宗教学B:密教美術の世界
第9回 仏教の世界観
僕は奈良県出身で、何度か東大寺の大仏は見たことがあったのですが、あの大きさは、時の天皇の権力の象徴のような役割を果たしているのだと思っていました。しかし、仏教の宇宙観というものを考えると、もっと奥の深い意味で、あの大きさをしていたのだとわかりました。
もちろん、聖武天皇をはじめとする当時の政権の誇示という性格もありますし、同時に作った国分寺、国分尼寺とあわせて、中央集権国家の統治機能の象徴的な存在であったこともたしかです。そして、毘廬遮那如来という新しいタイプの仏が、それまでの釈迦や薬師などとはまったく異なるレベルの仏であり、森羅万象を司る仏であることも、天皇の持つ超越性を示すためには、格好の仏だったのでしょう。
髪や爪を切っても、それは自分の一部だと思いました。スクリーンセーバーにはたしかに人間は写っていないけど、地球をクローズアップすれば、人間はいるのだから、私はやっぱり自分と宇宙はつながっていると思うんですが。
もちろん、髪や爪も自分の一部ですし、切った後も自分の一部であるかもしれませんが、それが燃やされても朽ちてしまっても、「私」というものの本質には何の影響も及ぼさないという例として出しました。脳が燃やされてしまったら、そうは思えないですからね。また、先週は話がややこしくなるので、肉体の一部に「私」があるという前提でお話ししましたが、精神というものを肉体とは別にたてる考え方もあります。身心二元論といいますが、これならば、精神が「私」であるとできるので、心臓も脳も「私」探しの対象から外すことができます。地球をクローズアップすれば云々ということですが、スクリーンセーバーをクローズアップしても、人間はあらわれずに、単なる「ドット」が見えるだけです。意地悪な反論と思うかもしれませんが、われわれ人間をそのまま表すためには、まったく同じものをもう一つ準備しなければなりません。それらの集合体である宇宙も同様で、それをありのままに表現するためには、もう一つ宇宙が必要となります。
自己と宇宙ということだったが、境界はあいまいというよりも、人間が勝手に決めて、その時々や経験によって線引きしているのではないだろうか。また、表現を拒否しているといっても、たとえば自分の考える宇宙観を示して、他人がそうではないと思うことは、そうではないという基準があることで、ある意味、表現しているからいえることではないだろうか。
おそらくそういうことなのでしょう。でも、「私」という問題はやっかいで、たとえば国境のように、人と人が約束の上で定めた境界とは異なり、何よりもたしかなものであり、他者とは異なる特別な存在であると、誰もが思っているものです。前回紹介した「自己と宇宙とのつながり」という問題も、私を出発点として考えるから意味を持つのであり、他者と宇宙がつながっていようといまいと、それほどの驚きはないでしょう(他者とはもともと、自分とは別の存在という意味で宇宙の一部なのですから)。
仏教の世界観はなかなかおもしろいのですが、これはシャカが伝えたものなのでしょうか。印象では後から考えたようなのですが・・・。後のこの世界観からすると、仏があまりにも遠すぎる存在に思えます。これでは一般の人々にはとてもついて行けないように思えます。教えを説くには(私にとっては)逆にマイナス効果に感じます。
前回紹介した仏教の宇宙観は、ご指摘の通り、シャカの時代にはまだ成立していません。これは『倶舎論』という仏教の綱要書のひとつに説かれたもので、きわめて思弁的、分析的な内容を持っています。このような世界観は、一般の人々にはほとんど知られていなかったでしょうが、仏の存在が遠くなってしまうというのはそのとおりで、そのために、より身近な存在である菩薩や、伝統的な仏である釈迦への信仰が優勢だったのでしょう。
わたしたちはみな、宇宙のサイクルとともに、生まれては死に・・・を繰り返しているのだと話にありましたが、わたしたちが行き着くところは、何なのですか?前世よりも来世の方が、徳を身につけているというような成長を、わたしたちは少しでもなしえているのでしょうか。
「わたしたちが行き着くところ」や「わたしたちは何のために生きているのか」という問題が、そんなに簡単にわかるわけはありません。古今東西の哲学者や宗教者は、それを見つけだそうと懸命に努力したのです。答えが出ない問いであるからこそ、人々は問い続けるのでしょう。
仏教がもともと世界など哲学的なことを考えるものだったとしたら、一体どのようないきさつで、祈祷などの呪術的な要素ができたのでしょうか。生活するために、民衆などの生活に根付いた願望によって生まれたのでしょうか。
ほとんどの宗教、とくに特定の地域や民族を超えて広がった宗教(たとえば仏教、キリスト教、イスラム教など)は、すぐれた哲学体系とともに、人々の生活に根ざした信仰をそなえています。いずれか片方だけでは、このような宗教は成り立たないのです。もちろん、呪術的な要素は聖職者が生きていくためにも必要な生活手段だったでしょうが、それと同時に人々が宗教に求める最も大きなものが、このような現世利益的な願望だったのでしょう。
今日の話はいつもよりむずかしく少したいへんでしたが、深い内容だったのでおもしろかったです。無限である宇宙を有限にしてまで描こうとするのが仏教らしいなぁと思いました。でもなぜ世界が須弥山を中心に考えられているのでしょうか。特別な山なのですか。
世界の中心を設定し、そこに垂直軸を立てるのは、インドに限らず、世界の宗教や神話にしばしば見られます。それは樹木、巨人、柱などで表され、インドの場合は山だったのです。須弥山は山と言っても、授業でも紹介したように直方体をしていて、どちらかといえば柱です。一般に世界は水平にいくつもの層に分かれ、とくにわれわれの住む地上世界を中心に、上に神々の世界、下に悪魔や地獄の世界を立てることも広く見られますが、中心の軸は、これらの世界を貫き支える役割があります。世界を構造的にとらえるとき、中心と周縁を設定するのは、人間の普遍的な方法なのでしょう。
宇宙も生き物も輪廻しているというのであるが、その輪廻は永遠に続いていくのだろうか。宇宙に対する考え方で、上に行くほど大きくなっていくのはなぜなのだろうか。下の方が大きいのが普通ではないのだろうか。
たしかに下の方が大きい方が安定しているように見えると思いますが、そうはなっていません。おそらくこれは、上に行けば行くほど、いわば聖性の度合いが高くなるため、これを表すために巨大化させているのでしょう。下については説明しませんでしたが、地獄の世界が広がっています。これも下に行けば行くほど大きくなる部分があるので、実際は世界は鼓か砂時計のような、中央がくびれた形でイメージされているようです。われわれの世界はそのもっとも細いところに相当します。一番、聖性の度合いが低いからです。
弥勒は兜率天から降りる、釈迦後、初の未来仏といわれるが、他の未来仏ももともと住んでいる天が別々に決められているのだろうか。それともすべての未来仏が兜率天にいるのだろうか。
未来仏というのは現在ではまだ菩薩ですので、それぞれがさまざまなところで修行をつんでいます。しかし、つぎに仏となる未来仏(菩薩)だけは住所が決まっていて、それが兜率天です。したがって、現在、兜率天にいる未来仏は弥勒だけです。これは釈迦の場合も同様で、母親の摩耶夫人の胎内に入るまでは、兜率天で待っていました。この世界には無数の仏がいるのですが、われわれの住む世界(この場合の世界は小世界という説と、三千大千世界という説がある)には、つねにひとりだけの仏しかいないので、待っている未来仏もひとりだけです。兜率天は仏の待合室(ただし定員はひとり)のようなものです。
仏にとって私たちが暮らしている空間や時間がちっぽけなものであるということに驚きました。でも、そういうことを考える人間もなかなかすごいと思いました。人間の頭の中の方が無限だと思いました。
そのようにも表現できますね。宇宙や時間が無限なのではなく、無限であると考える人間の思考が無限ということになります。実在論と観念論の違いということもできるかもしれません。
今朝の中日新聞の『きょうのことば』だったかにもありましたが、「無限」とか「筆舌に尽くしがたい」とか「何ともいいようがない」といった表現がされる概念は、言葉自体がすでに有限であるにもかかわらず、なぜかいとも簡単に表現され、相手に伝わってしまうことにやっぱり矛盾と感じます。ところで「私」の本質は五感が失われたとしてもなくならない思考や記憶を司る脳だと私は思うので、この個体こそがいまは私なのだと思いますが、いつからいつまで「私」なのかは定かではないなぁと、授業中に考えていました。
人間がものごとを概念として扱うことができるのは、ことばを用いるからでしょう。ことばによって、われわれは世界を切り取っていると表現する哲学者もいます。思考や記憶を「私」と結びつけるのは適切だと思います。自分自身が「私」だと思うのは、過去の記憶があることと、未来に対して何らかの意志を持っているからとも見ることができます。生まれたばかりの赤ん坊は、「私」という自覚を持っていないでしょう。前回の授業では、もっぱら物理的な身体を中心に「私」を考察しましたが、むしろ「私」とは時間的な存在であるかもしれません。あるいは、私とは他者との関係の中でとらえられる存在であるとも言えます。他者が存在しない世界や、他者を他者として認識できない世界では、私自身もおそらく認識できないでしょう。
劫という時間の定義や、禅という定義で宇宙の輪廻を説明するのはわかった。しかし、仏教徒にとってそれがいったい何を意味するのか?宇宙も生命もともに輪廻するという説明のためだけにいろいろ考えたのだろうか。神をランクで分けたり、異常な時や空間を定めることに、仏教徒は何を見いだしていたのだろうか?
前回の授業の内容は、今回の授業に直接つながります。宇宙をどのようにとらえるかは、仏塔の構造や仏の果たす役割に大きく関与します。これは次の主題であるマンダラにもつながっていきます。学問というのはじっくり考えれば、思いがけないつながりが発見できる世界です。性急に答えを見つけることはありません。
須弥山の概念はもはや「山」を超えていると思います。三十三天が住む頂上までの絶壁は「けっして登れない」という含みがあったりするのでしょうか。90。の絶壁なんて考えたくもないです。先週末まで県美に金剛峰寺の宝物がきていたので見てきました。満足です。
須弥山は神々の領域なので、登れない方がいいのでしょう。輪廻して、ひょっとすると天に生まれ変わることができるかもしれません。仏教の修行をすると、無色界に生まれることも、もしかしたらできるので、須弥山なんて軽く超えられることになります。金剛峰寺展を観覧されたのはよかったですね。今度は直接、高野山に行ってみてください。あのような文化遺産を千年にわたって守ってきた、他に類を見ない宗教的な空間があります。
今日の最初の自己と宇宙の話が、今までの講義の中で一番おもしろかった。ああいうのもいっぱい聞きたい。
同じような話はもうありませんが、前回の話をふまえて、さらに展開させていくつもりですので、お楽しみに。なお、前回の話は、以前に文章としても発表したことがあります。講義を活字にしたもので、内容はさらに多岐にわたっていますが、文章化するために手を入れているので、よりわかりやすくなっているはずです。ホームページ上で公開していますので、読んでみてください(「仕事」「その他」「講義録」の中にある「インドの宗教に見られる死生観」)。
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