密教美術の世界
6月17日の授業への質問・感想
「小世界概念図」を見て思ったのだが、仏の世界のランクがやたらと多いことに驚いた。自分は何となく地獄のランクと仏の世界のランクの数は1:1くらいだと思っていたので。自分たちが生きている人間世界のランクを真ん中くらいにしないところがおもしろいというか、すごいと思った(普通は人間を世界の真ん中にするような気がするので)。
須弥山の上の多くの階層はまだ「仏の世界」ではなくて、天、つまり神々の領域です。天も六道輪廻の生まれ変わりのひとつで、寿命が尽きれば他の生まれ変わりとなって輪廻します。天、人、修羅、餓鬼、畜生、地獄という輪廻の領域は、三界すなわち欲界、色界、無色界ですが、三つ目の無色界はものが存在しない世界で、意識とそれが活動する空間があるのみです。ここは仏となるための修行をする者の、最終的な段階となります。仏の世界はこのような迷いの世界とは無縁で、それを超越します。そこはわれわれが存在するような空間や、われわれが生きる時間などとは異なる次元なのです。したがって、このような仏の世界はわれわれには認識することも、表現することもできないのですが、それをあえて目に見えるようにしたのがマンダラです(マンダラについては次回の授業で取り上げます)。なお、天も六道輪廻の中の生まれ変わりのひとつなので、人間よりもましな存在という程度なのですが、これは輪廻思想が定着し、神々を仏よりも低いレベルにおいた結果です。もともと古代インドで信奉されていた神々は、このような輪廻思想とは無関係でした。人間の世界が世界の中心にないということは、たしかですが、地獄にもかなり階層があり、しかも天と同じように、下に行くほど広がったり、時間がゆっくり流れています。世界の中心を須弥山とすると、水平方向にも、垂直方向にも、この山を中心としたイメージとなっています。
千とか万とかスケールが大きすぎると思いました。どれだけたくさん世界があるんだ・・・。でも、数の増え方が規則的で、とても数学的で、さすがインドだと思いました。須弥山はたくさんあるんですね。別の講義で「世界の中心」だといっていたので、ひとつだけかと思っていたんですが(でも世界がたくさんあるのだから当然か・・・)。
前回説明したような世界観が、インドで突然できあがったわけではなく、徐々に形成されました。初期の世界観はもっとプリミティヴなものですが、『倶舎論』という文献に説かれる世界観は、その一つの完成形態で、おそろしく精緻なものです。ご指摘のように、おそらく数にこだわるインド人ならではでしょう。古代の日本人がイメージする世界や宇宙とはまったく異なります。『倶舎論』の段階では須弥山はひとつだけで、それを中心に世界が構成されています。ですから別の講義のお話も正しいのです。しかし、『華厳経』や『法華経』などの大乗経典が登場すると、このような伝統的な世界観を極小にまで縮め、無数の世界を作り出しました。『華厳経』の蓮華蔵世界はその代表的なものです。世界がひとつか無数かというのは、仏教の歴史においても重要な意味を持つのです。
今日の講義はむずかしくて分かりにくかったです。小世界を千個集めたものが中世界になるということでしたが、小世界千個の集合体が中世界なのでしょうか。それとも小世界千個の上に中世界があるのでしょうか。
先回の授業のコメントには「よくわからない」というものがかなりありました。今回、もう一度、簡単に説明するつもりです。小世界から上の説明も不十分だったようで、中世界の大きさが小世界の千倍ということです。小世界の中でも、上に行くほど天と天との間は広くなっていくのですが、小世界を越えると、その広がり方が爆発的になるのです。これを私は「頭でっかちの宇宙」と呼んでいます。これは空間だけではなく、時間についても該当し、ひとつ上の天に行くたびに、時間はゆっくり流れるようになります。天に住む神々はこのゆっくりした時間の中で生き、さらに寿命も延びます。このように人間と神々とを異なるレベルにおく考え方は、仏教のオリジナルではなく、インドで古くから信じられていたことのようです。
仏教世界の広がりの大きさには驚いた。あと、以前習ったパンテオンの構造と、今回との結びつきがわからなかった。大仏=大日如来ですか。
パンテオンの中に登場する神々のうち、仏は上にも述べたように、本来はわれわれの世界から超越した存在です。菩薩はまだ仏になっていないので、この世界に属しますが、迷いの世界にいるわれわれを直接救うため、人間世界や場合によっては地獄も活動の場にします(後者は地蔵が有名です)。また、弥勒は兜率天に住んでいますし、釈迦も地上に降りる前には同じように兜率天にいたことになっています。天部の神々が天に住んでいることは、もうおわかりだと思います。また、修羅は六道のひとつになりますが、天部の神に含まれていました。なお、仏教世界観の説明は、パンテオンについての情報とともに、次のマンダラのための予備知識となります。大仏は正式名称が毘盧遮那仏でサンスクリットのヴァイローチャナから来ています。密教の大日如来も同じ名称、もしくは「大きい」を意味する「マハー」(摩訶)を付けて呼ばれ、明らかに同じ起源をもつ仏です。しかし、密教では伝統的な毘盧遮那よりも、大日如来の方が格が上とみなされています。
自己と世界について、昨年度とっていたインド思想史という授業でいろいろと考えさせられました。世界(周囲)から認められてはじめて自己(私)が存在し、また逆に自己が認識してはじめて世界が存在する。自己と世界は根底ではつながっている(梵我一如)という考えなど、とってもむずかしいけれど、仏教の思想、そこから広がる美術の世界など、奥が深いなぁと思いました。
インドの思想の基本にあるのが、ウパニシャッドという古代の哲学的な文献に説かれる「梵我一如」の思想です。おそらくこの言葉は高校の世界史などでも登場するので、知識としては知っている方も多いでしょう。しかし「宇宙と自己とは本来は同一であると古代のインド人は考えた」という説明を見ても、ほとんどの人は「へぇ、そうなの」というだけで終わってしまうのではないでしょうか。先回の授業ではじめに考えてもらったのは、世界(宇宙)と自己とが無関係に存在するのではなく、しかもその境界はきわめてあいまいであるということです。現代的な視点からすれば、環境問題でしばしば言われる「地球はひとつの生命体」という考え方ともつながります。地球に乗っている無数の命がひとつの集合体であるならば、地球を含む宇宙もひとつの生命と見てもいいわけです。インドでは何千年も前からこのような思想を発達させてきたところなのです。コメントにある「世界を認識する自己」という考え方も、たしかにインド哲学では重要です。その一方で、自己の存在のためには時間軸も考慮する必要があるでしょう。たとえば、昨日までの記憶がまったく存在しないとすれば、おそらく「私である」とは思えないでしょう。教養のインド思想史の授業は今年度も後期に開講される予定です。シラバスを見ると「世界と自己」の関係をじっくり講義されるようです。関心のある人はどうぞ受講してみて下さい。
今まで奈良の大仏を実際に見たことがなかったので、ハスの花のところにあのような絵が彫ってあったなんて知らなかった。それを知って、改めて大仏が素晴らしい建造物であるなぁと実感した。仏や釈迦といえば蓮というイメージがあり、実際に蓮が描かれていることが多いですが、どうして蓮の花なんだろうと思った。菊もよく仏教と関わりがあると思うのですが。
奈良の大仏の蓮弁は直接、間近で見ることができないので、ほとんどの観光客はその絵に気づかないのですが、授業でも紹介したように、レプリカが見られるところにおいてあり、簡単な説明が加えられています。機会があれば見て下さい。授業でもお見せした真上から撮った写真で見ると、大仏がすわっている蓮の種の部分もはっきりと表現されていているのがわかりますが、これも普通の観光客には見ることができないのが残念です。蓮がなぜ重要であるかは今回の授業で取り上げます。菊はたしかに日本の仏教では重要な花です。古くは飛鳥時代から装飾文様としてあったようですが、平安時代から鎌倉にかけて、蓮よりも好まれるようになります。美術史家の若桑みどり氏は、このような変化について「天地豊穣の象徴であった蓮は、力と権威のシンボルである菊に取って代わられた」と要約しています(『薔薇のイコノロジー』青土社)。
日本には東大寺の大仏など、大仏がいるけど、インドには大仏に相当するような大きな仏像はあるのですか。
インドには仏教の巨大仏はありません。ヒンドゥー教やジャイナ教の神の像でかなり巨大なものがありますが、これはほとんど近現代の制作です。大仏の思想的な根拠である法身仏という考え方は、インドで成立したものなので、大仏があってもいいのですが、巨大な像を造るという考え方は、あまり好まれなかったようです。一方、いわゆるシルクロードでは巨大な像が流行しました。数年前にタリバンによって破壊されて有名になったバーミヤンの大仏もその一つです。高さは奈良の大仏の3倍ほどあったようです。中国でも雲崗や龍門で大仏が作られています。日本の大仏はこの流れの最後に位置づけることができます。
お釈迦様がお経を読むとき、準備体操をすると知って驚いた。
準備体操というのは「たとえ」です。大乗仏教の経典の多くは、はじめの部分に仏の神変(じんぺん)が説かれます。授業で紹介した『法華経』もその一つです。神変とは宇宙的な規模で起こる奇跡なのですが、これから経典を説くという段階で、必ずこの神変が起こるのです。神変の内容は、まずはじめに仏が三昧に入ります。その結果、地震が起こって世界が柔軟(?)になり、さらに釈迦の白毫から光が発せられて、宇宙全体が照らし出され、すべての仏の世界を目の当たりにすることができるとか、釈迦の舌が宇宙全体を覆う(ちょっと気持ち悪い?)とかが起こります。これによって、世界が仏の説法を聞くためにふさわしい状態になると説かれています。具体的には、世界は「浄土」となり、そこに住む衆生(つまりわれわれ)は、悟りに到達することが確約されることになります。(日本の浄土教で説かれる他力の起源をここに求める研究者もいます。)このような出来事を神変と呼び、さらに仏によって法が説かれること自体も神変とみなされます。それほど大乗の経典に説かれている教えはすばらしいということになるわけです。「準備運動」といったのは、このような状態になることで、別に釈迦がストレッチをするとかいうことではありません。
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