密教美術の世界

授業への質問・感想

マンダラを見ると、子どもの綱引きの絵にたしかに似ていた。マンダラと子どもの絵の共通点は、多くのものを表現するために工夫した結果生じたものだとわかった。話は変わりますが、中国のマンダラを見たことがありませんが、実際に存在するのですか。
マンダラと子どもの絵との関係は、今回あらためて説明します。前回はとりあえず、われわれが描く絵というものが、これまでの教育などによって、いかに画一化されているかを感じてもらいました。別に子どもの絵ではなくても、アフリカの未開民族の絵とか、あるいはピカソなどのキュビズムの絵でも同じようなことが言えます(ピカソやキュビズムについては指摘してくれた方もいます)。中国のマンダラはほとんど現存しません。チベットの系のマンダラは北京や承徳などに、明代や清代のものがありますが、唐代の中国密教のものはきわめて少数です。その数少ない例が、平安時代に日本にもたらされています。高野山の「板彫曼荼羅」がそれです。マンダラに含まれる仏たちを描いた白描図も伝わっています。また、西安市の近くにある法門寺という寺院からは、マンダラをベースにした工芸品が最近発掘され、研究者の間で注目されています。9世紀末の密教図像が大量に発見されたからです。

今日は生命の誕生、概念の世界などと、いろいろなテーマにふれてたいへん興味深かった。子どもの絵の描き方を例にとった、知的発達とともに変化する絵の描き方ということは考えさせられることが多く、私たちがものを描くというときに以下に多くの制約を自分で課しているのかと、はっとさせられた。マンダラのような平面的な絵は、発展途上の描き方というわけではないということもわかった。また、描き方についての制約を取り払って有名なのが、ピカソなのだろうと思った。
回の授業はコスモロジーや仏塔の象徴性などと、マンダラ入門が詰め込まれたので、かなり盛りだくさんの内容になってしまいました。しかし、これらのテーマは実際には連続する部分も多くあります。マンダラの終わったところでまとめるつもりですが、どこが関連するか自分でも考えてみて下さい。さて、前のところにも書きましたが、ピカソをはじめキュビズムの画家が描いた絵は、対象を分解して、ふたたび接合しているという点で、マンダラの描き方とよく似ています。さらに、インドの仏教美術の流れを以前にたどったときに、異時同景図つまりひとつの画面に異なった時間帯の出来事が詰め込まれているという話をしましたが、マンダラに見られる複数の視点は、このような形式とも関係すると考えています。

子どもの絵の視点はかなり混沌としているような気がした。私たちはすでに固定観念に縛られているから、そう思ったんだと思う。無色界は表すことができないとおっしゃっていましたが、私たちには想像ができないので、イメージとしては混沌としているような感じに思えてしまうのですが、秩序だっているのでしょうか。
無色界は空間的な広がりがない世界なので、そもそも絵画のような平面に表すことができません。もちろん立体にもです。マンダラに表されているのは「仏の世界」なので、さらにそれよりもレベルは上の世界です。平面とか立体とか以前に、何らかの形で「再現」することさえも不可能なはずです。マンダラが「仏の世界」を表しているというのは、表すことができないのですから、本来矛盾しているのです。そのため、伝統的な仏教学では、「真の曼荼羅」というものは形に表すことができないが、「仮のマンダラ」として、絵画化されたというような説明をします。これは巧みな説明ですが、なぜ、われわれが見るような形でマンダラは表されたかについては説明していません。授業でも言ったように「マンダラは悟りの世界である」という定義は、誰にもそれを確認できないという意味で、それ以上の説明を拒否しています。授業ではこれに対し「表すことができないものを、どのように表しているのか」、そして「なぜわざわざ表そうとしたのか」という疑問を考えてみます。そのヒントが「子どもの絵」と「儀礼」です。

マンダラという言葉自体は、高校の日本史でやったけれど、それが何であるかということは全然知らなかった。まだはっきりとはわからないけど、子どもの描く立方体の絵を見て少し納得した
マンダラはサンスクリット(梵語)ですから、外来語なのですが、われわれの日常生活の中でもときどき目にします。テレビの番組に「なんとかマンダラ」というのが以前にありましたし、週刊誌の見出しなどにも「世相マンダラ」とか「人間マンダラ」というような使われ方をしています。最近、駅前の県立音楽堂で行われる邦楽の演奏会に「マンダラ」を含むものがありました。これらはおおむね「複雑なものが詰め込まれている」という様なニュアンスで用いられているようです。たしかにマンダラから受ける印象にそのようなものがあるのは否めません。しかし、複雑なものというのが「混沌」であるとすると、実際のマンダラはそれとは逆の「秩序」(授業で取り上げてきた宇宙論的な意味での)を体現するものですから、むしろ逆になってしまいます。高校の日本史に登場するマンダラは、おそらく平安初期に空海らによってもたらされたもので、挿絵として実際の作品も紹介されていたかもしれません。授業でもお見せしますが、これだけ見てもそれが何かは絶対にわからないでしょう。言い換えれば、マンダラを理解するためには、これまでの授業で取り上げてきたインドの仏教美術、仏たちの世界、宇宙観、仏塔などの知識が必要なのです。

軸=世界軸と先生が描いたんですけど、なぜ軸が必要なんでしょうか。それほど重要なんでしょうか。(世界をまとめるためのものとしてほしかったとか)
世界観やそのイメージは、こういうものを作ろうとして、アイディアを出し合ったできたものではなく、特定の民族や文化で共通するイメージが自然発生的に現れたと考えられます。その構造はさまざまですが、共通して「軸」のようなものが現れるということです。これは「世界は中心を持つ」ということもできます。同様に「なぜ中心があるのか」という質問も可能ですが、むしろ、中心を持たない世界というものを、人間が持つことがむずかしいと見るべきでしょう。世界地図を例にするといいかもしれません。日本で売っている世界地図は、当然、日本が中心で太平洋が画面の大半を占めています。しかし、欧米の地図では大西洋が真ん中あたりにあり、日本は全体の右端、つまり東の果てです(だから極東というのです)。「世界の中心には自分がいる」というのが、人間の持つ世界観の基本なのです。「私とは何か」を世界観の授業の中で取り上げたのはこのためです。軸という形態を持つのは、水平的な広がりを天と地、あるいはその中間の空という領域を、このような中心が貫くためです。

因中有果論の話がイメージできなくてわからなかった。もう一度説明してほしい。
時間的にむずかしいので、以前同じテーマで話して活字になっているものを資料として配付します。宿題とかではありませんが、一度読んでみて下さい。この数回の授業であつかった内容が、ところどころに出てきます。

金剛界曼荼羅は9つに分けられた部分はすべて同じ配置だと思っていたけど、違っていた。何となく中心の部屋に中心となる仏が1体描かれているイメージがあったけど、今日見た金剛界マンダラは、上の段の真ん中のところに大きな仏が描かれていたのも意外だった。金剛界マンダラ、胎蔵マンダラは名前を聞いたことはあるけど、何が違うのかまったくわからないので知りたいと思った。
日本の金剛界マンダラは9つの部部に分かれるので「九会曼荼羅」とも呼ばれます。このような形式のマンダラはインドやチベットにはありません。おそらく唐代の中国で成立したものです。9つの部分はいずれも、このマンダラが典拠とする経典(『金剛頂経』といいます)に基づいていますが、右上の「理趣会」のみは『理趣経』によります。マンダラの種類と詳しい内容は、授業では時間的にあつかえません。金剛界と胎蔵については教科書のコラム?と?を参照して下さい。現在、学部の授業で「アジアのマンダラ」という内容で、いろいろな地域のさまざまなマンダラを解説しています。

仏を内包する日本の仏塔には、インドのように宇宙を内包するというイメージはあるのですか。仏塔は日本のものはイメージ的に規模が小さくなってしまったように思います。
おそらくないと思います。日本人が「宇宙」や「世界」に対しほとんど関心を向けなかったのは、授業でも強調しているとおりです。日本の密教寺院の塔は、マンダラと結びつくことで独特の展開をします。日本のマンダラは金剛界と胎蔵界の2種類が圧倒的に重要で、しかもこの2種が一組のものとして扱われます(金胎不二とか両部不二といいます)。仏塔の中に仏像を配置するときも、この理念にもとづくことがしばしばあります。これはインドでは考えられなかったことです。

私は京都出身なので、久々に五重塔を見てなんかうれしかったです。いろんな形の仏塔があるんだって、なんか感心しました。でも場所によって、仏塔の形も全然違った。日本にある仏塔は典型的な感じで、それにインドのやつとかも違いすぎて、仏塔って感じないです。半球形の仏塔は卵のイメージっていうのは、よくわかるんですけど、何がどのように伝わって日本の仏塔の形になったんですか。金剛界マンダラみたいにマンダラにも顔が四つあったりするんですね。マンダラってどれを見ても引き込まれそうに、何か魅力を感じます。
東寺の五重塔は国内最大の五重塔で、京都の中でもよく目立ちます。新幹線に乗っていると、車窓からも見ることができますね。仏塔の歴史については詳しいことは私もよくわかりません。五重塔のような多層塔は、中国で誕生したようですが、日本に伝わるときには朝鮮半島を経由することもあります。日本の仏塔についての文献を少しあげておきます。
濱島正士 1992 『寺社建築の鑑賞基礎知識』至文堂。
濱島正士 2001 『日本仏塔集成』中央公論美術出版。
ネパールやチベットの仏塔に目があるのは、新聞のコラムでも書いたように、仏塔全体を仏とみなしているからですが、たんに仏の姿をまねしているというだけではなく、密教では仏が宇宙として顕現し、仏塔がそれを象徴しているという背景があるからです。マンダラが求心的であるのはそのとおりで、中心に引き込まれるというのは、マンダラの持つ機能からも理由があります(今回取り上げます)。

名古屋の覚王山の「日泰寺」に、本物といわれる仏舎利をおさめた塔があるのですが、本当に本物なのでしょうか。
本物といわれています。しかし、仏舎利塔(つまり仏塔のことです)の下に埋められているので見ることも、取り出すこともできません。この舎利は第2次大戦後、タイから寄贈されたものです。仏教徒にとって舎利つまり釈迦の骨が貴重なものであるのはたしかですが、単に教祖の遺骨という以上に舎利は歴史的に重要です。仏塔の誕生も舎利の埋葬に由来しますし、マウリヤ朝のアショーカ王は、これを掘り出して、あらためて八万四千の仏塔を新たに建立したといわれます。大東西域記で有名な玄奘は、インドのあちこちで舎利をまつっていることを報告しています。スリランカや中国にも伝わり、とくに中国では舎利信仰と皇帝崇拝が結びつきます。日本の鎮護国家の仏教もこの流れを汲んでいます。舎利の歴史はそのまま仏教の歴史ということもできます。どうでもいいことですが、日泰寺の参道には「えいこくや」というインドカレー屋があります。

後で他国のマンダラが見つかったということは、マンダラを日本特有のものだとそれまで考えていたのですか。
チベットにもマンダラが残っていることは、かなり古くからわかっていました。イタリアの東洋学者のG. トゥッチなどは、戦前からチベット、中央アジア、ネパールを探検し、多くのマンダラを報告しています。しかし、それが日本のマンダラと同じ種類のものであるとか、比較研究をするということはほとんどありませんでした。とくに日本で密教やマンダラを研究していた人々が関心を向けることは皆無でした。この分野の国際化はごく近年のことなのです。

ウダヤギリの仏塔の北方に大日如来が配置されていることが不思議です。
胎蔵界の西方にも阿弥陀如来が坐していますが、西方だけ金剛界と共通しているのはなぜですか。共通があるなら各方位の如来はそれぞれにまた相違点ははっきりしているのですか。
東寺五重塔と金三(森注・高野山の金剛三昧院のこと)の多宝塔の内部ははじめて見ました。ふだんは見られないので貴重な写真だと思います。
ウダヤギリの胎蔵大日はたしかに謎です。本来は不空成就が来るべきところなのですから。種智院の頼富先生は、金剛界系の五仏に胎蔵大日が混在していることで、金胎不二の萌芽があるという解釈を示しておられます(頼富本宏 1992 「インド現存の金胎融合要素」『密教学研究』 24: 11-30)。
阿弥陀が金剛界でも胎蔵でも西にいるのは、それだけ西の仏国土とこの仏の結びつきが強かったからでしょう。胎蔵系の四仏の構成は、金光明経などと共通しますが、インドでは金剛界系の四仏に押されて、大日経以降はほとんど登場しません。日本では両者は同体とみなしますが、インドではおそらくそのような解釈はなかったでしょう。東寺の五重塔は毎年正月に公開されます。以前に特別展があったときにも公開されていて、私はそのときに拝観しました。内部の五仏はたしか室町期ですが、いいものです。金三は一般には公開されていませんが、特別に依頼すると見せてくれることがあります。団体の泊まり客があるときなどもです。こちらは鎌倉初期で、私は2回拝観したことがありますが、そのすばらしさには目を見はります。内部の写真は霊宝館の図録などにときどき掲載されています。

黒板に書いてあったヴァジュラというのは何なのですか。
本来、ヴェーダの代表的な神であるインドラ(帝釈天)の持ち物で、敵を攻撃する武器です。インドラは雨をもたらす雷の神が起源とも考えられており、その武器であるヴァジュラは稲光をかたどったとも言われています。造型表現としては、以前に授業で紹介したガンダーラの金剛手がしばしば持っていますが、そこではウサギの餅つきのときの「きね」のような形をしています。密教の時代には金剛手や忿怒尊の持物として広く見られるほか、仏具となり、僧侶が手にするようになります


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