宗教学B:密教美術の世界
第5回 パーラ朝の仏教美術
ヤクシャを見て感じたのですが、ときに神さまは子どもの姿をとっているのはなぜでしょう。実際の子どもは非力で、あまり力があるようには思えないのに、どうしてわざわざ成人の姿より子どもの姿を選ぶのでしょうか。日本では「子どもは7歳までは神さまのもの」とか聞きますけど、何か子どもを神聖なものと見なす考え方でもあるのでしょうか。また、仏教での仏敵は滅ぼすべきものか、救うべきものか、どのように見なされているのでしょうか。
たしかに、神や仏には子どもの姿をとるものがありますね。文殊菩薩がそうですし、地蔵も童子か幼児の姿です。聖徳太子や弘法大師も、お稚児さんの姿をして表されることがあります。子どもとは「成人になっていない人間」ではなく、異界から来た存在で、この世とあの世とをつなぐような位置づけだからでしょうか。同じように、老人も「死の世界」や「カミの世界」との橋渡しのような役割をすることがあります。日本の神道では、神を表すときにこれらの童子や老人(翁や媼)の姿をとることがしばしば見られます。宗教学では、このような現象を「翁童(おうどう)信仰」とまとめて呼ぶこともあります。また、二つの領域にまたがるものを「両義的存在」と呼び、そのようなものに「聖なるもの」を認める傾向があります。仏敵は滅ぼすべきものでもあり、救うべきものでもありますが、さらには仏教の仏たちの存在基盤にもなっています。これについては、今学期の授業の終わりの方で、ヒンドゥー教の神々との関係で考えて行くつもりです。
日本の仏像にも、土で作られたもの、木で作られたものなどがあるが、さまざまな材料で作られたインドの仏像の中でも、最も上等な材料は何なのだろう、それとも、材料にランクはなかったのだろうか(むしろ、日本の仏像の上等な材料は何だろう)
インドに関しては、それぞれの地域で入手できる石材が最もポピュラーです。日本人にとって、仏像は木彫(もくちょう)、つまり木の仏像が一般的ですが、インドではあまり見られません。これは、神や仏は「永遠の存在」であって、それを写し取った像もできるだけ完全な姿で、ながく保存できるものを選んだからでしょう。ブロンズ像のような鋳像が多く作られたのも、同じ理由です(はやくから鋳造技術が発達したことも重要ですが)。日本の仏像にも木像の他に、石像、塑像、乾漆像、鋳像などがありますが、やはり数の上では、木像が圧倒的に多いでしょう。その中で、とくに材料として珍重されたのは、栴檀(せんだん)や白檀(びゃくだん)などの香木から作られたものです。このような香木は日本では産出しないので、輸入されたことも希少価値を高めたようです。中には、べつの材料を使いながら、表面を加工して、それらに似せたものもあります。このような像を檀像(だんぞう)といいます。また、落雷によって倒れた木にも、神の霊力が宿るとして、仏像の材料としてしばしば用いられました。いわゆる霊木です。この場合、もとの木の種類はあまり問題にはなりません。
シャカの一生を描いた仏伝図は、シャカの誕生から涅槃までのひとつの物語になっていて、おもしろいと思った。灌水は何のために行われているのか不思議に思った。シャカにかけられている水には、何かすごい力が秘められているのでしょうか。
灌水の水は龍王がそそぐのですから、それなりに特別なものですが、宗教学的に見て、水そのものがさまざまな力を持っています。なかでも浄化や再生のはたらきは、世界中の宗教に見られます。キリスト教でも水は重要で、洗礼のような儀式では、水をそそぐこと自体が、儀式の中心になります。シャカは生まれてすぐ灌水を受けるので、一種の産湯なのですが、そこにもこのような宗教的な意味を見ることができます。これをモデルのひとつにして、密教儀礼の「灌頂」(かんじょう)という儀式が現れるのですが、これについてはマンダラを取り上げる回で紹介します。
仏伝図もあとの方になると、シャカひとりが大きくなり、他の人物は省略されたり小さくなったりしたということですが、私としては、前の時代の仏伝図の方が、登場人物が生き生きしていておもしろいです。ところで、彫刻の中で、とくに女性が裸かそれに近い状態で彫られていることが多いようにも思えるのですが、なぜですか。
たしかに、サンチーやバールフットに見られた初期の仏伝図の方が、パーラ朝の礼拝像形式の仏伝図より、はるかに変化に富み、おもしろいでしょう。ガンダーラやアジャンターなどの作品も同様です。インドの仏教美術の研究も、このような生き生きした仏伝図、あるいはシャカの前世を描いた作品を中心に研究が進められ、パーラ朝の美術研究はあまり好まれませんでした。パーラ朝の作品は仏の種類は増えるのですが、いずれも礼拝像で、説話的な要素がほとんどないためです。つまり、そこでは物語をいかにして表現するかはほとんど問題にならず、特定の作品が何という仏を表しているのかを明らかにすることぐらいしか、研究されませんでした。しかも、作品そのものも稚拙なものや造型の力が弱いものが多く、「衰退した仏教美術」という位置づけでした。教科書の『インド密教の仏たち』は、このような作品でも、個々のイメージにこだわることで、それを生みだした文化的背景や宗教のもつダイナミズムが読みとれるのではないかという立場で書いたものです。女性像の特徴ですが、一般に肉体的な表現が強調されて表されています。胸や臀部が極端に大きく、逆に腰のあたりは不自然なまでにくびれています。衣装が薄いのも、それを強調する働きがあります。日本人にとっての理想的な女性像は、もっと清楚で慎ましやかなものが一般的でしたが、おそらくそのような像は、インドではほとんど魅力のない女性像だったでしょう。女性の美(もちろん、男性の美もですが)をいかにして表現するかは、それを生み出す文化や人々の嗜好によって大きく異なるのです。
私の将来の夢のひとつにインドに行くことがあるのですが、先生は授業でいろいろな写真を見せてくれたり、本でもたくさんの写真を掲載していて興味深いのですが、それらは、カメラを片手にインドを歩き回って集めたものなのですか。
ぜひ、インドに行ってみて下さい。写真については基本的にはそうです。授業で紹介する写真の一部、とくに日本の仏像の写真は本から読み取ったものもありますが、インドの作品はできるだけ、自分でとったものを使うようにしています。教科書の写真も9割以上は過去に撮影したものを使っています。また、ホームページの「アジア図像集成」に掲載されている写真も、すべて自分で撮影したものです。「カメラを片手に云々」というのは、たしかにそうなのですが、写真を撮るためにはカメラの他にもストロボや電池、交換用レンズ、三脚などが必要で、それをリュックなどに入れていますし、最近はデジタルカメラなので、パソコンやそのためのアダプター等の周辺機器がありますから、全体は相当な量になります。どちらかというと、重い荷物をかかえて、はいずり回っているという感じでしょうか。アリかゴキブリのようですが。
四相図や八相図は、紙芝居のようにいろんな場面が表されていて、おもしろいと思った。シャカは超人的な力を持ちながら、人間として、人間から生まれたようだけど、そこはキリストとも共通しているなぁと思った。人間は、自分たちと身近なものに救いを求めたがるのでしょうか、それとも、超人的な救いの対象を、少しでも身近に感じたいのでしょうか。
シャカの生涯に見られるさまざまな奇跡は、キリストのそれを連想させるという感想が、何人かの人に見られました。たしかにそうですが、年代的にはシャカの方がかなり前になります。距離や時代を考えると、直接、影響を与えた可能性は低いでしょうが、宗教の開祖に対して超人的なイメージを求めるのは普遍的なことであり、そのときに共通する奇跡などが現れるのも、偶然ではないでしょう。このような奇跡の物語は、宗教というよりもむしろ神話に近いもので、神話のモチーフに世界共通のものが現れるのも、めずらしくありません。救いを求める対象が身近なものか、超人的なものかは、明確に区別することは困難でしょう。むしろ、「聖なるもの」が身近のものとして顕現しているか、あるいは、われわれの認識を超えるような存在として、身近のものとして表されるのを拒絶しているかという問題になると思います。そのときに、それをいかにして表現するかで、文化のあり方の違いが現れるのでしょう。
ナーランダー遺跡などの寺院では、僧たちの食事をどうしていたんですか。15,000人も托鉢で稼ぐとしたら、付近の住民たちはきびしすぎませんか。
宗教が社会とどのような関係を有していたかについては、授業ではあまりふれることができませんが、重要な視点です。たしかに、これだけ膨大な人数の人々が生活していくためには、それなりの組織や体制が必要です。食事については、ご指摘のとおり、托鉢ではとても不可能です。この時代の僧院は、固有の土地(日本で言えば荘園)を有していて、そこから定期的に食糧が供給されていたようです。また、すでに貨幣経済が発達していたので、このような土地から得られる農産物は、市場に出され、貨幣として僧院内で蓄えられていました。僧院内では、このような経済行為を担当する専門の僧侶たちもいたようです。少人数の僧侶が托鉢だけで、つつましやかに生きていた時代ではなかったのです。
先生の説明では、三道宝階降下で降りてきたのは、シャカと梵天と帝釈天とおっしゃっていましたが、プリントではブラフマーとインドラと書いてありました。それはそれぞれ同じものなのかと思いました。正直、涅槃というものがわかりません。シャカが死んだことですか。
梵天と帝釈天は、もとのインドの言葉(サンスクリット)でブラフマーとインドラといいます。帝釈天はシャクラという名称も持っています。いずれも、ヴェーダの時代、つまり仏教が生まれるよりもはるか前から信仰されてきたインドの代表的な神々です。仏教はこれら二人の神に、シャカの伝記などでさまざまな役割を与えました。三道宝階降下もそのひとつです。これらの神々は「仏教に取り入れられた」という説明がよくありますが、むしろ、仏教徒もそれ以外の人々も、おなじ信仰基盤を有していたと見るべきでしょう。涅槃はサンスクリットでニルヴァーナといい、「完全に炎が消えた状態」を指す言葉です(ただし、専門の研究者によれば、それは解釈のひとつで、本来の意味はよくわからないそうですが)。シャカが生涯を終えたときに、完全な悟りの状態に入ったときのことを、このように呼びます。単なる死ではありません。
広隆寺とか中宮時とか、日本の弥勒菩薩(高校の歴史の授業の資料では、韓国のもそうだったが)は、半跏思惟像が有名であるのに、インドでは違う姿の像が資料には載っているが、インドには半跏思惟の弥勒はいないのだろうか。
意外に思われるでしょうが、弥勒が半跏思惟像で表されるのは、インドまではさかのぼることができず、中国が起源のようです。インドでもわずかに半跏思惟の菩薩像がガンダーラにあるのですが、それはシャカか観音を表しているようで、弥勒ではありません。パーラ時代の弥勒は、龍華という花を持ち、頭の中央に小さな仏塔を飾るという特徴がある以外は、それ以外の菩薩たちとほとんど姿は変わりません。それよりも少し前の弥勒は、龍華ではなく小さな水壺をもっていて、パーラの弥勒でもその特徴が見られる作品が少しあります。
孔雀にのった仏像、とてもきれいでした。前には獅子にのった仏像もありましたよね。どうして仏の乗る動物として、孔雀が選ばれたんでしょうか。孔雀は当時の人々の間で神聖な動物だったのですかね。
インドの神さまの多くは動物にのります。シヴァは雄牛、ヴィシュヌはガルダという想像上の鳥、ブラフマーはガチョウ、インドラは象といった具合です。仏教もそれにならって、仏たちの座として動物を登場させることがありますが、孔雀明王の場合は、もう少し別の理由からです。孔雀というのはインドでは蛇を食べる鳥ということで、毒蛇除けの霊鳥のイメージがあります。そのため、毒蛇に噛まれたときに唱える呪文として、孔雀に関するものが広く用いられました(コブラに噛まれたら、唱えても無駄でしょうが)。このような呪文は仏教では「陀羅尼」(だらに)と呼ばれるのですが、単なる呪文ではなく、しばしば神格化されます。そして、陀羅尼が女性名詞なので、とくに女性の仏として信仰されました。孔雀明王もこのような陀羅尼の女尊のひとりです。孔雀明王が孔雀にのるのは、それが単なる乗り物なのではなく、この仏の本質が孔雀だからです。
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