密教美術の世界

授業への質問・感想

仏の世界のスケールの広さが予想以上のものでおどろきました。無限に大きくなるだけではなく、ハスの花の種の中にも無数の世界が広がっているという限りなく小さな世界にも目を向けていたインド人の世界観には感じさせられます。説明を聞いているうちに、仏の世界は数の単位のような印象を受けました。本で10の52乗は恒河沙で、10の56乗は阿僧祇というふうに続いているのを読んだことがありますが、これらは仏教用語ですよね。
仏教の世界観を2回にわたって取り上げましたが、「むずかしかった」「圧倒された」「想像もできない」などの感想が多かったようです。たしかにわれわれの感覚では理解できないようなスケールと原理を持っていますが、細かいことはさておき、インドの仏教徒が「世界」というものを構造的にとらえていること、その構造は中心を持ち階層的であること、上に行くほど規模が大きくなること(それも爆発的に)、空間と時間が密接な関係を持っていることなどのポイントを押さえてもらえればと思います。このような世界はいかに広大であっても、あくまでも「迷いの世界」であって、仏の「悟りの世界」ではないのですが、仏がわれわれの前に姿を表し、法を説くことによって救済する舞台が、このような世界なのです。現実離れした話のように思うかもしれませんが、仏の偉大さを表すためにも、このような広大無辺な世界が必要なのです。数の単位はそのとおりで、千、万、億、兆などと続いていくと、恒河沙(ごうがしゃ)も阿僧祇(あそうぎ)も出てきます。単位として一番大きいのは「無量大数」で、その前は「不可思議」です。ちなみに恒河沙はガンジス川の砂の数という意味です。大乗仏教の経典にはこのような無限大に近い数が、よく現れます。宇宙にいる仏の数や、その仏が活動する「小宇宙」(仏国土)の数をしばしば表します。

ストゥーパは水に浮いている半球状のものというイメージなら、亀ではないでしょうか。インドでは世界を亀と蛇で表すって話を聞いたことがあるようなないような。もしくは坊主のハゲ頭ですか。
ストゥーパが何に見えるかという質問には、正解があるわけではありません。次の説明との関連では、卵というイメージを持ってもらえると、こちらとしては都合がいいというぐらいです。たしかに亀はインドの世界観で重要な役割を果たします。とくに、ヒンドゥー教の神話で「乳海攪拌」という創世神話があり、そこではヴィシュヌが亀となって活躍します。蛇も現れます。坊主のハゲ頭という答えも、なかなかユニークでいいのですが・・・。

なぜ仏塔はそのままの形式で日本へは伝わってこなかったのでしょうか。
日本の五重塔などの形式はインドまではさかのぼれません。中国の塔形式の建築の影響を受けたものです。このほか、多宝塔という形式の塔も日本の密教寺院にありますが、これは少しインドのストゥーパに似ているところがあります。ただ、いずれの塔ももっとも高いところに、尖塔状の飾りが付いていますが、これはインドの仏塔にも共通します。今回のスライドで確認して下さい。

水というエレメントは考えてみると奥が深い。生命の根源でもある水を仏教の世界観で見ると、さらなる広がりを見せると感じた。
水ほどわれわれの身近にあって重要な物質は他にはないでしょう。空気ももちろん重要ですが、手に取ったり、加工することは、普通ではできません。水が生命の源であることも、常識的に知っているでしょうが、古代インドでは、それを具体的なもの(たとえばハスや水瓶などのシンボル)によって表しました。仏塔のまわりにあふれているのはこのようなシンボルです。宇宙そのものをひとつの生命体としてとらえた場合にも、この水が重要な役割を果たすことを、仏塔を中心に今回取り上げます。

仏教の空間や時間はあまりにも無限で気が遠くなりそうです。インドで日々の生活に追われていた庶民のあいだで、仏教がすたれていったのも少しわかる気がします。どうでもいいことなんですけど、マカラはいつでも尻尾を巻いているんですか。
仏教に限らず、宗教がどれだけ複雑で高尚な哲学や思想を作り出しても、それが一般の人々にとって何の意味もないということはよくあります。キリスト教の神学にしても、普通の信者にはどうでもいいことですし、日本でもお寺や法事で聞く説教に、むずかしい話が出ればいやがられます。一般の人々にとって、宗教とは心の支えや癒し、あるいは生活の指針になればそれでいいのです。しかし、宗教がこのような思弁や論理を発達させたことが、近代的な科学の誕生にもつながりました(それがいいか悪いかは別にして)。宗教学という分野でも、哲学思想を扱う研究者もいれば、民衆のあいだでどのような役割を果たしているかに関心がある人もいます。マカラの尻尾は、これまであまり気にしていませんでした。蛇やナーガの表現でも同様かもしれません。他の作例でもチェックしてみて下さい。

ハスの記事を読んで疑問に思ったんですが、「他の生き物を補食する」ものが極楽にいることはおかしいということは、極楽にいる人(?)は何も食べないんですか。
何も食べないんです。食べるというのは食欲という煩悩のなせるわざです。何といっても、極楽は仏の世界なのですから、煩悩があっては困るのです。極楽の情景は『阿弥陀経』のような浄土系の経典に、こと細かく描写されています。当時の人々が理想としていた世界、つまりユートピアなのでしょう。実際に読んでみることをおすすめしますが、楽しいこととか素敵な場所ということについての人間の想像力というのは、いじましいほど貧困です。木が宝石でできていて、風が吹くと心地よい音がするといった程度です。よく言われることですが、極楽浄土なんて三日も住めば飽きてしまうでしょう。それに対して、反対の地獄の世界は、多種多様の苦しみが課せられる世界ですから、人間の持つ本性のようなものがよく現れています。「苦しみ」というより、どのように苦しめるかという視点なのでしょう。このような地獄の光景は、画家の創作意欲もかきたて、多くの地獄絵を生み出しました。

口から花綱を出すヤクシャを見て、いつも思うのですが、この作品のストーリーはどのようなものなのですか。また、ヤクシャは何人もいるものなのですか。
ヤクシャとはある種の神的存在を指す普通名詞で、特定のものではありません。漢訳では「夜叉」と訳されます。仏塔の装飾にはさまざまなヤクシャが現れますが、ほとんどは装飾モチーフであって、特定のストーリーとは結びついていません。花綱というのは植物を編んで作った綱で、豊穣多産のシンボルです。インドのみならず、ギリシャやローマなどのオリエント世界でも、装飾モチーフとして好まれました。ガンダーラにもたくさんあります。口からこれを吐き出すというのは、なかなかすさまじいイメージですが、やはりこれも植物の繁茂力を背景にした豊饒のイメージなのでしょう。日本の古事記にあるオホゲツヒメの神話も、これと同じように理解できます。オホゲツヒメというのは自らの口から食べ物を吐き出して、これによってスサノオを歓待した女神です。食べた後でそのことを知ったスサノオによって、殺されるのですが、その死体からはさまざまな植物が発生します。穀物や芋類などの食用になる植物の起源となります。このようなタイプの女神にまつわる神話は、東南アジアを中心に幅広く分布し、神話学で「ハイヌヴェレ型神話」と呼ばれています。

宇宙があまりにも大きいのは、人間がごく卑小な存在であるということを明示するためだろうか。また、数も無数にあるが、それは人間の自我が統一されたものだと考えられていたせいではないだろうか。(本当は無数の我の束になったものが「自」だと思う)。
たしかに、仏の世界の広大さと、それをすべてコントロールするような、究極的な仏(法身といったりします)の存在を説くことは、われわれ人間の卑小さを表すという目的もあったでしょうが、単に巨大なものと卑小なものという対比ではなく、その両者がじつは本質的には異ならないことも意識されていたと思います。後半の質問は、私の理解で正しいかわかりませんが、ウパニシャッド哲学の「アートマン」のようなとらえ方でしょうか。ただし、そこではアートマンはそれがそのまま絶対的な宇宙原理であるブラフマンと同一であると考えられ、無数のアートマンを集合させるという見方ではないようです。

大仏がそんなに大きいということは、私たちが空を見上げれば、仏の身体の細胞のひとつひとつを見ていることになったりするのかなと思いました。そうするとまた「大」と「小」がごっちゃになってくる気がします。でもそれが自己と宇宙ということなのでしょうか。何かめちゃくちゃですね。すみません。なぜ仏教は輪廻とか「反復する時間」とか繰り返す概念が主なのですか。キリスト教では「終末」を定めていますよね。まったく反対であるのが不思議です。
宇宙が仏であるという考え方は、宇宙全体を(つまりわれわれを含む全存在を)「聖なるもの」としてとらえることで、これは今回の授業でも取り上げます。その場合、実際の宇宙の構造と、仏の身体の構造との対応はあまり問題になりません。解剖学的な知識とは無縁だったようです。しかしその一方で、仏の身体についての関心はさまざまなところで現れ、『華厳経』では仏の身体の毛穴ひとつひとつに無数の世界がおさめられ、それらがたがいに光によって照らしあっているという描写も出てきます。その世界にはやはり法を説く仏がいるのですから、その仏の毛穴にも・・・ということになり、もう何がなんだかわからないですね。この場合の毛穴は、以前取り上げた「仏の三十二相」に含まれます(同じ向きで生えている)。『法華経』で光を発する眉間の白毫もそのひとつでした。仏の身体が問題となるのは、生物学的な身体ではなく、三十二相をそなえたシンボリックな身体なのでしょう。時間についてはそのとおりで、インドばかりでなく中国や日本も「反復する時間」や「円環的な時間」が普通ですが、キリスト教では天地創造にはじまり最後の審判で終わる「直線的な時間」が説かれます。これはユダヤ教やイスラム教でも同様です。1年という周期を基本とする農耕民族と、砂漠を生活の場とする遊牧民との違いからくるという説もあります。

古代中国の名作「長恨歌」では、楊貴妃が死後、仙女のひとりに生まれ変わっていましたが、仏の世界で生まれ変わった人間が、仏のような存在になることができるのでしょうか。
仏の世界は悟りの世界ですから、そこに入ったものは二度と生まれ変わりません。輪廻再生はわれわれ衆生の迷いの世界です。たしかに中国には「神仙の世界」というのがあり、インドの天がこれに似ていますが、同じものではありませんし、直接の影響関係は稀薄でしょう。ただし、造型作品としては、インドでも中国でも「飛天」というものがあり、イメージの上でもつながりがあるようです。

ハスの花の中に世界は20層ぐらい重なっていると聞いたが、下から見たら上の世界の様子は見えるのだろうか。また、見えないのだとしたら、何が見えるのだろうか。世界の端はあると考えられていたのだろうか。
普通は見えません。しかし、仏が法を説くときに示す神変で、すべての世界が照らし出されて、そこでも、別の仏が法を説いている光景が見えると、大乗経典には記されています。このような情景は「相互照見」と呼ばれ、大乗仏教の重要な概念となります。前々回に配布した資料の中に、関連するものがありますから読んでおいて下さい(梶山『神変』)。世界は全体としてとらえるという点では、世界の端はあると考えられていたでしょうが、実際にここが端であるというような説明ではありません。

インドの仏教徒は、ハスの中のほんの一部を人間の世界として与えている。もし、欧米の人々にこれと同じ質問をしたら、華の真ん中に大きく、人間のスペースをとりそう。いろんな国の人に、ハスの花に宇宙観を示してもらったら面白いと思った。種子の中は小さなスペースだけれど、種子は生命を生む大事な場所。インドの仏教徒は自分たちの住む場所を謙遜しながらも大切に考えていたのではないかな。
種子が生命を生む場所というのは、今回の授業でも取り上げる重要なポイントです。卵も種子も同じですが、そこからすべてが生まれてくることが、驚異ともいえるのです。これは2千年前のインド人でも、われわれ日本人でも共有できる驚きでしょう。小さいものに全体が含まれるとか、小さいものが大きいものと一致するというのは、常識的には間違っているとか、理解不可能と思われますが、たとえば、数学では「部分は全体に一致する」と言われますし、生物学でも「個体発生は系統発生を再現する」と言われたりして、じつは人間の思考法としては自然なものです。

書名は忘れましたが、最近よく『法華経』を聞くので、本を少し読んで勉強しました。釈迦が最後に説いた教えであると知り、おどろきました。また、聖徳太子が取り入れた三経のひとつであったこと等も知りました。最後の絵が浄土図につながっていくとのことですが、浄土宗とかで描かれるものにたしかに似たものを感じたのは気のせいでしょうか。マンダラにも似ていると思いました。
ぜひ、いろいろ本を読んで勉強して下さい。『法華経』に限らず、仏教についての解説書はたくさんありますが、テーマが宗教であるだけに、いい加減なものもたくさんあります。初心者向けには、定評のある新書などが適当でしょう。岩波、講談社、中公の新書なら、おおむね信頼できる内容だと思います。『法華経』というのは日本の仏教に大きな影響を与えた経典ですが、とくに戦前から戦後にかけて現れた新興宗教の多くが、この経典をもっとも重視します。そのような立場からの本も多いのですが、学問的には問題があるものが大半です(信仰のレベルと学問のレベルは同じではありません)。神変を表した作品が浄土図へと受け継がれているのは、インドから中国、日本へという仏教美術の流れを考える上で、きわめて重要です。マンダラはもともと浄土図的な「仏の世界図」とは異なる原理で描かれていたのですが、日本では「当麻曼荼羅」のような、浄土図としてのマンダラが現れます。平安時代の後期には浄土教と密教が相互に影響を与えあいます。マンダラについては今回から少しずつ見ていきたいと思いますが、これまでの授業ともつながっていく内容です。


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