「チベットの死者の書」とは何か
はじめに
「チベットの死者の書」とは、この書をはじめて西洋世界に紹介したアメリカ生まれの人類学者W.Y.エヴァンス・ヴェンツによる命名である。明らかにエジプトの「死者の書」を意識した名称であるが、死後の世界を克明に描写するエジプトの「死者の書」の類書とみなすことは適切ではない。正式には「バルド・トェドル」(中有における聴聞による解脱)というタイトルで、「シト・ゴンパ・ランドル」(寂静尊と忿怒尊の念想による自らの解脱)という文献群の一部を形成している。
「バルド・トェドル」はチベットで死者が出たときに、その枕元で唱える経典である。日本の枕経にあたる。経典の読誦は死の直後にはじめられ、その後も七日ごとに七回、すなわち四九日間、断続的に行われる。これは死者がつぎの生をうけるまでのバルド(中有)の期間に相当する。バルドはわが国では中陰とよばれることも多いが、文字どおりには「中間の存在」(antarbh<va)を意味し、インドをはじめアジアの諸地域にふかく根ざしている輪廻思想に関連する。仏教の場合、すべての生類は地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の六道、あるいは修羅をのぞいた五道の中を輪廻しているが、ひとつの生からつぎの生に移るまでの中間状態がバルドで、四九日というのはそのもっとも長い場合である。
「バルド・トェドル」は葬儀における読誦経典としてチベットで広く用いられているが、経典としての権威がチベットのすべての宗派で認められているわけではない。チベット仏教には四つの主要な宗派、すなわち、一四世紀にツォンカパによって創設され、現在ダライラマを宗主とする最大宗派のゲルク派、インドの修行者マルパ、ミラレパを祖とし、一二世紀にガンポパによって組織化されたカギュ派、同じく一二世紀のコンチョク・ゲルポを開祖にあおぐサキャ派、そしてこれらの三派がまとめて新訳派とよばれるのに対し、七世紀から九世紀までの前伝期の仏教に根ざすニンマ派(文字どおりには古派)がある。「バルド・トェドル」の成立と伝播には、このうちのニンマ派とカギュ派が大きくかかわっている。そのため、ゲルク派やサキャ派のエリート僧たちは、一般に「バルド・トェドル」の内容を正統的なものとは考えていない。また、同じ宗派の中でも学派や系統によっては独自の葬送儀礼や読誦経典をもつことがあり、これはニンマ派やカギュ派においても同様である。
「バルド・トェドル」がチベットの精神世界の代表的な文献として広く知られているのは、エヴァンス・ヴェンツの翻訳出版(一九二七年)以来、東洋の神秘思想を求める人々の一種のバイブルとして受け入れられてきたからであろう。とくにドイツ語版(一九三五年)に付されたC.G.ユングの「チベットの死者の書の心理学」は、この書で語られるバルドの体験を人間の深層心理にまで結び付け、その後の本書の方向性を決定づけた。また、近年では、臨死体験との共通性の指摘や、ホスピスにおけるデス・エディケーションのための教材としても注目されている。ここ数年のわが国での「チベットの死者の書」ブームも、その流れの一部である。しかし「バルド・トェドル」の流行はけっして昨今のものだけではないのである。
「バルド・トェドル」は付属の願文をのぞくと、前半と後半の二部から構成されている。さらに前半はふたつの部分にわかれ、全体が三つの部分からなる。これは、バルドの期間全体を、死後直後の「死の瞬間のバルド」(死の瞬間のバルド)と、はじめの二週間の「存在そのもののバルド」(チョエニ・バルド)、そして最後の五週間に相当する「再生のバルド」(シパ・バルド)の三種のバルドに区切り、それぞれの期間に死者の眼前に展開される光景や、解脱の方法が各部分でとかれるためである。はじめの部分は「死の瞬間のバルドにおける光明のお導き」と名づけられ、死の直後にあらわれる光明を手がかりに、仏と一体化して解脱する方法が示される。ヨーガの瞑想にたけた者や善業をつんだ者などのための解脱の方法として紹介される。第二の「存在そのもののバルド」においては、柔和な姿をした四二の仏たち(寂静尊)と、恐ろしい形相の五八の神々(忿怒尊)がつぎつぎとあらわれ、輪廻からの脱却をいざなう。ここは「バルド・トェドル」の中心的な部分で、大日や阿などの仏が眷族をひきつれて光明とともに登場するドラマチックな光景は、実際に寺院の境内で演じられる仮面劇の中でも再現される。最後の「再生のバルド」では、これまでの方法でも解脱がかなわなかったものたちのために、再生への入胎をさける方法と、さらにそれにも失敗した場合、六道の中の上位の世界に生まれ変わるための手段が示される。
「バルド・トェドル」の成立
イタリアのチベット学者G.トゥッチは、「バルド・トェドル」の原型となる文献が敦煌で発見されていると述べている。しかし、おそらくこれは「寂静尊(シ)と忿怒尊(ト)」に関する儀軌で、「バルド・トェドル」とは直接関係するものではない。すでに田中公明氏が指摘されたように、敦煌から発掘されたチベット文書の中には、寂静尊・忿怒尊に関する儀軌が二点ある。また、現在パリのギュメ美術館が所蔵する寂静尊のマンダラも敦煌から出土したものである。いずれも八世紀から九世紀にかけてチベットの古代王朝吐蕃が敦煌を支配していた時代の遺品である。前伝期の時代にすでに寂静尊・忿怒尊を中心とした信仰が成立していたことの根拠となっている。しかし、注意しなければならないのは、寂静尊と忿怒尊に関するこれらの文献は、いずれも現在みることのできる「バルド・トェドル」と一致することのない儀軌類で、しかも、バルドとの結びつきすら認められないことである。
「バルド・トェドル」をふくむ「シト・ゴンパ・ランドル」は、ニンマ派の埋蔵経典(テルマ)のひとつである。ニンマ派では祖師パドマサンバヴァが数多くの文献を土中や寺院の壁の中にかくして、後世の人々に伝えたという信仰がある。のちに発見されたこれらの経典が「埋蔵経典」と呼ばれる。その多くは発見者自身による創作であったとされるが、一部は本物の古文書もあったらしい。「埋蔵経典」には土中などから発見された「出土経典」(サテル)の他に、霊感をうけたものが著述した「意趣経典」(ゴンテル)と呼ばれるグループもある。いずれもその発見者や著述者は「埋蔵経発掘者」(テルトン)と呼ばれる。「シト・ゴンパ・ランドル」の発掘者はカルマ・リンパという一四世紀中葉の人物といわれる。「バルド・トェドル」のいくつかの奥書によれば、かれが中央チベットの西にあるガンポリ山から発掘したらしい。他の多くの埋蔵経典と同様、「シト・ゴンパ・ランドル」も伝説上の祖師パドマサンバヴァに由来すると信じられている。
現在、流布している「シト・ゴンパ・ランドル」には二種類ある。ひとつは一四の文献から構成されたテキストで、このうちの約四分の一(第一書から第六書と第八書)が「バルド・トェドル」に相当する。さらにこの文献群は、三巻からなる「カンリン・シト」(カルマ・リンパの寂静尊・忿怒尊)と略称される儀軌集の一部になり、全体は三〇点のテキストをふくむ。もうひとつはやはり「シト・ゴンパ・ランドル」のタイトルをもつが、その中には「バルド・トェドル」はふくまれない。分量も小さく一巻本で二百葉たらずにすぎない。中にふくまれる文献の数はやはり一四であるが、そのほとんどが寂静尊・忿怒尊に関する儀軌である。一九世紀にニンマ派の埋蔵経典を集成した「埋蔵教全書」(リンチェン・テルヅ)にも、第三巻にやはり寂静尊と忿怒尊に関する儀軌が多数ふくまれている。その多くは出典を「シト・ゴンパ・ランドル」と明示するが、やはり「バルド・トェドル」に一致するものはない。また一巻本と共通する儀軌名もあらわれない。
三巻本と一巻本の二種類の「シト・ゴンパ・ランドル」のそれぞれの成立過程は、現在のところ解明されていない。しかし、これらの状況をみると、古くは敦煌文書にもさかのぼることができる寂静尊と忿怒尊の儀軌が、いくつも伝承されていったことは予想できる。そして、これにバルドの思想を結びつけて、「バルド・トェドル」をその一部としてふくむ三巻本が編纂され、また、これとは別に、いくつかの儀軌を集成した一巻本が作られたり、あるいは「埋蔵経全書」にも収録されるようになったと考えられる。バルド思想との結びつきは、寂静尊・忿怒尊を中心としたニンマ派の儀軌からの読誦経典への転換の契機であった。なお、「バルド・トェドル」はニンマ派の文献であると紹介されることが多いが、その形成や伝承には、むしろ、新訳派のひとつカギュ派がより大きく関与したと考えられる。現在伝えられる三巻本の「シト・ゴンパ・ランドル」はカギュ派の文献の寺院に多く残されている。「埋蔵経全書」や一巻本の「シト・ゴンパ・ランドル」が、ニンマ派の伝統の中で伝えられた文献であるのに対し、バルド思想と結びつけ「聴聞による解脱」という役割を与えたのは、カギュ派の人たちであったのかもしれない。実際、一九七五年にF.フレマントル女史と原典からの英訳を発表したカギュ派の活仏チュギャム・トゥルンパは、カルマ・リンパ自身はニンマ派の「埋蔵経発掘者」であったが、その弟子のほとんどがカギュ派のものたちであると述べ、自派と「バルド・トェドル」との結びつきを強調している。
「シト・ゴンパ・ランドル」がバルドの思想と結びついた時点で、葬送儀礼において読誦される経典という性格もおそらく付与されたと考えられる。「バルド・トェドル」の全編を通じて「死者のために耳もとで語りかけよ」と何度も繰り返される。しかし、「バルド・トェドル」の部分だけが一貫性をもって編集されたわけではなかったようである。「バルド・トェドル」の前半部分、すなわち「死の瞬間のバルド」と「存在そのもののバルド」の部分に付された序論は、この部分だけではなく「バルド・トェドル」全体の序としても機能している。「バルド・トェドル」の本論が三種のバルドから構成されると説くのもこの序の部分である。おそらく、もともと独立した文献であった前半部と後半部を、「バルド・トェドル」の一部として合揉したときに、前半部に付属的にふくまれていた「死の瞬間のバルド」を、それ以降の二段階のバルドと対等のものとして位置づけ、「バルド・トェドル」全体を意識してつけられたのがこの序論なのであろう。序論には「バルド・トェドル」にふくまれている付属の願文についての言及もあり、「シト・ゴンパ・ランドル」の一七書のうちの少なくとも第九書までは、このときに成立していたことが確認できる。しかし、その一方で「バルド・トェドル」の本文中には「シト・ゴンパ・ランドル」の一七書の中にはふくまれない文献の名称も言及されており、成立の複雑さを示している。
「シト・ゴンパ・ランドル」の一節が「バルド・トェドル」として意識されたことは、葬送儀礼と結びついた「シト・ゴンパ・ランドル」が、さらに、よりプラクティカルな僧侶の読誦用のテキストとして「バルド・トェドル」を独立させるための素地となったようだ。現在、翻訳が発表されている、いわゆる「チベットの死者の書」の形態があらわれたのである。
エヴァンス・ヴェンツが利用したテキストは、とあるカギュ派の僧の家に代々伝えらえた絵入りの「バルド・トェドル」であったといわれる。「シト・ゴンパ・ランドル」の全体ではなく、その中の「バルド・トェドル」の部分と、その他の小さな付編からなると記している。「バルド・トェドル」のみの写本は東京駒込の東洋文庫にも所蔵されている。紺紙金銀泥の豪華なこの「死者の書」は、特定の死者の追善供養のために創作されたのであろうと川崎信定氏は推測されている。
エヴァンス・ヴェンツはこの写本のほかに、カルカッタのアジア協会にいたJ.v.マーネン所蔵の木版本も用いている。これは三巻本の「シト・ゴンパ・ランドル」であるが、いずれの版本であるかは明らかにされていない。川崎氏の翻訳の場合も、東洋文庫の写本と、シッキムとカム地方の寺院にそれぞれ伝えられた二種類の木版本が用いられている。また、先述のフレマントルとトゥルンパは、川崎氏と同じカム地方の三巻本の「シト・ゴンパ・ランドル」を底本とし、これに三種の木版本を校合したと述べているが、詳細なデータは明記されていない。いずれも、各版や写本のあいだに大きな相違はないといわれる。
すでにふれたように、ポン教にも「バルド・トェドル」というタイトルを冠した文献がある。ポン教徒たちも仏教徒にならって、カンギュル(直説部)とテンギュル(論疏部)という二大コレクションをたてたが、この内のテンギュルの中のやはり「埋蔵経典」のジャンルに「バルド・トェドル」はふくまれている。ただしテルトンすなわち埋蔵経発掘者はカルマ・リンパではなく、一二世紀後半の人物であるタンパ・ランドル・イェーシェー・ゲルツェンといわれ、教えの本来の説示者も八世紀の伝説上のポン教徒テンパ・ナムカーと信じられている。テンパ・ナムカーはパドマサンバヴァの弟子とも伝えられる人物で、「バルド・トェドル」の教えをニンマ派とほぼ同時代の人物に求めていることになる。実際は、カギュ派の中で「バルド・トェドル」が独立してあつかわれるようになってから、その影響をうけて成立したと考えられるが、両者の比較研究は現在のところまだ行われていない。
「バルド・トェドル」の内容
(一)死の瞬間のバルド
はじめの序の部分では、「バルド・トェドル」を必要としない人たちのことがまず述べられる。生前に特別な修練をしたヨーガ行者は、バルドの期間を経ないで解脱することが可能である。かつて実修した行法の記憶を、臨終に際してよびおこすことによって、自ら解脱することができるからである。この行法は「転移」(ポワ)と呼ばれる。したがって「バルド・トェドル」は転移による解脱ができない人のために読誦される。転移とは人間の身体をつらぬく神経の脈管と、その中を流れる「生命の風」(ルン)を支配して、最終的には、頭頂にある「梵孔」と呼ばれる穴から生命の風を放出する行法である。インド以来のタントリズムの基本的な身体ヨーガ理論にもとづいている。人間の身体には三二の脈管がそなわっている。このなかでも中央とその左右の三本の脈管がもっとも重要である。一般に臨終において、生命の風は中央の脈管から左右いずれかの脈管に流れ込み、目や鼻、耳など八つあると考えられる頭頂以外の穴から放出され、死者はバルドに入ると考えられていた。そのため、転移の実践では左右の脈管への生命の風の流出を防ぎ、頭頂の穴から放出するのである。
死の瞬間のバルドにおける救済も、同じ身体ヨーガ理論にもとづいている。息がとだえた瞬間に死者の左右の脈管をおさえて、生命の風が流入しないようにして、導師は転移を実践する。このとき、導師は死者の眼前に「光」が顕現することを強調し、その光が何であるかを語りかける。これは「根元の光明」であり、「存在そのものの姿」すなわち「空(くう)」である。「法身(真理そのものである仏の身体)である普賢」であり、「明々白々な無垢の明知」である。そしてこれを悟ることによって阿弥陀仏(文字どおりには無限の光の仏)と死者は合一し、解脱することができる。導師によるこの語りかけは、生命の風が中央の脈管にとどまっているあいだに行われる。この期間は一定ではなく、生前に善業をつんだ人や瞑想能力のすぐれた人ほど長く、それだけ解脱の可能性も高くなる。
死の瞬間のバルドではもうひとつ解脱の方法が示される。梵孔から生命の風を出すことに失敗し、左右の脈管に入り、頭頂以外の穴から放出されると、死者の意識も体外に出てしまう。そうすると、死者の生前の業にしたがって、バルドの幻影があらわれるのであるが、それまでにわずかな時間があると考えられた。このとき、導師は死者に向かって悟りをえるための「二種のプロセス」のいずれかを実践せよと語りかける。二種のプロセスとは「生起のプロセス」と「完成のプロセス」とよばれるもので、インドの仏教タントリズムにおける基本的な実践方法である。死者がその生前にうけた二種のプロセスのいずれかの記憶をよびおこし、実修することによって、死者の明知が目覚めて解脱できるのである。このときの様子を「バルド・トェドル」の作者は「あたかも太陽の光によって闇がしりぞけられるように、業の支配からまぬかれ「道」が開示され解脱が達成される」と述べ「道の光明による解脱」とよんでいる。
(二)存在そのもののバルド
死の瞬間のバルドで解脱できなかったものたちは、第二の「存在そのもののバルド」に入り、さまざまな幻影をみることになる。これは、すべて生前の業から生じたもので、自分自身の意識が投影したものである。二週間のこのバルドの期間には、一日ごとにことなる神々が登場する。これらが寂静尊・忿怒尊である。
第一日目には大日(ヴァイローチャナ)が配偶神である虚空界自在母と交接したすがたで、眷族もひきつれてあらわれる。紺青色の強烈な光明をともなっているため、たいていの死者は恐れおののいてしまう。同時に魅惑的なかよわい薄明かりもさしてくる。これは六道の中の天の世界からさしこむ光で、死者がこちらに引きつけられとらわれると、天上界に再生することになり、再び輪廻の世界にのみこまれてしまう。大日から発する強烈な光を仏の世界の叡智であると悟り、みずからを導いてくれる光明であると知るもののみが、大日の心臓にとけ込み、大日の仏国土で仏となることができるのである。
大日のところにもいくことができず、また天上界にも引き寄せられなかった錯乱したもののために、二日目の神々があらわれる。出現の仕方は第一日目と同じである。金剛薩と阿の神群が登場し、同時にやはり魅惑的な薄明かりもともなっている。これは地獄からさしてくる光である。金剛薩は仏眼仏母と交接し、地蔵、彌勒の二菩薩、舞女、華女という二女尊をしたがえて、強烈な白い光とともに登場する。もしこの光を金剛薩の慈悲の光で、阿に象徴される「大いなる鏡のような智恵」(大円鏡智)であると知って、これを強く求めれば、阿の仏国土にいたって仏となる。しかし、薄明かりにまどわされ、引き寄せられると、地獄にいたる。
同じように三日目以降、宝生、阿弥陀、不空成就がそれぞれの眷族を引き連れてあらわれる。そしていずれもことなった色の強烈な光をともなっている。宝生は黄色、阿弥陀は赤、不空成就は緑である。この強烈な光が仏たちの智恵そのものであると悟れば、それぞれの仏国土にいたるのであるが、同時に、魅惑的な薄明かりもあらわれるため、もしこれにひきよせられると、順に、人、餓鬼、修羅の世界に生まれ変わることになってしまう。
ついに六日目にはこれまであらわれたすべての仏たちと、さらに門衛の八尊、六道を支配する六人の聖仙、そして、すべての仏たちに君臨する法身普賢とその配偶神である普賢母が一団となって登場する。一方の魅惑的な薄明かりもすべてあらわれる。ひきよせられれば五つの世界にいたる五種の光である。
七日目には持明者とよばれる神々がかわって登場する。超能力をそなえた半神半人のものたちである。五色の光をともなっている。しかし同時に畜生の世界からの魅惑的な光もさしこまれる。
八日目以降は、これまでの寂静尊にかわって、忿怒尊がつぎつぎに登場する。その前に「バルド・トェドル」の作者は、これらの忿怒尊の存在意義を強調する。どんなに密教のヨーガの修練が未熟なものたちであっても、相手が忿怒尊であればたちまちに判別でき、自分の守り本尊を見つけて近づくことができるという。しかし、顕教(密教以前の伝統的な仏教)のものたちには忿怒尊は恐怖以外のなにものも与えないため、悟りがえられず、再び輪廻の世界へとのみこまれてしまう。多面多臂、しばしば獣の頭をもち、ほとんど裸の姿で配偶神と交接する忿怒尊の姿は、仏のイメージからはほど遠いのであるが、これを逆に積極的に評価しているのである。
八日目から一二日目までは、忿怒尊の中心的な五尊の仏が眷族をともなって順に登場する。ブッダヘールカ、ヴァジュラヘールカなどである。いずれの場合もこの忿怒尊が自分の守り本尊であると知り、一体になれば仏となることができる。一三日目にはガウリーとよばれる八人の忿怒の女神があらわれる。一四日目には四人の門衛と二八人のイーシュヴァリーという女尊たちが登場する。
これで存在そのもののバルドの二週間は終わり、この期間中にいずれでもよいから寂静尊や忿怒尊の神々のもとへと至り、一体となれば仏となって輪廻から脱却できる。しかしそれができなかったものたちには、つぎの「再生へのバルド」が待っている。
存在そのもののバルドで行われているのは、二週間という期間と寂静尊と忿怒尊百尊との一種の数合わせである。二週間を前半、後半の一週間ずつにわけ、寂静尊と忿怒尊もいくつかのグループに分類してあてはめる。寂静尊・忿怒尊百尊は本来はバルドの思想とは無縁の存在であった。そこで「バルド・トェドル」の作者は二週間に配分できるように、工夫をこらしている。たとえば寂静尊の場合、中心となるのは五仏と普賢の六尊であるので、七日目には寂静尊にはふくまれない持明者のグループを出してきている。また六道も七日に配分するにはひとつ足りない。そのため、普賢がすべての寂静尊をひきつれて登場する六日目には、それまでの五日間にあらわれた五道の光をもう一度利用している。
(3)再生のバルド
「再生のバルド」の前半ではこのバルドのありさまと死者の心の状態が延々と述べられる。このバルドでは死者の感覚器官や肢体は完全なものとしてよみがえっている。しかも透視能力やあらゆるところを通過できる能力などのさまざまな超能力すらそなわっている。しかし、その一方で、死者自身には自分が死んでしまったという自覚が生じ、心はうつろで、はげしい苦悩もわきあがる。それに加えて、食肉鬼や猛獣、大火、大軍勢などありとあらゆる恐ろしいものが背後からおそってくる。これらはすべて自分自身の業が作る幻影なのであるが、なかなかそれに気がつかない。そうこうするうちに閻魔大王の前に引き出され、生前の悪行のむくいをうける。からだが切り刻まれたり、肉や骨をしゃぶられるという体験をする。このようなさまざまな光景が展開するのであるが、そのいずれでもよいので、すべては自分自身の業が生みだした幻影であり、空であると悟りさえすれば、たちどころに解脱できるという。あるいは、仏法僧の三宝に帰依し、またひたすら観音菩薩に祈願すれば、解脱することも可能なのであると語られる。
これに続いて、死者が自分自身の葬儀や法要を見るという一節があらわれる。チベットの葬儀は「悪趣清浄タントラ」という経典にもとづいてしばしば行われる。悪趣、すなわち六道の下の四つに至ることがないようにという願いを込めた経典である。しかしこの経典が正しく読まれていなかったり、儀式がいい加減に遂行されているのを死者は見るという。「バルド・トェドル」の作者は、これは死者自身の心の状態が清らかではないからであると強く戒め、疑念をもつものこそ悪趣に至り、僧侶や儀礼の遂行者に絶大な信頼をおくものが、よい生まれかわりを得ると強調する。この部分は、「バルド・トェドル」の全体からみると挿入部分のような印象をうけるが、葬儀を行う側の論理で話を進めている。
このような段階をへると、死者には自分の生前のすがたが次第に不明瞭になり、逆に次の生でうける身体がはっきりし、また六道の世界も薄明かりとなってだんだん見えてくる。死者は自分自身がよるべのない存在であることを知り、恐怖と悲しみにおいたてられて、新たな生へと近づいていってしまう。このとき、自己の守り本尊や観音菩薩を祈願し、それがあたかも水に映った月のように、それ自身の性質をもたない空であると悟ることがもしできれば、再生に至らず解脱ができる。しかし、この段階になってもまだ解脱することができなかったものたちには、再生に至る入胎をさける方法しか残されていない。「バルド・トェドル」はその方法を五つあげている。たとえば、その第一の方法は男女が交接している幻影があらわれても、これを配偶神と合体した仏であると心に念じ、ひたすら礼拝し供養せよ、そうすれば解脱することができるというものである。このほかにもさまざまな方法が語られるが、いずれも目の前にあらわれる光景や人物が、自分自身の心の産物でしかなく、あたかも夢のごとくで空であることを悟れというのが基本になっている。そしてここに至り、「バルド・トェドル」の作者は、この教えであれば死者の生前の能力にかかわらず、ほとんど誰でも解脱できるとまで言い切る。その理由として、前にも述べたように、この段階の死者の能力は、生前の状態に関係なく、完全で、生きていたときよりもはるかに明晰で鋭敏になっているからであると述べる。それだからこそ、四九日目までは「バルド・トェドル」を聞かせることが肝要なのである。
最後は、これでも解脱に至れなかったものたちへの「胎を選択する教え」である。死者は六道の中で少しでもよい生まれを求めよと忠告をうける。よい生まれとは天か人である。そして人に生まれるならば仏法の広まった国を選び、生まれる身分はバラモンか王侯として生まれよと説かれる。これは実際の社会の上位階層であるが、釈迦が王侯出身で、未来仏である彌勒がバラモンの出身であることも念頭にあるのであろう。しかし、同時に、悪い業があると錯乱して良い胎と悪い胎の入り口を判断できず、あやまった選択をする可能性があると警告する。そして、その場合も目にうつるものはすべて空であると観じて、無執着に徹せよということは忘れない。
このようにバルドの四九日間のあらゆる段階で、数えきれないほどの解脱の方法が示され、「バルド・トェドル」の中心部分は終わる。
ナーローの六法
「バルド・トェドル」は救済のための書である。その全編をつらぬいているのは、輪廻からの解脱の道である。しかし、そこに描かれる世界は、古代的あるいは中世的な再生の観念に根ざした、一見、荒唐無稽な死後の世界にうつる。それぞれのバルドのあいだの関係も、論理的な整合性を欠き、想像の産物の集積にすぎないと見られるかもしれない。「バルド・トェドル」の救済理論をつらぬいているのは、空の確証による悟りである。いかなる段階であっても、そこにあらわれる仏や神々、光、おそろしい災厄、これらをすべて幻や夢であると見抜き、自分の業が作り出した幻影であると知る。そして究極的には空にほかならないと悟るのである。インド仏教では、空は本来、存在物が実態ではないことを示すネガティヴなことばであったが、密教の場合、空は修行の究極の目的、すなわち悟りそのものであるというポジティヴなものへと変容している。ここで追求される空も、そのような実体視された空に他ならない。そしてこのような空を追求する実修法こそが、じつは「バルド・トェドル」の成立の基盤となっているのである。
「バルド・トェドル」がベースとしているのが、一一世紀にインドにあらわれた修行者ナーローパによる「六法」という教えである。ナーローパ(ナーダパーダ)はカギュ派の祖マルパの師にあたり「ナーローの六法」もカギュ派の中で整備され、この派を代表する実践方法となった。ただし、六法を説いたのはナーローパだけではなく、彼と同時代のさまざまな人物名を冠した六法が存在する。またカギュ派以外の宗派でも六法の実践はさかんに行われている。しかし、その中でもっとも有名なのが、この「ナーローの六法」なのである。
「ナーローの六法」とは?内的火、?幻身、?夢、?光明、?バルド、?転移からなる。これらはいずれも本来は単独の修行法であったと考えられているが、六法として組織化されると、この順序で実践され、最終的には空を悟り、解脱することが可能になる。?の内的火は準備段階にあたり、ヨーガによって中央の脈管の基礎部に熱を作り出す行法である。これが?以下の活動源となる。?の幻身は自分自身の姿を鏡に映し、これを陽炎や雲、月影などにたとえ、幻影にすぎないと確証する。?の夢では覚醒している時と夢を見ている時の状態が、いずれも幻影にすぎないことを理解する。夢の中にあらわれるもの−−この中には仏や菩薩もふくまれる−−が、実体をもたないものであると悟る。これによってすべての現象が「光明」へと姿を変える。これが?の「光明」である。行者はこの光明が空を本質とし、現象世界が展開する前の法身の輝きそのものであると知る。?のバルドは実践の過程における行者の仮想的な死である。あるいは、実際の死に際して起こることを疑似的に体験することである。?の転移についてはすでに「死の瞬間のバルド」において述べたように、修行の最終的な段階でおこる意識の移動である。前段階での疑似的な死を経た、仏国土へのよみがえりでもある。
?の内的な火は準備段階であるためのぞくとして、?の幻身から?の転移までを逆にして、人間の実際の死後の世界にあてはめたものが「バルド・トェドル」である。もっともすぐれたものの場合、死の直後に転移を行じて解脱するか、導師の助けをかりてこれを行う。転移に失敗するとさまざまな死後の世界が展開するが、そのたびごとに、まばゆい光明をたよりに、また眼前に繰り広げられる世界が夢であり、幻影であると悟ることによって解脱の可能性が示される。そしてすべての根底にあるのが、空をもとめる熱意である。
「チベットの死者の書」に「解説」をかいたC.G.ユングが、この書を逆に読むべきであると述べているのは興味深い。彼は人間の深層心理が上昇する過程を、「死者の書」においては死者が逆にたどるとみているのであるが、「バルド・トェドル」を逆にしたものこそ、悟りに至る行者の実践階梯にほかならない。「ナーローの六法」もインドやチベットの密教の実践についても充分知られていなかったこの時代のユングの直感にはおどろかされる。
ところで「ナーローの六法」には五番目にバルドがおかれていた。この場合のバルドは行者の仮想的な死の体験であるので、前後の脈絡とも整合しているが、「バルド・トェドル」の場合、死者は文字どおりすでに死んでバルドに入っている。そのためここであらためてバルドを実践するのでは、意味をなさない。「バルド・トェドル」の場合、転移を行う「死の瞬間のバルド」のあとは、寂静尊・忿怒尊の現出が起こる「存在そのもののバルド」であった。本来、バルドの思想とは無縁であった寂静尊・忿怒尊の体系が「バルド・トェドル」の中に流入されたのは、内部に実践法としてのバルドをもつ六法を、実際の死後の世界であるバルドにあてはめることによって生じた、一種の空白状態を埋めるための手段であったと考えられる。
付記 「バルド・トェドル」からの引用、要約は川崎信定氏の和訳(一九八九)を参照させていただいた。また、「シト・ゴンパ・ランドル」のチベット語テキストは、名古屋大学文学部所蔵のアメリカ合衆国国会図書館チベット語文献マイクロフィッシュを閲覧する機会を得た。記して謝意を表します。
参照文献
金子英一 1976 「ニンマ派の埋蔵経典について」 牧野諦亮『疑経研究』 京都 大学人文科学研究所、三六九−三八六頁。
川崎信定 1989 『チベットの死者の書』 筑摩書房。
スタン、R.A.1993 『チベットの文化 決定版』山口瑞鳳・定方晟訳 岩波書 店。
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