『松長有慶著作集 第四巻 マンダラと密教美術』補遺


 はじめに
 本巻「密教の遺跡・遺品・曼荼羅」には12編の論考がおさめられるが、これらは内容から大きく次の四つのテーマに分類することができる。

(一)マンダラ一般
(二)金剛界マンダラ
(三)ラダックのチベット寺院
(四)パキスタンとバングラデシュの密教美術

このうち、マンダラ一般に関する論考は「一、マンダラの宇宙観」、「二、マンダラの形成と展開」のほかにも、「七、マンダラ」の中に第5節「宇宙と人間」として含まれ、本巻全体の基調となっている。金剛界マンダラをあつかった「三、金剛界マンダラについて」「八、金剛界の微細会と供養会について」は、第三のテーマであるラダックのチベット寺院とも密接な関係にある。アルチ寺をはじめとするラダックの仏教寺院は、金剛界マンダラに代表されるヨーガ・タントラのマンダラの宝庫なのである。また「八、四金剛女と四明妃」はマンダラの中の女尊のグループを取り上げた論文であるが、四金剛女は金剛界マンダラに含まれ、ラダックのマンダラに対する言及も論文中にある。一方の四明妃は松長博士の重要な研究対象である『秘密集会タントラ』に説かれるマンダラに登場する。第四のテーマに関してはそれぞれ一編ずつの論文がおさめられている。最後の二編はチベットと日本の密教美術をあつかった啓蒙的な論文である。
 一部の論文は発表されてからすでに時間が経過し、その後の研究の進展が見られるものもある。各テーマごとに、関連領域の研究にも配慮しながら、これらの研究成果を管見のおよぶ範囲で紹介しよう。

 マンダラ一般
 マンダラが伝統的な真言教学から離れ、一般の人々にもわかりやすく語られるようになったのはそれほど昔のことではない。マンダラが密教や空海などとともに一種のブームをひきおこしたのは八〇年代に入ってからであるが、松長博士の著作『密教・コスモスとマンダラ』(一九八五)や『密教』(一九九一)などもその大きな原動力となった。
 啓蒙的な立場からマンダラに関する著作を発表してきた研究者として立川武蔵氏や頼富本宏氏があげられる。このうち、立川氏の著作としては『ヒマラヤの僧院』所収の論文(石黒他 一九八一)やヘールカをあつかったもの(一九七七)が密教美術に関する比較的初期の論文であるが、その後『マンダラの神々』(一九八七)としてネパールの仏教美術を中心にまとまった形で発表された。同時期に書かれた「マンダラ  構造と機能」(一九八九)も、マンダラにテーマをしぼって、その形態の持つシンボリズムやインド思想史における位置づけを試みている。一般向けの『はじめてのインド哲学』(一九九二)にはインドの密教に一章がさかれているが、マンダラに関する言及も多い。最近ではよりビジュアルな『マンダラ』(一九九六)も発表された。
 ラダックやインドのオリッサ地方の現地調査で大きな実績を上げ、伝統的な日本の密教美術にもくわしい頼富本宏氏は、わが国における密教図像学の分野の第一人者である。大著『密教仏の研究』(一九九〇a)は氏の学位論文がベースになっているが、マンダラに含まれる尊格研究として重要な研究である。一般向けには『マンダラの仏たち』(一九八五)、『密教とマンダラ』(一九九〇b)、『曼荼羅の鑑賞基礎知識』(一九九一)などマンダラに関する多くの著作がある。
 気鋭の仏教学者田中公明氏は、この十年たらずのあいだにマンダラや密教についての著作をやつぎばやに出版している。第一作の『曼荼羅イコノロジー』(一九八七b)はインド、チベット、日本のマンダラを網羅的に解説した労作で、一般の人から研究者まで幅広い層の読者に受け入れられた。『詳解河口慧海コレクション』(一九九〇)では、有名な入蔵者河口慧海が将来した美術品の解説を行っているが、チベットの密教美術の概説書ともなっている。『チベット密教』(一九九三)にはマンダラに関する記述は必ずしも多くはないが、チベット仏教の入門書としての役割を持つ。最近では『時輪タントラ』をあつかった『超密教時輪タントラ』(一九九四)や、密教図像関連の論文を集めた『インド・チベット曼荼羅の研究』(一九九六)を発表するなど、その勢いはおとろえることがない。学術論文の数も多い。
 マンダラに関する現代的解釈には、おそらくイタリアの東洋学者ジュゼッペ・トゥッチの『マンダラの理論と実践』が果たした役割が大きい。発表されてからすでに半世紀近く経過しているが、マンダラに関する斬新な見方は現在でもその光を失っていない。一九八四年にようやく邦訳が入手しやすい形で出版された。また多数の図版と周到な訳注をくわえた別訳も一九九一年に発表されている。
 マンダラに関する専門的な研究は、仏教学における精緻な研究と平行して、従来の学問分野を超えた学際的な方向へと進みつつある。心理学者のユングが早くからマンダラに着目していたことは有名である。心理学の他にも文化人類学、宗教学、美術史、建築学、都市論などの分野の研究者がマンダラに関心を向け始めている。このうち、美術史の領域では仏教絵画の研究の一分野として、わが国のマンダラの研究がすでに確立しているが、インドやチベット、中央アジアの仏教美術の研究者たちもマンダラに着目している(たとえばRicca & Lo Bue 1993, Gi市 1994, Gi市 & Cohen 1995、立川編 一九九三)。この背景にはラダックやギャンツェ、ラサなどのチベットの重要な寺院のマンダラや、敦煌をはじめとする中央アジアの遺跡から出土したマンダラの存在が知られるようになったことが大きい。また、より広い領域の研究者による試行的な論文集も近年刊行された(立川編 一九九六)。
 マンダラに関するインドの代表的な文献は、本巻の中でも何度か言及される『ニシュパンナヨーガーヴァリー』(Nispannayogavali)である。サンスクリット・テキストはBhattacharyya (1949)によってはやくから発表されていたが、最近になって、文献全体や個々のマンダラに関する研究がいくつか発表された。おもなものとして長野・立川編(一九八九)、Buhnemann & Tachikawa (1991)、立川(一九九三、一九九五)、森(一九九二、一九九四、一九九六b、一九九六c)があげられる。

 金剛界マンダラ
 金剛界マンダラは、わが国では胎蔵(界)マンダラとともにいわゆる両部曼荼羅(両界曼荼羅)を構成し、真言宗においてもっとも重要視されるマンダラである。インド・チベットの密教の中でも、ヨーガ・タントラの代表的なマンダラであるばかりではなく、その後の無上ヨーガ・タントラのほとんどのマンダラに影響を与えた。わが国の金剛界マンダラの研究は、おもに日本美術の研究者たちによってこれまで進められてきた。神護寺につたわる高雄曼荼羅とその流れをくむ現図系のマンダラ、おもに天台宗に伝えられた八十一尊曼荼羅、園城寺所蔵の五部心観、従来から伝真言院曼荼羅の名で知られ、現在では西院曼荼羅と呼ばれることの多い両部のマンダラなどがその代表的な遺例であろう。石田尚豊氏の大著(一九七五)をはじめ、これらのマンダラをあつかった著作や論文は数多くある。
 これに対し、インドやチベットの金剛界マンダラに関する研究は意外なほど少ない。最近になってようやく乾仁志氏が、典拠となる『真実摂経』(『初会の金剛頂経』)を中心にマンダラに関する記述の整理と分析を始められた(一九九五、一九九六c)。この中で乾氏は四大品に含まれる六種ずつ(降三世品は十種)のマンダラのひとつひとつを取り上げている。また、二八種のマンダラの全体像を示した論文(一九九六b)や、金剛界系の儀軌である『クリヤーサングラハ』(Kriyasamgraha)に含まれる金剛界マンダラについての論考も発表している。大正大学の綜合仏教研究所からはアーナンダガルバによる金剛界マンダラ儀軌『一切金剛出現』(Sarvavajrodaya)のテキストと翻訳が出版された(密教聖典研究会 一九八六、一九八七)。このときの研究会のメンバーの一人であった森口光俊氏は、同じ文献の賢劫千仏の部分のテキストを個別に発表している(一九八九)。先述の『ニシュパンナヨーガーヴァリー』に含まれる金剛界マンダラについては立川氏が校訂テキストと翻訳を行っている(一九九五)。金剛界マンダラのいわゆる成身会三七尊の周囲に描かれる賢劫一六尊については森が論考を発表した(一九九三)。田中公明氏は金剛界マンダラの個々の尊格の成立をあつかった一連の論文を発表している(一九八一など)。田中氏はチベットに見られる金剛界マンダラについても、ギャンツェのペンコルチューデ仏塔とグゲのツァパラン遺跡の遺例について報告を行っている(一九八七a、一九八九、一九九二、いずれも一九九六に再録)。このうちペンコルの仏塔の第五層に見られる『真実摂経』所説のマンダラ群については、『真実摂経』とアーナンダガルバの注釈書『タットヴァーローカカリー』(Tattvalokakari)を参照した、より網羅的な報告が森によって発表される予定である(一九九七b)。

 ラダックのチベット寺院
 ラダックに関する文献一般に関してはBray(1988)が詳細な文献目録を発表している。必ずしも掲載されている文献すべてがラダックに直接関係するわけではなく、また邦文の文献には遺漏もあるが、まとまった形で手にすることができ、便利である。ラダックのチベット寺院については、さまざまな写真集がこれまで発表されている。代表的なものに『ヒマラヤの僧院』(石黒他 一九八一)、『マンダラ蓮華』(加藤他 一九八五)、『ヒマラヤ仏教王国』(田村他 一九八六)、『ラダック曼荼羅』(岩宮他 一九八七)などがあげられる。海外での出版も盛んで、Pal (1982),Goepper (1996)などがある。学術的な研究としては、種智院大学が行った現地調査の成果が『チベット仏教の研究』として刊行されている(種智院大学インド・チベット研究会 一九八二)。
 ラダック一般についてはCrook & Osmaston eds. (1994)がくわしい。気候、風土、生態、歴史、社会、僧院の実態などに関して紹介している。同書によればラダック学の国際学会(The International Association for Ladack Studies)も設立されているらしい。ラダックの歴史に関してはNaudou(1980)が以前からあったが、邦文のものとしては矢崎(一九九三)が入手しやすい。ただし内容はかなり専門的である。
 チベットのマンダラに関する研究もここ数年で飛躍的に進んだ。とくにサキャ派のゴル寺に伝わった一三九種のマンダラ集の刊行は、その重要な契機となった(bSod nams rgya mtsho 1983)。その後、簡略なエディションがユネスコ東アジア文化研究センターからも刊行され、入手しやすくなった(bSod nams rgya mtsho & Tachikawa 1989, 1991)。個々のマンダラに関してもBrauen(1992)のように時輪マンダラに関する総合的な研究書も現れている。
 西チベットの重要な仏教遺跡としては、ラダック地方の他にグゲ地方やスピティ地方が重要である。このうち、グゲのツァパラン遺跡については、トゥッチの報告(Tucci 1932-41)が長く利用されてきたが、近年では田中公明氏(一九九六)やヘンス(Henss 1996)らによって現地調査が実施され、またWeyer & Aschoff (1987)による写真集も刊行されている。スピティ地方の仏教寺院は、高野山大学チベット仏教文化調査団が一九八二年に世界にさきがけて現地に入り、寺院内の写真撮影に成功した。その成果は『第四回チベット仏教文化調査団報告書』(一九八三)として刊行されているほか、氏家氏の論文もある(一九八六)。その後、成田山仏教研究所の調査隊による報告書も出版された(一九八七)。また、最近ではウィーン大学のシュタインケルナー氏を中心にヨーロッパの仏教学者たちによるタボ寺の総合的な調査が実施され、寺院構造、壁画、写本、銘文などについて多くの研究成果が公表されつつある。とくにタボ寺のチベット語写本については、わが国の仏教学者もこのプロジェクトに参加している。
 グゲ地方とラダック地方のほぼ中間に位置するピヤンとトンガと呼ばれる地に、大規模な石窟寺院があらたに発見されたのは一九九二年のことである。これは中国の四川連合大学のチベット調査隊によるものであるが、石窟内の主要な壁画を集成した写真集がわが国から刊行された(中国・四川連合大学 一九九七)。編年や様式、壁画の内容などに関する実質的な研究は端緒についたばかりである。

 パキスタンとバングラデシュの密教美術
 パキスタンの仏教美術については、ガンダーラ美術に関しては膨大な研究があるが、密教美術に関しては皆無といってよい。本文中にも言及のあるカラコルム・ハイウェイの線刻についてはDani(1987)がくわしい。ただし、密教美術としてはとらえられていない(宮治 一九九六)。
 バングラデシュの密教美術は、古くはBhattasali (1929)、Banerji (1981)による研究があったが、現在ではHuntingtonによるThe "Pala-Sena" School of Sculpture(1984)がインドのベンガル、ビハール地方を含むパーラ朝の密教美術研究の基本的文献となっている。その後、発表されたHuntingon, S & J Huntington (1990)には、チベット、ネパール、東南アジアの作品も含まれるが、この地域の仏教美術のすぐれた入門書となっている。松長博士が主催した高野山大学密教文化研究所のバングラデシュ調査隊の他のメンバーによる調査報告は、同研究所の紀要第六、七号に掲載されている(東 一九九四、越智一九九四、乾 一九九三、藤田 一九九三、松長 一九九三)。バングラデシュの仏教美術に関するまとまった文献としては、本巻にも言及されているAlam(1985)をあげることができる。ダッカの国立博物館から刊行されている論文集(Bangladesh Lalit Kala Journal of the Dacca Museum)にも関連文献が多数含まれている。カルカッタのアジア協会(Asiatic Society)から出版されているSaraswatiのTantrayana Art: An Album (1977)にもバングラデシュ出土のかなりの数の作例が紹介されている。
 パーラ朝の仏教美術一般に関しては、わが国では宮治昭氏を中心とするグループが、主要な作品のデータを整理し、図像学的特徴の確定を進めている。その成果は宮治(一九九三、一九九五)、森雅秀(一九九〇、一九九六a)、森喜子(一九九〇〜一九九三)、佐久間(一九九一、一九九二)、佐久間・宮治(一九九三)として公表されている。海外ではHuntingtonのほかにBautze-Picronがパーラ朝の仏教美術について、最近、精力的に研究を行っている(1985a etc., Picron 1978 etc.)。このほかBhattacharyya(1980, 1985), La Plante (1963, 1964), Leoshko (1985 etc), Weiner (1962)などの論文もあげられる。
 パーラ朝とならんで、インドで密教が栄えたもう一つの地域であるオリッサに関しては、佐和隆研氏を代表とする調査隊が大きな成果を上げた。調査報告は佐和編(一九八二)として発表されている。頼富氏はその後の成果も合わせて先述の『密教仏の研究』(一九九〇)としてまとめられ、また仏像図典という一般の読者にも利用しやすい形で提供した(一九九四)。
(『松長有慶著作集 第四巻 マンダラと密教美術』 法蔵館 1998年4月 pp. 341-359。)