宗教学B:密教美術の世界

第10回 仏塔と宇宙:再生する世界


宇宙=神かつ人も神(宇宙)の一部であるとありましたが、すでに神の一部であるのに、古代インドの人々は、なぜ修行を積んで、神をめざそうとしたのでしょうか。また、日本の仏塔が内含する性質を持っていることは、宇宙が展開することに矛盾している気がします。
我々は宇宙や世界と本質的には同一であるというのは、インドの思想においてはいわば常識であり、大前提です。世界史を履修した人は知っていると思いますが、梵我一如という考え方が、古代インドのウパニシャッドですでに確立しています。梵はブラフマンで、宇宙に相当し、我はアートマンで我々に当たります。「汝はそれなり」(tat tvam asi)という有名な言葉もありますが、これも「それ」がブラフマンで「汝」がアートマンです。インドの思想はこの大命題を前提として思想を展開していきます。それを本当に理解する(それが悟りであり、解脱です)とは、どういうことなのか、そして、そのために何をすべきかを議論し続けたのです。その中で初期の仏教は梵我一如のような考え方を拒絶しました。仏教はインドの思想史の中では異端なのです。ブラフマンのような宇宙や世界については無関心でしたし、アートマンに対しては、無我説によってその存在を否定しました。授業で取り上げた仏教の世界観は、もっとずっと後のもので、むしろインド思想の正統に近づいていった時代のものです。なお、われわれ日本人が「自己は世界と同一である」と言われても、ふつうは何のことかさっぱりわかりません。日本人にとって世界や宇宙の存在は、考察の対象ではなかったのです。仏塔の中に仏が含まれて、仏塔そのものが宇宙のシンボルであることも、日本ではほとんど意識されてこなかったでしょう。

私たちはすべての生物の起源が海にあるということを、科学的に知っているが、古のインドの人々は、そんなことを知らないのに、海から黄金卵が生まれ、世界や生命が形成されていくという考えを持っていたのがおもしろいと思った。でも、確かにインドのような暑い土地で、水は命を支えるためになくてはならないものであるので、水=生命のイメージは、日本人より強いですね。
科学的な知識というのは、我々にとっては一種の「真理」のような気がしますが、それすらも時代に大きく左右された知識であり、場合によっては次の時代には否定されます。一方、神話や伝説は、現代人にとって絵空事や不思議な物語でしかありませんが、それを生み出した人々にとっては、まぎれもない「真実」だったはずです。そのようなものに、現代的な科学に通じる情報が含まれていることもしばしばみられます。また、創世神話のように、世界がどのように形成されたかという神話には、その神話を生み出した人々の知識や思想が凝縮されていることも珍しくありません。

数ある植物の中で、ハスの花がこれほど重要な役割を持ったのはなぜですか。インドでは伝統的にハスの花が好まれていたとか・・・。あと、弥勒はスイレンの花を持っていますが、スイレンも仏教ではハスと同じくらい重要な意味を持っているのでしょうか。
おそらくインドの人々にとって、もっとも身近な植物だったからでしょう。しかも、水の中で旺盛に繁殖する姿は、単なる植物の域を超えて、生命力のみなぎる生物だったのでしょう。ストゥーパの装飾にみられるハスの花の装飾モチーフは、現実のハスとは少し異なり、茎がつる草のようにのびているため、「蓮華蔓草」とも呼ばれます。ヤクシャやヤクシーなどの体からのびていることも多く、単なる蓮ではなく、想像上の植物だったようです。ハスの花が女性と結びつけられることが多いのも、このようなハスの持つ繁殖力によるのでしょう。スイレンは弥勒ではなく、文殊やターラーなどが持ちますが(弥勒は龍華です)、ハスほどの広がりや重要性は持っていないようです。

仏教が表す世界観は、時間がたつにつれて拡大していったのでしょうか。そうだとするなら、ある世界観があって、それが「使い古され」ると、また拡大するようなことをしていったのではと思いました。世界観が「規定」されるのをいやがっている感じがします。つまりは無限であることを象徴していたということになるのではないですか。
おもしろい見方ですね。たしかに、須弥山的世界観から華厳経の世界観への発展は、規格化された世界を無限の中に拡散させてようにも見えます。しかし、その一方で、全体を一つのハスのイメージをとらえているのは、むしろ須弥山的世界観のように無限に増え続けるイメージよりも、全体を限定して表現しようとしているようにも見えます。その結果生み出されるのが、今回から取り上げるマンダラですが、そこでは宇宙は単純な円や正方形で表されます。どちらかというと、やはりインドの人々にとって世界とは、認識可能、表現可能なものであったように感じられます。

写真を見ると、ただの塔にしか見えないストゥーパが、解釈を加えると違ったものに見えてきた。改めて宗教の深さや難しさを感じさせてくれるものだった。以前、授業で見たものも違った印象で見られておもしろかった。
同じものが違った印象で見られるというのは、この授業でめざしていることなので、そのような感想を持ってくれるのはうれしいです。授業で紹介するスライドには、すでに取り上げたものが繰り返し現れますが、これは別に手抜きではなく、同じものでも、背景となる思想や宗教についての理解が深まるにつれ、違った姿を我々見せてくれるからです。この授業も終盤を迎えつつありますが、同じような体験をこれから何度かすることになると思います。

宇宙=神であるという考え方は、頭で理解できるような気がしましたが、実際、考えてみると、とても変な感じがします。もし、世界が「神」で構成(?)されているのなら、この机とかにも神がいることになって、ものを粗末に扱ったら、神を粗末に扱ったことになるんでしょうか。やっぱり変な感じです。
「変な感じ」というのは大事な印象です。新しい知識にふれることで、あたりまえと思っていることや常識が揺さぶられているからです。学問とは常識を打破することで進歩するのですし、それこそが知識を得ることの醍醐味です。さて、世界が神でできているならば、机も神であるというのは、その理論においては正しいです(信じるか信じないかは、別の問題です)。実際、日本仏教では「山川草木 悉皆成仏」(山も川も草も木も、皆あまねく仏となる)という重要な考え方がありますし、「一切衆生 悉有仏性」(生きとし生けるものは、あまねく仏の性質を備えている)という言葉もあります。じつはこれらも、インド的な「梵我一如」のヴァリエーションなのです。ただし、この考え方は「ものにはすべて神が宿る」という、日本人が好む考え方とは異なります。このような考え方は「アニミズム」とも呼ばれますが、そこでは、世界全体に対する視点は全く含まれません。枠組みが異なるのです。

スケールが大きい話で、難しかったです。ストゥーパ(仏塔)は、宇宙を表しているんですか。私には母親の胎内のようにみえるんですけれど・・・。
宇宙と卵の話は「よくわからなかった」という感想の人も多かったです。神が宇宙を作るというのはわかるが、宇宙が神そのものというのは理解不可能という感想も何人かいました。おそらく、神という存在を我々の世界とは別のレベルに存在する絶対者、超越者としてとらえる方が、理解しやすいのだと思いますが、それはユダヤ教や、キリスト教的な神観念が、われわれ日本人にも浸透しているからかもしれません。仏塔が胎内のように見えるというのは、まさしくその通りです。卵というのは「そのまま変化して、成長するもの」というイメージになじみやすいので、用いているだけで、要するに「生命」なのです。羊水と生命誕生の水を結びつけたコメントもありましたが、これもぴったりのイメージです。生物学の常識で「個体発生は系統発生を繰り返す」というのがあります。生命が誕生するときには、何億年という進化の過程を、もう一度再現するというものです(少し乱暴な説明ですが)。単細胞生物からヒトへと進化する過程を、われわれは母親の胎内で、10ヶ月で再現していることになります。これなども、「宇宙とわれわれの本質的同一性」ととらえてもいいのかもしれません。

ウダヤギリの四仏は五仏の中にいましたが、五仏の残り一人はどこへ行ったのかと思いました。
ウダヤギリの仏像の構成は特別です。東、南、西は通常の各方角の仏たちなのですが、北は不空成就ではなく、大日如来です。大日如来は本来、五仏の中心に位置するため、四方四仏として表す場合には登場しません。仏塔そのものが大日如来に相当します。しかも、大日以外のウダヤギリの仏たちは、金剛界というマンダラに登場する四仏の組み合わせに一致するのですが、大日は金剛界の大日ではなく、胎蔵界という別のマンダラの大日如来の姿をしています(ややこしいのですが、同じ大日如来でも、マンダラによって姿が異なるのです)。現在のところ、ウダヤギリの四仏の組み合わせを説明する根拠はわかっていません。インドの仏塔や四仏の作例でも、このような例はほかにないのです。

ストゥーパにはシャカの骨があるそうですが、それは本物なのでしょうか。おそらく本物とか偽物という問題ではなく、現存していないでしょうが、日本では時代が下るにつれて、寺において、仏塔よりも仏像が納められたりする建物がメインになっていったらしいけれど、仏塔の中に骨(レプリカであっても)を納める習慣はまだ残っているのでしょうか。
舎利に対する信仰は、仏教の歴史の中でひとつの底流のようになっています。もちろん、質問にあるように、舎利が本物であるか偽物であるかは、ある意味では重要ではなくなります。そもそも、舎利八分というように、最初から舎利は分割される運命にありましたし、のちにアショーカ王が八万四千の仏塔を造るために、再び舎利を分割したいうのも同様です。舎利は分割されることで、さらに増えるものだったのです。そのイメージは細胞分裂のように、増殖する生命だったのかもしれません。その一方で、舎利は中国や日本で珍重されます。インドから大量の舎利が輸出(?)された時代もあります。弘法大師空海も中国からのお土産(請来品といいます)として、舎利を持ち帰っています。空海が建立した東寺では、この舎利が時代の善し悪しで増えたり減ったりするという信仰があり、その数を数えるという儀式もありました。その場合は、舎利が天皇の治世のバロメーターになり、王権と結びつきます。もともと、舎利を仏塔に安置するという葬儀の方法は、インドでは転輪聖王の葬儀の方法といわれ、授業で以前にお話しした「仏と王の共通のイメージ」が、ここでも見られます。一方、現実には舎利を入手することは容易ではないので、代替品もあります。日本では水晶が舎利に見立てられることがありました。また、インド以来、そのような物質は仏教の説く諸行無常や空(くう)の考え方と相容れないので、むしろ、仏の真理そのものが舎利として珍重すべきであるということで、そのような内容の詩を書いた紙を納めることもありました。

悟りを開くことって、すごく孤独なイメージを持っていたんですが、光ですべての宇宙が見られて初めて開くというのを聞いて、意外に思えました。小さい頃、私は「宇宙の外は何があるんだろう」と本気で考えていました。そして、長年悩み苦しんで出た答えが、「宇宙はさらに大きな人間の一部(細胞とか)なんだ」と、妙に納得してしまっています。だけど、この大きな人間を神としてしまったとすれば、インドの人々たちと似た結論に達していたのかなぁと思いました。去年、ある友人とそんな話題で盛り上がったとき、同じような結論に到達してしまいました。不思議ですね・・・。
小さい頃から、そのようなことを考えてこられたのは、とてもいいことだと思います。哲学や思想というのは、人間にとって普遍的な問題を取り上げます。三千年前のインド人も、現代の日本人と同じことを考えるからこそ、かれらの思想や哲学を学ぶ楽しさや感動があります。同じ結論に達しても、別に不思議ではないのです。



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