宗教学B:密教美術の世界

第4回 インド仏教美術の流れ(承前)

釈迦は悟りを開いて仏となり、人々にあがめられたんですよね?でも生まれてすぐ7歩、歩くというと、普通でないですよね??ということは釈迦はもともと人でなかった???でも普通の人から生まれてて・・・???ということで、赤ん坊のころからの説話図があるのは、釈迦はすでに人ではないのだと思いこませようとしてたんですか。
釈迦を人ととらえるか、あるいは超人的な存在としてとらえるかは、仏教の歴史の中での重要な問題となります。一般に、後世になるほど、釈迦をわれわれ普通の人間とは異なる一種のスーパーマンとして描くことが多くなり、神話的な要素が増えていきます。しかし、逆に、そのような神話的な要素を取り除いていけば、普通の人間としての釈迦、あるいは「本当の釈迦」に出会えるかといえば、それほど簡単ではありません。どこからどこまでが歴史的な事実で、どこが伝説であるかを見極めることは、とてもむずかしいからです。釈迦と同じ時代の人々が、われわれと同じような合理的な考え方を持っていたと思いこむことも危険です。彼らにとって、仏典に説かれているような超自然的なできごとは、むしろ当然だったかもしれません。この授業では、神話的な釈迦が現れること自体よりも、そのような釈迦を生み出した人々に関心を向けたいと思います。

釈迦が誕生する前の占夢で、釈迦が出家した場合は、悟りを開いて、仏陀になるという結果が出たと言うけど、釈迦が生まれる前から、仏陀という概念は存在したのでしょうか。また、7という数字が太陽神に関係しているということで、気になったのですが、人が死んだ後の初七日や、四十九日というのも関係ありますか。
「仏陀」(Buddha)というのは固有名詞ではなく、「悟った人」「目覚めた人」という普通名詞です。インドでは宗教的な悟りを求めることが、仏教以外でも一般的です。そのような境地に達した人であれば、仏教以外でも「仏陀」となります。しかし、ヒンドゥー教などの仏教以外の宗教では「仏陀」という用語はほとんど使われませんね。仏教と同時代に現れ、いろいろな点で仏教と共通点の多いジャイナ教も、開祖やそれに類するものに対しては「ジナ」(勝者)という語を用い、仏陀とはいいません。仏陀という語が仏教の文献で用いられているのは、一般名詞の「仏陀」よりも、釈迦以前にもすでに仏陀が存在したという「過去仏信仰」を意識したもののようです。7のもつシンボリズムはいろいろなところで認められます。教科書の第二章でも取り上げていますが、一般的には「全体性」や「完全性」に結びつきやすい数字のようです。人が死んでからの四十九日というのは、輪廻の中で次の生まれ変わりに要する日数です。そのあいだは「中陰」とか「中有」といって、次の生まれ変わりが決定しない宙ぶらりんの存在です。四十九日をすぎれば、次の生まれ変わり、人であれば母親の胎内にはいることになります。これに要する日数が七日?七週間というのも、七という数の持つ特別な意味に関わるのでしょう。

・ヤクシャは一人でなく、たくさんいるものなんだろうか?口から吐き出しは花のロープは、何かに使うために出しているのか、それとも悪いものとして入ったのを出しているのだろうか。王と釈迦の関係性がおもしろかった。アポロンの話とか、たしかに太陽と車輪にはつながりがあって、さらに釈迦ともつながっていて、スケールが大きいなぁと思った。
・イーをするヤクシャがすごくかわいいです。ヤクシャは子どもなんですか?この像は造られた当時はどのような用途に使われていたのでしょうか。見た目から拝める対象というより、招き猫や狛犬のように、お守り的な使われ方をしたんじゃないかと勝手に想像したのですが・・・。一方、口から花綱を吐き出すヤクシャは、ほんとにすごくグロテスクです。同じヤクシャだとは思えません。「ヤクシャ」とはどのような性格に捉えられていたんでしょうか。
ヤクシャはインドで広く見られる民間信仰の神です。樹木や蓮などの植物、さらに水などと関係があり、豊穣多産をつかさどるのが一般的です。地域や時代によって、その表現方法は様々です。子どもの姿、成人の男性、こびとなどが、仏教の作品では現れます。ヤクシャの女性形である「ヤクシー」というのもいます。「イーをするヤクシャ」の用途はよくわかりません(ちなみに、この作品の高さは43センチ・メートルです)。お守りのような働きがあったかもしれませんが、そもそもヤクシャ全般が、そのようなことを祈願するために作られています。ヤクシャが口から吐き出している花綱は、ヤクシャの持つ豊穣多産を表すためのモチーフです。太い蔓草のような植物の茎が何本も絡まって、それに花がたくさんついています。旺盛な繁殖力を表すのでしょう。これを吐き出しているのは、何かに使うためでも、嘔吐しているのでもなく、ヤクシャそのものがこれを生み出していることを表しています(多産ですから)。グロテスクに見えますが、このようなモチーフは、ルネッサンスの有名な絵画、ボッティチェルリの「プリマヴェーラ」(春)にも見られます。花の女神フローラが、やはり口からぽろぽろと花をこぼれさせています。太陽と車輪以外にも、シンボルやイメージの広がりは、このような例にも見られます。

釈迦が生まれたときや、ほこらにお参りに行ったときの様子を描いた図などがあったが、物語を見ているようでおもしろかった。私の通っていた幼稚園は、仏教系のところだったので、花祭りの時に、釈迦の小さい像に甘茶をかける行事があった。講義とはあまり関係ないが、どうして甘茶をかけるのでしょうか。
釈迦の仏伝図は、当時の人々にとっても、その内容を知ることは楽しみだったでしょう。これらの絵を説明するような専門の僧侶もいたかもしれません。このような作品は、単に鑑賞や礼拝だけが目的ではなく、民衆の教化や啓蒙にも役立てられたと考えられます。花祭りで甘茶をかける風習は、釈迦が誕生した後で、龍王から灌水を受けたことに由来します。一種の産湯です。花祭りの形式としては、釈迦が兜率天から降下するときにとった姿の象にちなんで、大きな張り子の白象を作り、それに釈迦像を乗せて曳いて回るというものもあります。これは中央アジアなどで行われていたようで、玄奘も『大唐西域記』の中で記録しています。

仏像よりも、仏教の教えや考え方とかに興味があるんですけど、そういうことはあまりやらないんですか。
すみませんが、あまりやりません。この授業のねらいは、仏像などの目に見える資料を用いて、それを作り出した人々の文化や思想を知ることで、具体的にはインドの文化を知ってもらうことです。その中には仏教の思想や教義も出てくる予定ですが、むしろ、それよりも広い視野からの考察をしたいと思います。仏教の教えとしては、四諦八正道、十二支縁起、中道などの初期仏教の教えをはじめ、空、唯識、如来蔵、アビダルマなどいろいろあります。仏教の入門書などで勉強してみて下さい。必要であれば、文献も紹介します。

釈迦は自分の葬儀は転輪王のようにすればいいといったが、インドでは転輪王=仏陀と考えられていても、イメージとして、仏陀は悟りを開いたもので、王のような派手さはないと思う。それなのに転輪王のような葬儀をしてよかったのだろうか(転輪王のイメージは派手そうだが・・・)。
釈迦の葬儀はなかなか派手です。遺骨である舎利を分割して、仏塔を八基建立するというだけでも、相当な経費がかかったでしょう。釈迦が自分の葬儀について弟子たちに命じた内容には、僧侶は関与せず、世俗のものに任せよというものがあると、しばしば言われてきました。しかし、最近の研究では、これは特定の僧侶のみに向けて発せられたもので、しかも、葬儀全般ではなく、遺体の処置にかかわるなということを述べたにすぎず、葬儀やその後の遺骨を扱うことには、僧団も深く関わった可能性があるということです。僧侶が清貧だけで生きていたのではなく、世俗の人々や権力者たちと密接に関与していたことが、最近の研究で明らかになりつつあります。

すごく初歩的な質問なんですが、仏塔とは教会のようなものなんですか。それとも仏像がある、あるいは仏が住む建物なのでしょうか。
建造物ですが、中に入るような構造ではなく、大きな半球形をした土の山です。表面にはレンガなどが積み上げられています。仏像が回りに安置されることもありますが、そうではないものもあります。むしろ、中に釈迦の遺骨である舎利が安置されていることが重要です。仏塔の構造とそのシンボリズムについては、もう少し先の授業で詳しく取り上げます。

先生の解説(?)を聞くと、なるほどと思うのですが、研究者の人たちは何を手掛かりにして図の解釈をしていくのですか。
授業で扱うような仏教美術の場合、解釈の根拠となるものとして、当時の人々が残した文献があります。具体的には経典や文学作品です。しかし、文献にはさまざま情報が含まれていますが、それがすべてイメージ化されているわけではありません。たとえば、ガンダーラの美術に見られるように、ヘレニズム的な要素が作品に現れる場合、図像の伝統も重要になります。文献や他の作例をもとに図像の解釈をする学問をイコノロジーといいます。その方法と魅力については、文学部で作っている「人文科学の発想とスキル」というテキストに書いたものがあります。「テキストを読む・図像を読む」というタイトルで、ホームページでも公開していますので、参照して下さい。

仏の三十二相の主だったところは、中学校の美術の時間に、美術史の一環としてならった。三十二相をすべてピックアップすると、頭が盛り上がっていたり、手が長かったり、人間離れした部分がたくさんある。釈迦=ゴータマ・シッダールタという人は、実際にこの世に生まれ落ちて死んでいった人間であることには違いないはずなのに、脇からひょっこり出てきたとか、しゃべったとか、現代科学では考えられない逸話がたくさんある。仏教の世界はどこからがフィクションで、どこまでがノンフィクションなのか、あいまいもことしていてとても興味深い。お腹がたぷたぷしてるとか、足の裏がどうとか、誰が見たのか?誰が言い出したのか?誰が決めたのか?誰かの想像の世界がどうしてこんなに広まっているのか?信仰の世界って不思議。
仏の三十二相の講義がある美術というのは、なかなかマニアックでいいですね。教育学部や芸術系の大学では、美術史の授業もあるので、その中で先生もお聞きになったのでしょう。宗教や信仰の世界は、たしかに不思議でおもしろいです。宗教と科学は正反対のように一般には思われていますが、実際には両者はもっと近い存在でしょう。われわれが科学的、合理的ととらえているものも、じつは、現代人にとっての信仰のようなものではないかと思います。

陰蔵相の象王、馬王のような陰相とは何なのか疑問に思った。
時間が余りなかったので省略しましたが、これもなかなかユニークな身体的特徴で、仏の男性器は馬や象のそれのように巨大で、しかもふだんは体のなかに隠れていて目立たないというものです。本当でしょうかね?ちなみに、仏は男性です。

手足鬘網層相をこの目で確かめたくなり、テキストをひっくり返しましたが見つかりません。水掻きがはっきり見える仏像の写真はありませんか。誕生の場面に釈迦がいない仏伝図に驚きました。摩耶夫人がセクシーポーズに見えなくもありません。脇の下から顔が出てるより見た目はキレイですが。
手足鬘網相は、他の特徴とあわせて下に図版を出しておきます。水掻きは日本の仏像でも一般的ですが、これをつけることによって、彫刻の指が折れにくくなるという利点もあります。摩耶夫人のセクシーポーズは、インドでも人気があったようで、第一章で扱った八相図でも、必ず含まれます。他の七つのシーンは釈迦が主人公ですが、誕生の場面では、釈迦が現れないこともあります。釈迦と同様、母親の摩耶夫人も神格化が進み、三道宝階降下の物語や、釈迦の涅槃の場面に駆けつける(降臨する)というエピソードも生まれます。仏教における重要な女神なのです。キリスト教におけるマリアの存在に似ています。


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