種子」となり、建築される家屋が「誕生」するのです。この場合、家屋を生み出すのは地面ですが、それは大地の女神としてとらえられています。
 浄化を終えると、「土地の掌握」という儀礼が行われます。さまざまな内容を持つ複雑な儀礼ですが、儀礼を進める中心的な存在である師に対して、弟子たちが制作予定のマンダラを開示するよう請願する内容と、この地に住む悪鬼や土地神などに対して、土地への侵入を禁ずる諸々の手続きが示されます。これらに続いて、結界の作法が行われ、マンダラを描く土地が完全に浄化されます。そして、大地の女神に対して、マンダラのために土地を借用することを請願します。
 マンダラそのものの制作は、全体の輪郭線を引く「墨打ちの儀軌」と、色の付いた砂などを用いてマンダラを描く「彩色の儀軌」からなります。これによって、はじめて目に見える形で「仏の世界」が出現します。マンダラには実際の仏たちの姿を描いたり、彫像作品を一体ずつ安置することもあったようですが、仏を象徴するシンボルを描くことが最も一般的だったようです。
 ただし、いずれの場合も、こうしてできあたったマンダラは、この段階では仏たちがやどる場にすぎません。マンダラの中の仏の像やシンボルは、それに対応する仏が何であり、どこに位置するかを示す指標のようなものだったと考えられます。マンダラを完成させるためには、これらを手がかりに、それぞれに対応する仏たちをそこに招き寄せ、適切な場所に配置する必要があります。
 じつはこのような神々の「よりしろ」は、仏教に限らず、インドでは広く見られるものです。ヒンドゥー教の神々を儀礼や祭礼の場に招き寄せるときに、地面に幾何学的な図を描き、そこに、その神のシンボルを描くことは、今でも行われています。シヴァであれば三叉戟、ヴィシュヌであればほら貝や円盤などが、シンボルとして描かれます。神の像そのものではなく、シンボルを描くのは、単に簡単であったばかりではなく、神々相互を区別するためには、むしろその方が好都合だったからでしょう。マンダラの場合、大規模なものは何百という仏たちが含まれますが、そのような場合こそ、シンボルを描くことはきわめて有効な方法だったはずです。
 仏たちをシンボルで描くことは、仏教美術の伝統にも関連づけられます。インドの初期の仏教美術では、釈迦はわれわれの知ってるような「仏像」の姿では表されず、法輪や仏塔、菩提寿gなどのシンボルによって表現されていました。釈迦をわれわれと同じ人間的な姿で表すことに抵抗があったためと考えられていますが、釈迦のような聖なる存在を表現する場合、写実的にするよりも、象徴的な方法をとることの方が、むしろ自然だったというべきかもしれません。宗教美術においては、リアリティーを追求するよりも、逆に抽象化や形式化を進めることが、表現する対象の聖性を高めることができるからです。

 灌頂
 一連の手続きをふまえて完成したマンダラは、次の段階の儀礼で一種の「装置」として用いられます。別の見方をすれば、マンダラ制作儀礼は、より大きな儀式の準備段階にすぎないのです。このようなマンダラを用いる儀式の中で、最も重要なのが、灌頂と呼ばれる儀式です。サンスクリットで「アビシェーカ」、チベット語で「ワンクル」といいます。
 灌頂は予備的な修行を終えた弟子に、密教の僧侶たる資格を与えるものです。これを受けることで、弟子ははじめて正式な密教の実践者となります。灌頂を与えるのは師である僧侶ですが、日本密教では師を意味する「アーチャーリヤ」を音写した「阿闍梨」という名称を用います。灌頂を受けることによって、阿闍梨がそなえている密教の法の伝統を、弟子が継承することになります。
 もともと、灌頂はインドにおける王位継承の儀式の名称でした。「アビシェーカ」という語は「水を灌ぐこと」を意味し、実際に儀式の中で王位継承者に対して灌水が行われます。この場合の水にはさまざま意味が込められていますが、基本的には水を用いた浄化儀礼や再生儀礼と見ることができます。水が灌がれることによって、新王が誕生するのです。
 灌水のプロセスは、密教の灌頂儀礼においても重要な位置を占めます。阿闍梨が弟子に水を灌ぐことによって、あらたな法の継承者が誕生するのです。国家における王位継承者の位置を、密教の灌頂の儀式では法の継承者である弟子が占めています。マンダラの構造に見られた王と仏のイメージの重ね合わせが、ここにも認められます。
 この灌頂の儀式は、マンダラを前にして行われます。それは、マンダラに描かれた仏たちの世界こそが、法の継承者として生まれ変わった弟子が、本来、住している空間であるからに他なりません。マンダラという模式図によって表された仏の世界が、あらたな王である弟子の宮殿であり、自らがその主人である仏となるからです。
 灌水で用いられる水瓶は、マンダラの制作儀礼の中ですでに準備されています。この水瓶はマンダラに描かれる仏たちに対応しています。そのため、原則として、水瓶の数はマンダラの仏の数に一致しますが、いくつかをまとめることで、それよりも少なくすることも可能だったようです。ただし、中尊に対応する水瓶は最も重要な瓶で、いかなる場合でも省略されることはありません。水瓶が準備されると、対応する仏たちが瓶の中の水に溶け込むことを、阿闍梨は瞑想します。こうして仏たちは、灌水で用いられる水と密接な関係を持ちます。
 灌頂ではこの水が阿闍梨によって弟子の頭頂に灌がれますが、仏の智慧がこれによって弟子にそなわると言われています。仏の智慧、すなわち仏智を獲得することによって、弟子は仏となることが可能になります。
 灌頂の儀式は密教儀礼の中でも最も重要なもので、その内容もきわめて複雑です。そして、時代や流派、依拠する経典などによって、さまざまな方法があったようです。密教という名にふさわしく、その内容は秘密とされ、灌頂に参加する者たち以外には見せてはならず、その内容をかるがるしく口外することも、固く禁じられていました。
 しかし、インドで著された文献などから、かなり具体的な内容を知ることができます。それによると、弟子が仏として生まれることを、灌水以外にもさまざまな方法で確認させ自覚させたことがわかります。たとえば、灌水につづいて宝冠や金剛杵、金剛鈴などが、阿闍梨から弟子に渡されます。これらを身に付けたり、手にすることで、弟子は外見上も仏となっていきます。そして、ひととおりの身づくろいがすむと、弟子は阿闍梨によって「開眼」させられます。もちろん、それまでも弟子の目は開いているのですが、阿闍梨が儀礼的に弟子の瞼に触れることで、「無知という網膜」が消え、「仏の智慧の眼」が開くのです。このとき、阿闍梨が弟子の瞼に触れるのは「金箆」という道具で、インドの医術において眼科医が用いた医療器具であったと言われています。開眼をした弟子には、さらに阿闍梨によって鏡が差し出されます。これによって開眼したことを確認するとともに、自らが仏の姿をすることを弟子は自覚します。
 灌頂の儀式の終盤では、弟子の手にほら貝や法輪が与えられます。これらはいずれも、仏が法を説くときのメタファー(隠喩)として用いられるものです。つまり、仏はほら貝をとどろかせるように法を宣布し、法輪を転ずることによって、世界を法によって治めるのです。
 このような灌頂の儀式は、すべてマンダラを前にして行われます。それが弟子が本来住すべき「仏の世界」であるからです。その意味でマンダラとは儀礼の装置であり、道具なのです。弟子はこの仏の世界に、灌頂の儀式のはじめの段階で、積極的にかかわりを持ちます。それが「投華得仏」という儀礼です。
 灌頂を行う儀礼の場は、特定の建物の中か、あるいは幕のようなもので囲まれた空間だったようで、外界からは遮断されていました。弟子はこの空間に目隠しをした状態で導かれて来ます。そして、マンダラの周囲で礼拝を行いますが、これは開門の合図でもあり、これによってマンダラの楼閣、すなわち仏の世界の入口が開かれることになります。弟子は目隠しをしたまま、両手に花をはさんで合掌し、合図にしたがってマンダラの方に投じます。目隠しをしているので、自分の意志どおりの位置に花が落ちるとは限りません。マンダラに落ちた花の位置にしたがって、灌頂を受ける弟子が、どの仏と関係があるのかが決定されます。もし、仏が描かれていないところに落ちた場合には、そこから一番近いところにいる仏が選ばれます。これは弟子の能力や条件に応じて、最も縁の深い仏が選ばれると考えられました。「投華得仏」と言われるのはこのためです。
 マンダラに描かれる仏たちはさまざまですが、その根本は中央に位置する仏です。弟子が灌頂の儀式によって生まれ変わる仏も、この中尊に他なりません。投華得仏によって決定された仏は、弟子を仏の世界に導くためのパイプ役のような役割を果たしているのです。もちろん、投華得仏において、中尊そのものの上に花が落ちることもあります。空海が中国で受けた二度にわたる灌頂では、いずれも花は中尊の大日如来の上に落ち、その師である恵果阿闍梨をして「不可思議、不可思議」と言わしめたと伝えられています。
 
4.歴史

 マンダラの多様化
 マンダラにはたくさんの種類があります。仏教はインドから13世紀頃には姿を消してしまいますが、この段階で百種を越えるマンダラがあったことが、文献から確認できます。インドのマンダラの伝統を受け継いだチベットやネパールでは、さらにその数は増えました。19世紀の終わりに、代表的なマンダラを集成した作品集が、中央チベットのツァン地方で制作されましたが、この中には139種類のマンダラが含まれます。しかし、ここには収録されなかったマンダラも数多くあったと考えられます。このような膨大な数のマンダラは、一度にできあがったわけではなく、長い時間をかけて、徐々に増えていったことが予想できますが、それはどのようにしてできたのでしょう。
 密教の経典にはマンダラに関する情報が含まれています。マンダラの具体的な形態やそこに含まれる仏たちの名称や姿、マンダラの作り方、マンダラを用いた儀礼の方法などです。経典によっては、複数のマンダラを説くこともあります。たとえば、日本密教で重視される金剛界マンダラは『真実摂経』(『初会の金剛頂経』)という経典にもとづきますが、後述するように、この経典には全部で28種類のマンダラが説かれているといわれます。
 さらに密教の経典には、その内容を詳しく説明したり、特定の解釈を示す注釈書が著されることがあります。また、経典に含まれる儀礼について、具体的な解説を行う「儀軌」と呼ばれる文献も作られます。これらの文献の中にもマンダラに関する情報が現れますが、注釈書や儀軌の作者によって、同じ経典にもとづきながらも異なる姿のマンダラがしばしば説かれます。文献の成立年代にしたがって、新しい要素がマンダラに加わることもあります。たとえば、経典そのものには説かれていない仏たちが加えられたり、マンダラの構造が大きく変わったりします。このようなマンダラの多様化は、インド密教における流派の形成にもかかわっています。同じ経典や文献を重視しながらも、解釈や実践方法の違いによって、異なる流派が発生することがあります。そして、それぞれの流派が独自のマンダラを持つようになるのです。

 胎蔵マンダラ
 インド密教の中でマンダラがいつ頃出現したかはよくわかりません。その源初的な形態は、壇を築き、ここに複数の尊像を安置したものだったようです。仏の種類に応じた供養や礼拝が行われ、そのために行者は特定の呪を唱えたり、手で印を結んだりしました。
 インドの仏像の形式に三尊形式と呼ばれるものがあります。中央に仏をおき、その左右に従者として菩薩などを一尊ずつ配します。左右の尊格は脇侍とも呼ばれます。中央の仏は釈迦如来であることが一般的でしたが、脇侍にはいくつかの組み合わせが見られます。このうち、マンダラと関係するのが、観音と金剛手の組合せです。
 大乗仏教や密教の時代になると、仏教の中にさまざまな仏たちが現れます。そして、これらの仏たちは、その起源や機能などに応じていくつかの部族を形成します。密教の初期の段階では、このような部族として三つをたてるのが一般的になります。仏部、蓮華部、金剛部の三つで、それぞれの部族の代表が釈迦、観音(あるいは蓮華手)、金剛手となります。これは三尊形式の組合せのひとつに見られたものです。
 『大日経』という経典にもとづき、日本密教でも重視される胎蔵マンダラは、この三つの部族、すなわち三部の形式と密接に結びついています。インド密教史上、はじめて現れた本格的なマンダラである胎蔵マンダラは、全部で12の部分に分かれるため、十二大院で構成されるといわれます。このうち、中心に位置する中台八葉院とその左右の蓮華部院、金剛手院は、順に仏部、蓮華部、金剛部に対応します。左右におかれる蓮華部院と金剛手院のそれぞれの中心には、各部の代表である観音と金剛手が位置し、周囲を眷属たちが取り囲んでいます。中央の中台八葉院は仏部に相当しますが、伝統的な釈迦にかわって、密教の仏である大日如来が中央におかれています。ただし、『大日経』の時代には、釈迦の存在はまだ重要だったようで、十二大院のひとつとして釈迦院をたて、釈迦を中心にした仏たちの区画を設けています。
 胎蔵マンダラの残りの部分は、八大菩薩というやはり大乗仏教以来、有力であった菩薩に由来する区画と、外教の神であるヒンドゥー教の神々を配した外金剛部院と呼ばれる部分などから構成されています。マンダラに含まれる仏の数は、地域や発展段階によって異なりますが、最終的な形態を示す日本の胎蔵マンダラで、361尊にもなります。
 胎蔵マンダラは形式の上でも他のマンダラとは異なる独特な点を持っています。たとえば、マンダラの全体が後世のマンダラのように上下左右が完全には対称とはならず、左右のみがほぼバランスをもって描かれています。これはすでに述べた三部という形式によるものです。また、マンダラの四方に門があるのは共通しますが、比較的簡素の形のトーラナを写実的に描いています。左右の支柱をアーチ状の横梁がつなぎ、全体がさまざまな装飾で飾られれているのがわかります。おそらく、実際に存在したトーラナを画面の中に描き込んだものでしょう。

 金剛界マンダラと法界語自在マンダラ
 日本密教でこの胎蔵マンダラとならんで重視される金剛界マンダラは、『真実摂経』に説かれています。わが国ではこの二つのマンダラをあわせて「両界マンダラ」あるいは「両部のマンダラ」と呼び、両者が一具となって「両部不二」「金胎不二」とみなされたりしますが、二つのマンダラが依拠する経典は、内容や成立年代に違いがあります。「金胎不二」のような考え方が、インドにまでさかのぼることができるかも不明です。
 金剛界マンダラは、三部から発展した四部をベースにしています。新しく加えられたのは、宝石を意味する「摩尼」という部族で、部族の代表的な仏は虚空蔵が選ばれました。『真実摂経』では仏たちの世界であるこの四部をマンダラとして表すときに、独自の方式をとります。胎蔵マンダラは三部すべてをひとつのマンダラにおさめましたが、『真実摂経』では四部それぞれのマンダラを作るのです。ただし、マンダラを構成する仏の数や位置は、四部すべて同じで、中心に大日如来をおくことも共通しています。それ以外の仏たちを、各部族にふさわしい顔ぶれに変えるのです。さらに、『真実摂経』ではひとつの部族のマンダラに6種類のマンダラをたてます。6種とは大、三昧耶、法、羯磨、四印、一印です。このうち、はじめの大マンダラは6種の基本となるマンダラです。三昧耶、法、羯磨はそれぞれ仏の特定の機能に焦点を当てたマンダラで、仏の表現方法もそれぞれ異なります。四印と一印の2種のマンダラは、大マンダラを簡略化したものです。四印よりも一印の方がより簡単なものになっています。
 このように四部のマンダラそれぞれに6種のマンダラがあるため、全体が24種となります。これにヒンドゥー教の神々を中心としたマンダラ4種を加えた28種のマンダラが、『真実摂経』全体では説かれています。規則的に作り出した複数のマンダラ全体で「仏の世界」を表しているのです。
 ただし、実際にはこれらの28種類のマンダラすべてが描かれることは、ほとんどありませんでした。日本の金剛界マンダラは、このうちはじめの8種類に、『理趣経』にもとづくマンダラ1種を組み合わせてできています。縦横3つずつの9区画からなるので、九会曼荼羅とも呼ばれます。チベットやネパールでは、28種の第一に相当する仏部の大マンダラが、全体の代表としてしばしば描かれました。「降三世マンダラ」と呼ばれる金剛部の大マンダラの作例も、いくつか知られています。貴重な例として、チベットのペンコルチューデ仏塔には、28種のすべてのマンダラが壁画として描かれ、その大半が残っています。
 金剛界マンダラを構成する仏たちは、37尊を基本とします。五仏、四波羅蜜、十六大菩薩、内の四供養菩薩、外の四供養菩薩、四摂菩薩というグループにわかれます。これらの仏たちは部族によって顔ぶれもかわりますが、大日如来はつねに中央を占めます。宇宙の根源的な仏であるからです。また、37尊の外側には伝統的な菩薩で構成される賢劫十六尊を、四方に4尊ずつ配します。賢劫十六尊にかわって「賢劫千仏」を描くこともあります。
 『真実摂経』では四部であった部族の数は、次の段階では五部となります。仏部、金剛部、宝部、蓮華部、そして羯磨部の五つです。これにともない、大日、阿◎、宝生、阿弥陀、不空成就の五仏が、各部族の代表の位置を占めるようになります。5というのはマンダラを形成するのに便利な数です。中心に仏部を置き、その四方に残りの四部を配することができるからです。『真実摂経』のように複数のマンダラをたてなくても、ひとつのマンダラに五部すべてを盛り込むことができます。『真実摂経』の後継的な経典である『金剛頂タントラ』という文献では、部族の数は五部となり、このようなマンダラが登場します。
 金剛界マンダラの流れをくむ重要なマンダラに「法界語自在マンダラ」があります。『マンジュシュリー・ナーマサンギーティー』という経典によるといわれていますが、経典そのものにはマンダラに関する記述はほとんど現れず、おもに註釈家たちの著作によって、その全体像を知ることができます。チベットやネパールでも人気の高いマンダラで、とくにネパールでは金剛界マンダラとならんで、数多くの作例が遺されていることでも知られています。
 法界語自在マンダラは全体が四重からなり、その中に224尊の仏たちがいる、きわめて大規模なマンダラです。「法界の言葉に自在なるもの」という異名で知られる文殊を中尊とし、金剛界マンダラや、次に紹介する秘密集会マンダラのほとんどの仏たちを含みます。さらに、波羅蜜や菩薩地のような大乗仏教の教理概念を神格化した仏たちや、初期の密教で人気を集めた陀羅尼の女尊たちも加わります。一番外側の第4重には、ヒンドゥー教の神々や阿修羅、夜叉、龍、天体や星宿の神が登場し、その数は百を越えます。当時の仏教パンテオンのメンバーを総動員してできあがったマンダラなのです。

 秘密集会マンダラ
 後期密教の時代になると、あらたな経典がつぎつぎと編纂され、それにともないマンダラの数も増加の一途をたどります。この中から代表的なマンダラとして、秘密集会(グヒヤサマージャ)、ヘーヴァジュラ、サンヴァラ、そして時輪(カーラチャクラ)の4種のマンダラを取り上げましょう。
 秘密集会マンダラは同名の経典『秘密集会タントラ』にもとづくマンダラです。同経からはいくつかの流派がインドでは生まれましたが、とくに聖者流とジュニャーナパーダ流という二つの流派が重要で、それぞれ独自のマンダラを伝えています。聖者流は阿◎を中心とした32尊のマンダラを、ジュニャーナパーダ流は文殊金剛を中心とした19尊のマンダラをそれぞれ説きます。中尊は異なりますが、それ以外のメンバーは共通することが多く、尊数の違いは明王の数が違ったり、八大菩薩の有無などによるものです。
 秘密集会マンダラの特徴のひとつは、中尊が大日如来ではなく、金剛部の代表である阿◎や、これと同体とみなされる文殊金剛にかわることです。その結果、大日如来はそれまでのマンダラでは金剛部の指定席であった東方に移ります。金剛部の仏が仏教のパンテオンの統轄的な位置を占めるのは、後期密教の多くのマンダラに共通する点です。
 ジュニャーナパーダ流の秘密集会マンダラでは、多くの仏たちがそれぞれの配偶神をともない、いわゆる父母仏の形で描かれますが、これも金剛界や法界語自在マンダラでは見られなかった特徴です。秘密集会マンダラでも、聖者流の32尊マンダラでは配偶神を抱擁する姿はとらず、二つの流派の成立段階が異なることをうかがわせます。後期密教では男尊が方便を、女尊が般若の智慧を象徴し、両者の結合が悟りの状態を表すと説明されます。そのため、男尊が女尊と性的な結合状態にある姿で表されたり、女尊を中尊とするマンダラが登場するようになります。
 秘密集会マンダラでは教理的な概念と仏たちとの対応関係も強調されます。たとえば、五仏が五蘊を、その配偶神である四明妃が地水火風の四大を、八大菩薩が八識を、六金剛女と呼ばれる女尊たちが六境をそれぞれ象徴します。仏教における世界の構成要素や分析概念などに、仏たちをあてはめることで、世界の表象としてのマンダラが、教理的なレベルでも実現することになるのです。

 母タントラのマンダラ
 ヘーヴァジュラ・マンダラやサンヴァラ・マンダラは、母タントラと呼ばれるグループに属します。これは父タントラ系の秘密集会マンダラとは別の系統で、その淵源は日本密教でも重視される『理趣経』にまで求めることができます。母タントラ系の経典やマンダラは六族、すなわち六つの部族をたてます。これまでの五部とは異なるシステムで、ヘールカ、シャーシュヴァタ、パドマナルテーシュヴァラ(蓮華舞自在)、ヴァジュラスーリヤ(金剛日)、パラマーシュヴァ(最勝馬)、金剛薩☆が六族の代表であるとともに、部族名ともなります。ただし、後に五部との対応関係も整備され、金剛薩☆を除く五尊が、大日以下の五仏と同体とみなされるようになります。
 母タントラ系のこれらの六族の仏たちも、五部のマンダラのように、ひとつのマンダラにまとめて描かれていましたが、その中のヘールカの部族がとくに人気を集め、独立したマンダラになりました。ヘールカ族は五部では阿◎に率いられる金剛部に相当するので、父タントラ系における金剛部の台頭とも関係づけられます。もともと、ヘールカは忿怒形の姿の特定の尊格の名称でしたが、次第にヘールカと呼ばれる尊格の種類が増え、一種の総称のようになります。このような尊格の代表的なものにヘーヴァジュラやサンヴァラがいます。
 ヘーヴァジュラを中尊とするヘーヴァジュラ・マンダラは、おもに『ヘーヴァジュラ・タントラ』に説かれていますが、中尊の尊容や構成するメンバーの異なるいくつものマンダラが伝えられています。代表的な形式は、ヘーヴァジュラ父母仏を八尊の女尊が取り囲むものです。ヘーヴァジュラの周囲の女尊たちは、ガウリー、チャウリーなどのまったく聞き慣れない神々です。実はこれらの女尊の名称は、当時のインド社会における下層階級のグループ名だったといわれています。母タントラ系の密教、とくにその実践方法が、このような社会集団との結びつきのもとで形成されたことをうかがわせます。
 一方のサンヴァラ・マンダラにも、いくつかの種類がありますが、62尊からなるマンダラが、チベットやネパールではとくに重視されました。このマンダラは八葉蓮華を中心におき、その周囲を三重の車輪が取り囲んでいます。中心から意密輪、口密輪、身密輪と呼ばれ、全体で三密輪と総称されます。中心の蓮華の部分は大楽輪、三密輪の外の部分は三昧耶輪と呼ばれ、全体が五つの部分に分かれます。
 大楽輪はヘーヴァジュラ・マンダラと同じように、中尊の父母仏を女尊たちが取り囲んでいます。ただしその数は四方の4尊だけで、四隅の蓮華には血のあふれた頭蓋骨の器が置かれています。三密輪には八方の輻の上に、ダーキニーとダーカと呼ばれる男女の仏たちがひと組ずつ、合計24組描かれます。これらの神々は、人間の身体を構成するさまざまな要素であるとともに、インドを中心とする南アジア世界の巡礼地の名称ともいわれています。人間の内部すなわちミクロコスモスと、外界のマクロコスモスが象徴されているのです。
 
 時輪マンダラ
 インド密教の最後を飾る時輪マンダラ(カーラチャクラ・マンダラ)は、11世紀前半に成立したと考えられています。インドから仏教が姿を消すまでにはあと2世紀近くありますが、これ以降、重要なマンダラが生み出されることはありませんでした。時輪マンダラを説く『時輪タントラ』は、「外の時輪」「内の時輪」「もう一つの時輪」という三つの内容からなります。はじめの外の時輪は、独特のコスモロジーを背景に、マンダラの構造が説かれます。第二の内の時輪は、人間の身体構造とマンダラとの対応、とくに人体内部にあるいくつもの脈管と、そこを流れる気息についての精緻な理論が主題となります。そして、三つ目の「もう一つの時輪」において、これら二つの間をつなぐ身体技法や儀礼が説明されます。マクロコスモスとミクロコスモスの相同性が、瞑想や儀礼の中で確認されるのです。
 時輪マンダラは「身口意究竟時輪マンダラ」という名称を持ち、意密輪、口密輪、身密輪という三重構造からなります。一番内側の意密輪には、それまでのマンダラにも登場してきた仏たちが主として描かれますが、時輪マンダラ独自のコスモロジーにしたがうため、方向や男尊と女尊の対応などが、それらとは一致しません。口密輪には「八母神」というヒンドゥー教の女神にグループが8方向に配され、そのまわりを8尊ずつのヨーギニー(瑜伽女)が取り囲みます。彼女らは合計64尊となり、六十四ヨーギニーと呼ばれます。身密輪はヒンドゥー教のおもだった男神が女神をともなって現れます。彼らはそれぞれ28の花弁をもつ蓮華の中央に位置し、蓮弁のひとつひとつにもそれぞれ異なる神々が描かれます。時輪マンダラの尊数は、伝統によっていくつかの説がありますが、チベット仏教では752尊を数えるのが一般的です。いずれにしても、きわめて規模の大きなマンダラで、インドにおけるマンダラの歴史の最後を飾るのにふさわしいと言えるでしょう。
 
文献
立川武蔵 1996 『マンダラ 神々の降り立つ超常世界』学習研究社。
立川武蔵、正木晃編 1997 『チベット仏教図像研究 ペンコルチューデ仏塔』(国立民族学博物館研究報告別冊 第18号)。
田中公明 1987 『曼荼羅イコノロジー』 平河出版社。
ブラウエン、M. 2002 『図説曼荼羅大全 チベット仏教の神秘』(森雅秀訳)東洋書林。
森 雅秀 1997 『マンダラの密教儀礼』春秋社。
森 雅秀 2001 『インド密教の仏たち』春秋社。
(『マンダラ  チベット・ネパールの仏たち』国立民族学博物館、2003年3月、pp. 58-76。)