密教美術の世界

7月1日の授業への質問・感想

卵、原始の海・・・母胎をイメージしてしまいます。仏塔は羊水に浮かぶ胎児のようなものなのかと。原始の海に漂うアメーバ、生命の始まり、現在ではもっとも有力な説として考えられる生命は海(水)からという発想は、昔から誰もが思うのでしょうか。梵(brahman)はヒンドゥー教の創造神ブラフマン、維持神ヴィシュヌ、破壊神シヴァのブラフマンと同じでしょうか。
仏塔を卵、そのまわりを海と説明したのは、まさに生命の誕生や原始の海をイメージしたものです。母胎ということばは出しませんでしたが、それも同様です。生命は生命からのみ生み出されることを、われわれは知識としては知っていますが、これは見方を変えれば、生命は連続するものであり、過去にむかって、どこまでもさかのぼることができるということです。生命と物質の境界がどこにあるのかはわかりませんが、生命の起源をさかのぼっていけば、最終的には宇宙の創造にまでたどり着くのでしょう。先回お話しするつもりで忘れましたが、「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物学の常識も似ています。われわれが受精卵から羊水の中で成長し、誕生する過程は、生物が水の中から陸上に、さらにほ乳類へと進化する過程と同じ(あるいは似ている)というものです。このようなことを、古代や中世の人々は直感的にわかっていたのかもしれません。われわれ現代人は生命に関する科学的な知識は豊富になりましたが、生命そのもののもつ不思議さや神秘性に対する畏怖の念を失ってしまったようです。たとえば、一粒の種から巨大な樹木ができることなど、考えてみればとても不思議なことだと思いませんか?生命の発生や成長は、遺伝子レベルですべてプログラムされているのでしょうが、そのプログラム自体、驚くべきことです。なお、最後の文章にあるインドの神についてはそのとおりで、ウパニシャッド哲学で宇宙の根本原理を指すことばとして用いられた「ブラフマン」が、ヒンドゥー教では神の名前になります。ブラフマン、ヴィシュヌ、シヴァの機能もよく知られていますが、これはヒンドゥー教の哲学的なベルでの説明で、しかも、必ずしもすべてのヒンドゥー教の宗派に共通する理解ではありません。信仰のレベルでは、3人の神のうち、シヴァとヴィシュヌはそれぞれを最高神となります。どちらを最高神とするかでシヴァ派とヴィシュヌ派に分かれます。

私は実際にマンダラを見たことがないので、今日一辺が4メートルもあるものがあると聞いてびっくりしました。高校の時から不思議に思っていたのですが、胎蔵界や金剛界って何ですか。
空海が中国から持ち帰ったマンダラも、ほぼこれと同じ巨大なものです。しかも、極彩色で描かれていましたから、はじめてこれを見た日本人もさぞかしびっくりしたと思います。この空海が持ち帰ったマンダラ(請来本<しょうらいほん>といいます)は、空海の在世中にすでに色が落ちたり、切れ切れになったことが伝えられ、現存しません。ここから写したマンダラが京都の神護寺に伝えられていて、現在でも京都国立博物館に保管されています(国宝の高雄曼荼羅)。その後、請来本やこの高雄曼荼羅をもとにして描かれたマンダラが、歴史的にいくつもあります。授業で紹介した血曼荼羅もそのひとつで、請来本の正統的な流れを受け継いでいると言われています。胎蔵界や金剛界はマンダラの種類で、とくに日本仏教ではこの二つを重視しました。しかし、密教やマンダラの歴史から見れば、胎蔵界は『大日経』、金剛界は『金剛頂経』という別々の経典にもとづき、その構成原理などもかなり異なります。また、インドではこれ以外にも数多くのマンダラが現れ、この2種はむしろ、初歩的な段階に属すると考えられました。そもそも、マンダラというのはひとつで「仏の世界」をすべて表しているのですから、それを二つ組み合わせるという考え方も正統的ではありません。同じマンダラであっても日本とインドやチベットとでは、扱いも位置づけもずいぶん異なるのです。なお、金剛界と胎蔵界については、教科書のコラムも参照して下さい。

ストゥーパを上から見た図で、大日如来が東の「ほこら」におかれていたのは、東に何か意味があるのですか。
ネパールのスヴァヤンブーナートのストゥーパのことだと思いますが、明確な理由はわかりません。インドや日本では類例がありませんし、経典などの文献にも、このようなストゥーパは記述されていません。とりあえず、私は二つの理由を考えています。ひとつは大日と阿◎の関係です(◎はもんがまえに人を三つ書いた「しゅく」の字)。初期や中期の密教では大日如来が至上尊なので、マンダラの中尊になるのですが、後期密教(日本にはほとんど伝わっていません)になると、阿◎の方が重要な仏になり、大日と交代します。その結果、中央が阿◎、東が大日となります。ネパールの密教は中期から後期にかけてのマンダラが重視され、東には大日が来ることも阿◎が来ることもあり、いずれの仏も東と結びつきがあるのです。もう一つの理由は、儀礼に関するものです。マンダラを作ったあと、これを前にして灌頂という儀式を行いますが、灌頂で用いる水瓶は、それぞれの仏に対応しています。つまり、仏一人ずつにひとつの水瓶があるのですが、この水瓶をマンダラのまわりにおくときに、中尊に対応する水瓶は東の仏の水瓶の隣に置くという規定があります。これがこの場合も適用されたのではないかと考えています。

ボロブドゥールの遺跡にとても惹かれ、見に行きたいと思った。でも、立体マンダラのようなものと紹介されましたが、無色界、色界、欲界と説かれているあたりなど、マンダラとだいぶ配置が違う気がするのですが。それに同じところに阿弥陀如来や大日如来を何柱も置いていいのですか。
ボロブドゥールは私もかねてから訪れたいと思っていましたが、2年ほど前にようやく行くことができました。期待通りの巨大で壮麗な建築物でした。階段を昇り、一層ずつ見て回りましたが、途中で根負けするほど、たくさんの浮彫や装飾があります。ボロブドゥールが立体マンダラというのは、日本で好まれる説明ですが、ご指摘のとおり、密教のマンダラとはかなり異なります。三界をそのまま階層化していることから、仏教の宇宙観に関係するのはたしかですが、むしろ、マンダラも仏の世界=宇宙を表すということで両者を結びつけ、宇宙という共通点から、立体マンダラという説明が与えられたのでしょう。もちろん、インドネシアの仏教文献に立体マンダラという記述があるわけではありません。阿弥陀や大日が複数置かれている理由もよくわかっていませんが、配置にあたってはそれぞれの方角が意識されているようです。ボロブドゥールはインドネシアの古都ジョグジャカルタの郊外にありますが、やはりこの町の近くにあるプランバナン地区のロロ・ジョングランというヒンドゥー教寺院も見応えがあります。

マンダラは「仏の世界の縮図であり、悟りの境地を表している」というのは違うとおっしゃっていましたが、私は今までそのように思っていました。今まで思っていたことが全然違っていたと知り、少しショックでしたが、間違っているとわかり、よかったです。
間違いとは言っていません。「仏の世界」にしろ、「悟りの境地」にしろ、マンダラの説明としては正しいのですが、いずれも実際に見たことのないわれわれは、マンダラとはそういうものであるということを確認する方法を持たないということです。先回も強調したように、われわれが見ることができないものを「どのように表現しているのか」ということの方が、むしろ「マンダラとは何であるか」という問いへの答えになるのです。学問とはこのような根本的な問いを発することからはじまります。偉い先生の書いた本にある「マンダラは仏の世界云々」という説明をそのまま受け売りにしても、何も新しいことは発見されません。

日本の曼荼羅はほとんどが四角で囲まれている感じがするけど、インドやチベットのものは、円の中に囲まれた四角で、仏たちを並べただけの日本のものより、装飾性があるなと思う。
日本の曼荼羅が四角で、インドやチベットのものが円に内接する四角というのはそのとおりです。これらは、四角い部分が共通で、仏たちの住む楼閣を表しています。インドやチベットのマンダラで、これを囲む円の部分は、宇宙全体の蓮(華厳経の世界観を思い出して下さい)や、結界の役割を果たす金剛杵、火炎を表します。これらは本来、マンダラの一部とは考えられていなかったようですが、インドやチベットではマンダラを描くときに必ず加えなければならないものになりました。

日本の五重塔などの塔は、飛鳥寺式、四天王寺式、法隆寺式の順に見られるように、年代を経るにしたがって、寺院の中心から外へはずれて建てられるようになった。この配置の変化には、何か意味があるのだろうか。いろいろなマンダラがあるが、その作者が何を理解して描いていたのか、興味がある。今でも新たな構造のマンダラは作例されているのだろうか。マンダラを平面図にのみ示すのではなく、立体的に示せば、もっとわかりやすくなると思う。
日本の伽藍配置は専門的に詳しい研究がありますので、ここでは立ち入りませんが、一般に仏教寺院がいかなるもので構成されているかを紹介しておきます。インドでは本来、仏教寺院に相当するものは、出家した僧侶が集団生活を送る僧院が基本です。しかし、それと平行して、釈迦の遺骨をまつる仏塔があり、しばしば、両者は隣接して建てられます。僧の生活空間と、仏塔という礼拝空間が存在したわけです。マンダラがもつような宇宙論的な構造は、このうち、礼拝空間と共通しますが、それはヒンドゥー教の寺院などでも同様で、寺院は「神の家」とみなされます。日本の寺院も同様に生活空間と礼礼拝空間をそなえていますが、儀式や法会を執り行う金堂や講堂なども加わり、さらに複雑化します。ひとつの建物の中に、礼拝空間と儀礼の空間が組み合わされた仏道などと呼ばれる建造物が、寺院の中心になる場合も多いです。大規模な寺院の場合、山門、鐘楼、食堂(じきどう)など、さらにさまざまな建造物も加わり、複合施設の様相を示します。一口に寺院といっても、その中には多様な要素があるのです。マンダラについては、インドの密教の歴史の中に現れた数多くの経典が、それぞれ独自のマンダラをしばしば説いています。経典といっても、おそらく何らかの作者がいるはずですが、その意図やマンダラの理解は、経典の中の記述からいろいろ想定できます。密教の経典というのは歴史的な産物ですから、現在では新しいマンダラが生み出されることは、少なくとも密教という枠組みの中ではあり得ません(芸術家がマンダラ的な絵を描くというのは別です)。マンダラが本来立体的な構造を持っているのは、これからの授業でも説明することで、もちろん正しいのですが、だからといって、立体的に表した方がわかりやすいとは言えません。むしろ、設計図のようなものとみなせば、立体的な模型よりも、このような図の方がわかりやすいのです。マンダラは一種の「家」ですが、われわれが家の構造を知る場合も、設計図や間取り図をおもに見ます。立体的な模型を作ることもありますが、壁や屋根にさえぎられて、中が見えず、かえってわかりにくいことになります。それならば、屋根や壁を取り外せばいいと思いますが、実はそのような発想で描かれているのがマンダラなのです(これについても今回説明します)。

高野山には数度行ったことがあり、オレンジ色の建物を見たことがあるが、当時は何の知識もなかったので、ただの建物だったが、授業の中のスライドで見ると、それなりにすごいものに見えた。同じものを見るのでも、そのときの状況によって、これほど違うものかと、少し不思議に思った。
ぜひ、あらためて高野山にも行ってみて下さい(世界遺産にも登録されました)。同じものなのに、知識が増えることで、まったく別のものに見えるというのは、この授業のもっとも重要な「ねらい」のようなものなので、実際にそのように感じてくれるのはうれしいです。授業では同じスライドをたびたび見ることがありますが、これは手抜きではなく、同じものであっても、あとになればなるほど、理解が深まったことを実感できるからです。絵や彫刻のようなイメージを理解するということは、単に目に見えるということではないと、実際に体験していただきたいと思います。

日本の曼荼羅は全体的に赤いものが多いのに、チベットなどのマンダラはカラフルだと思いました。あと曼荼羅はどれも全体的に円を描いていますが、描くときになにかきまりのようなものがあったんですか。
マンダラの描き方については今回、少し詳しく紹介しますが、それも含めて私の著書『マンダラの密教儀礼』が参考になります。マンダラを描くのは描く人の気分や美意識によるのではなく、経典や儀軌(ぎき、説明書のこと)、注釈書などに、その方法がきわめて厳密に規定されています。マンダラの輪郭線は糸を使って直線や円を描くので、「墨打ち」とも呼ばれます。マンダラというのはすべて「きまり」にしたがって描かれ、そこには描く人の創造性などはまったく必要とされないのです。マンダラが単なる絵画ではなく、一種の設計図であることは、このような点からもわかります。

たまーに宇宙には限界があるのかなぁとか、あるとしたら、その外はどうなっているんだろうとか考えます。今日のバクテリアの話を聞いて、ますます不思議な感覚に陥ってしまいました。バクテリアにとっては、人体の外はまったく未知だし、それは私の疑問と同じことなのかと思うと、私たちが生活しているこの世界は、いったい何だろう・・・。回ってきたマンダラの冊子、ため息が出るばかりでした。すっごく細かく描いてあって見事の一言です。ちびまる子ちゃんの表紙とかは、マンダラを意識してるのかなぁ。
宇宙(世界)や自己というのは、哲学の根本的な問題のひとつで、古今東西の哲学者がさまざまな考察をしています。このような問題は、おそらくだれもが一度は疑問に思うことですが、たいていはそのまま日常的な思考に戻ってしまいます。この機会にぜひ、いろいろ本などを読んで考えてみて下さい。マンダラの本は授業でも紹介したように、展覧会の図録ですが、内容は充実しています。この展覧会は大阪の国立民族学博物館(民博)で行われ、先日まで、名古屋市立博物館でも開催されていました。民博ではこのような企画展が年に1、2回行われ、そのたびに図録が刊行されるのですが、このマンダラ展の図録は、過去にないほど、良い売れ行きだったそうです。あまり厚くなく、値段も手頃で、写真もきれいなところがよかったようです。「マンダラっていったい何だろう」と疑問に思い、それが何であるかを知りたいと思う人が、世の中にはたくさんいるということかもしれません。ちびまる子ちゃんの本はよくわかりませんが、マンダラにインスピレーションを得て絵を描く人はたくさんいます。インドのエスニックなデザインも、本の装丁を含めいろいろ目にします。


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