多様化する仏たち

 密教美術の魅力の一つに、仏たちの多様性がある。
 密教の仏たちの世界は、起源や機能などの異なるいくつかのグループに分けられる。「悟った者」を意味する仏陀は、釈迦以外にも大日、阿弥陀、薬師などがいる。悟りを開く前の修行の身である菩薩は、われわれ衆生の救済につとめる求道者である。観音や弥勒、文殊などは、日本でもインドでも一般の人々の篤い信仰を集めた。密教固有の仏である明王は、仏や菩薩のような穏やかな姿では救済できない者たちを、力ずくでも救う。怒りをあらわにしたその姿から忿怒尊とも呼ばれる。日本では不動、愛染、大威徳などが知られるが、インドではさらに多くの忿怒尊が信仰された(写真)。女尊すなわち女性の仏も、密教独特である。単独で信仰されるものの他に、特定の仏の配偶者とみなされるものもいる。
 このような多くの仏たちは、それぞれの姿が厳密に定められている。仏であれば僧衣を身につけた清楚な姿、菩薩は修行の身であるが、世俗の世界にいるため華やかな衣装をまとう。明王は忿怒の姿で、しばしば複数の顔や四本以上の腕を持ち、その威力を示す。さらに、観音がハスの花、文殊が経典や剣を手にするように、それぞれ固有のシンボルを持つ。独特の手の形である印相にも象徴的な意味がある。さらに姿勢、装身具、髪型などから、それぞれの仏のイメージが形成される。
 仏の種類が増えれば、仏たちのイメージの世界も多彩で豊かなものになるような気がする。しかし、インド密教では仏たちのイメージは反対に画一化していく傾向がある。仏や菩薩、忿怒尊などの基本形があり、これに持物などのシンボルを変更するだけで、あらたな仏のイメージが生み出されたからだ。仏の種類が増えれば増えるほど、個々の仏は個性を失っていくという逆説的な結果を生んだのである。
 衰退の一途をたどっていた当時の仏教には、まったく新しい聖なるイメージを作るだけのエネルギーが、もはや残されていなかったのかもしれない。
(2001年10月〜11月 共同通信社配信の各紙)