玄奘と密教
玄奘がインドに滞在した7世紀前半は、インド密教史の中で最も注目すべき時代でもある。密教の教理と実践をはじめて体系的に説いた『大日経』と『金剛頂経』(『真実摂経』)という二大経典が形成されつつあったのが、このころと考えられている。インドにおいて大乗仏教から密教に変化をとげようとしている時代に、玄奘は立ち会っていたはずなのである。
しかし、従来から指摘されているように、『大唐西域記』には密教に関する記述はまったく含まれない。同書では寺院の学派に言及することが多いが、その中には密教やそれに類する名称は現れない。密教経典に説かれる密教独自の実践や儀礼も、玄奘の目には映らなかったようである。彼の翻訳経典には、陀羅尼を説いたごく短いものが数点含まれるが、玄奘がこれらを「密教経典」としてとらえていたかは疑わしい。
『大唐西域記』のインドの部分には、仏像に関する記述がいくつか現れる。釈迦などの仏を除けば、観音、弥勒、文殊、ターラーなどが言及されいている。これらはいずれも大乗仏教以来、信仰されてきた菩薩や女尊たちであり、必ずしも密教仏ではない。密教経典に説かれる数多くの尊格からすれば、違和感を感じるが、このような傾向はインドの仏教美術の流れに一致している。
インドに残るこの時代の仏像には密教仏はほとんど見あたらない。北インドや東インドで出土した菩薩や女尊の単独像で、7世紀頃の作例は『西域記』で言及されている観音などに限られる。これらはおもにサールナートから出土している。しかし、数の上からはわずかであるが、これらの作品はインド美術史において大乗仏教の美術から密教美術へとつながる重要な作例と考えられている。
「密教の時代」と聞くと、密教仏をまつった密教の寺院があり、そこで密教の僧侶たちが独自の実践をしている様子をわれわれは想像する。しかし、密教の形成期であったこの時代のインド仏教は、外見上はそれまでの仏教とほとんど変わらなかったようである。密教の仏たちや実践を説く密教経典が着々と準備されたのは、その水面下であったのであろう。
(『三蔵法師のシルクロード』三蔵法師の道研究会編 朝日新聞社 1999年6月 p. 173)