密教美術の世界

授業への質問・感想

自分がどこからどこまでかという質問にたいへん困った。身体は必ず自分であると思うが、自分がかもし出す雰囲気とかも自分という中に含んでしまってもいいと思うからだ。他の人はどのように考えているのだろうと思った。
先回の授業の後半は、「自分とは何か」という問題でかなり時間をとってしまいましたが、まだまだ言い足りなかったことがたくさんあります。それでも、あたりまえのように思っている自分という存在やその範囲について、いろいろ考えてもらえたと思います。たしかに、自分の境界を自分の身体に限定する必要はなく、その周囲も含むことも十分理解できます。「気」ということばが最近よく用いられますが、これも同じようなことでしょう。他の人がどのように考えているのかという問題は、認識論や心理学の対象になりますし、最近では認知科学という分野ができています。脳やことばの問題とも関係します。そもそも「人文科学」というのは人間についての学問なので、つきつめていけば「自分」を探求することになると言ってもいいでしょう。

梵我一如が本質的な面で「仏=神=宇宙=自己」であるならば、仏像やマンダラといったものは、自己を映す鏡のようなもの(もしくは理想像)なのだろうか。
そのとおりです。仏像やマンダラの授業で、自己とか宇宙とかを出してきたのは、単にそれらが観賞用の美術作品ではなく、宗教的な「イメージ」であるからです。マンダラについては来週以降に取り上げますが、簡単に言えば「仏の世界図」です。ただし、その世界を表す方法にも、インドの文化的、宗教的な枠組みがあります。ちょうど、われわれがことばを使うときに、特定の文法を用いるようなものです。授業ではこのような「枠組み」について紹介します。その場合、これまでの仏像のイメージやコスモロジーについての知識が役に立ちます。

マンダラに仏が千体も並んでるなんて、びっくりです。あんまり技術のない時にできたのに、ちょうど千体も規則正しく並んでるって、すごいです。いろいろ計算とかもいるだろうし。「まとめ」見てて、本当に画一化されてるっていうの思いました。毎週、いろんな仏像とか見てるけど、ポーズとか構成とかが似ているのが本当に多いと思います。全然関係のない仏像同士が似てたりしたら、どんどん仏像の良さがなくなりそう。でも今から新しい仏像の姿を見ても、逆に気妙かも・・・。でももっと個性いっぱいになってほしいです。
たしかに個性的な仏がたくさんある方が、見る方にとっては楽しいでしょうね。それはともかく、マンダラに描かれた千体の仏は「賢劫千仏」といいますが、授業でお見せしている作品は「西院本両界曼荼羅」という作品で、平安中期のマンダラの傑作です。賢劫千仏が描かれているのはマンダラ全体から見れば周辺なのですが、このようなところでもまったく手を抜かず、ていねいに描いています。日本にはかなりの数の金剛界マンダラが現存しますが、その中にはもっと雑に描かれたものもたくさんあります。ところで、仏像に限らず、古い時代の美術品や建造物を見るとその水準の高さに驚かされることがしばしばあります。しかし、それは「現代は科学技術が発達した時代だ」という先入観によるものです。たとえば、いわゆる四大文明が起こったところでは、いずれも巨大な建造物や都市が出現していますが、その背景には高度な技術があったはずです。おそらく人間というのは数千年ではそれほど発達するものではないのでしょう。芸術作品の場合、それはもっと顕著です。現在の仏師がどんなにレベルの高い作品を作っても、たとえば運慶や快慶の作品のレベルに達するのはほとんど不可能です。学問や教育の水準と、技術の水準は必ずしも一致しないのです。

絵を描いたとき思ったんですけど、この話は本当にあったのかと思うくらいうそくさいのですが、作り話なんですか。
先週の課題については、授業時間内に取り上げることができなくて、今週に持ち越しになりました。読んでもらったテキストは、日本にも伝わり重視された『法華経』の冒頭部分です。説法を始める釈迦が、その準備段階として「神変」という宇宙全体を舞台にした奇跡を見せます。大乗仏教の経典の多くは、このような「神変」を経典の最初に説きます。法華経のものはまだそれほど複雑ではありません。これが本当の話か作り話かという質問は、聖書の天地創造やノアの方舟が歴史的な事実であるかどうかというのと同じ質問です。そうであると信じる人にとっては、本当の話であって、信じない人には作り話になるでしょう。しかし、このような二者択一を示すと、ほとんどの人は「じゃあ作り話だ」と思うでしょうが、われわれが「事実である」と考えることだって、立場や見方を変えればいくらでも「作り話」になります(具体的な例は省略します)。私を含め、このようなものを文化としてとらえる研究者は、物語の真偽よりも、それを作り出した人間そのものに関心があります。一方、神学のように、特定の宗教の基本的な教理をベースに(つまり、このような話も真実であるという立場で)、学問の体系を構築している分野もあります。

なぜ眉間の毛の渦から光が放たれたのですか。
他の大乗経典では、眉間以外にも頭頂にある肉髻や、口の中の舌、体中の毛穴などが、神変のときにいろいろな働きをします。これらは前にも取り上げたように、釈迦のような仏と転輪王にのみ備わっている超人的な身体的な特徴、すなわち三十二相に含まれます。これらが神変を起こすためのポイントのような役割を果たしているのです。眉間がしばしば現れるのは、おそらく眉間というのが一種のエネルギーの源として理解されることが多かったのでしょう。何となく感覚としてわかるような気がしますが・・・。

昔の人々は宇宙を神聖で秩序あるものとして考えていたことが興味深い。世の中が秩序のないことに不満があったのではないだろうか。
宇宙を表す「コスモス」ということばは、そのまま「秩序」を意味します。われわれが自分を取り巻く世界を何らかのまとまりとしてとらえるということは、すでにその中に「秩序」を見いだしていることになります。逆に、混沌とした世界は「コスモス」とは呼べないのです。実際、天体の運行や生物の発生、消滅などを見ていると、どうしてこれだけきちんとしているのか驚きます(生物や地学の授業でそういう感動を覚えませんでしたか?)。宇宙観が特定の社会的な状況を反映することもなくはないですが、もっと長い時間的なスパンで現れるもののようです。むしろ、インド的な世界観や中国的な世界観というように、特定の民族や文化と結ぶつくことの方が多いようです。しかも、そのような類型を越えて、人類が共通にもつ宇宙論というものもあり、不思議です。ついでにいえば、日本ではこのような宇宙論はほとんど発達しませんでした。これは授業で取り上げたような「自己」や「世界」についての考察を、ほとんど行ってこなかった民族性かもしれません。

梵我一如の説明がよくわからなかった。その中の自己の考え方がわからない。網みたいなものとはどういうことですか。
わかっているつもりで説明を進めていたようです。梵我一如についてはともかく、われわれの身体がかならずしも自己と重なるのではないということを、補足しておきます。ふつう、われわれが自己と思っている身体は、閉ざされているような気がします。皮膚や体毛などによって外界と遮断されているからです。しかし、食物を摂取して、それを排泄して生きているわれわれは、つねに体内に「異物」、つまり自分自身ではないものを取り込んでいます(透明人間の話はこのことで、食べ物は消化されるまでは透明ではないのではないのか、あるいは排泄する前の状態はどうかということです)。消化器官というのは、形は複雑ですが、簡単にすれば、体を貫く管のようなものととらえられます。そうすると、この管を包み込むわれわれの体も、筒のようなイメージでとらえることができます。しかし、食べ物の動きはこの管を通過するだけかもしれませんが、そこから摂取された栄養などは、消化器官から吸収されてからだの隅々まで行き渡ります。呼吸によって得られる酸素も同じように全身に行き渡り、二酸化炭素も逆の道をたどります。呼吸は口や鼻だけではなく、皮膚呼吸もありますので、全身でこのような物質の移動が起こっています。これらを総体的に見れば、われわれの身体は、つねに外界と物質の移動を行っている「穴だらけの膜」のようなもので、それをたとえて「網」と言ったのです。生物の知識としては当たり前のことですが、「私とは何か」という問題としてとらえれば、意外な驚きがあるのではないでしょうか。

自分の中で神というと悟りきった神の他に荒ぶる神というイメージが強いので、忿怒尊は何となく神々しく感じます。今まで見てきた仏は無表情か怒っているかのどちらかですが、笑っていたり泣いていたりする仏はいないのでしょうか。
授業でよくつかう「聖なるイメージ」というのは、じつは質問にあるような二面性を持っています。完全や秩序などと通じる「整った」イメージと、グロテスクとか奇異というイメージです。前者は常識的な神や仏のイメージですが、じつは世界の宗教には後者のようなイメージを「聖なるイメージ」として重視するものがたくさんあります。ドイツの宗教学者R. オットーは、このようなものを「ヌミノーゼ」と呼びました(『聖なるもの』岩波文庫)。怒りというのは仏教から見れば悟りを妨げる煩悩のひとつなので、仏のイメージとしては本来無縁のものです。泣いたり笑ったりする感情も同様です。しかし、ヒンドゥー教などの他の宗教と同様に、ヌミノーゼ的なイメージが必要になったとき、登場してきたのが忿怒尊(日本では明王)のような仏たちなのです。

東大寺大仏蓮弁の線刻にはおどろきました。ひとつひとつにこんな細工がしてあるとは知らなかったので、是非一度実際に見てみたいです。シンメトリーは西洋の建物に多いというイメージがあったのですが、完全さを聖なるものとして求めるのは、どの世界にかかわらず、人類に共通の感覚なのだと思いました。なぜ須弥山世界は、半月と円なのですか?円の方が聖なるイメージに合うと思います。
東大寺の蓮弁は、一般の拝観者は昇れない少し高いところにあります。特別の許可があれば見ることができますが、むずかしいようです。何といっても奈良時代のオリジナルで国宝ですから。そのかわり、精巧なレプリカが大仏殿の中に置いてあります。こちらでもよくわかりますから、機会があれば見てきて下さい。シンメトリーは聖なる世界のイメージの基本で、来週からくわしくみるマンダラでも顕著です。インドの仏教寺院なども、きれいなシンメトリーです。須弥山世界にある半月というのは、たしかに不釣り合いのような気がしますが、それ以外は基本的には円と正方形で構成されています。宇宙全体はおそらく球体としてイメージされていたのでしょう。われわれも無意識のうちに、宇宙を球のような形でとらえているのではないでしょうか。

自分が自分であると認識するのは、脳というよりも顔の方が視覚的だし、特徴があるのではないかと考えた。
そういうとらえ方もあるでしょう。顔こそが自分というイメージをもっとも特徴的に表しているということでしょうね。それはともかく、その一方でわれわれは自分の顔を直接視覚的にとらえることができないということもあります。自分の目では自分の顔を直接見ることができないのですから。鏡に映った顔があるではないかと思うかもしれませんが、これは鏡像なので、左右が反転しています。それに、立体的なはずなのに平面の像でしかありません。平面化されているのは写真や映像でも同様です。これは視覚に限らず、自分自身によってとらえられる自己と、他者がとらえる自己とは、永遠に一致しないことも表しています。

「自」と「他」の話は面白かったです。自分の身体をとても不確かなものに感じた、というといいすぎですが、すごく不思議な気分になりました。なぜ古代の人々は「全体」ということ、あるいは「自己と全体」ということを考えたのでしょうか。まわりを見渡しても自分と近くの人々や景色しか見えないのに、なぜそこまで考えが及んだのですか。
「自」と「他」のような話は哲学などの根本問題ですが、これまでの学校教育ではほとんど取り上げられることがなかったのではないでしょうか。あたりまえのようなことでも、見方を変えてみると、まったく様相を示します。「自分」をテーマにした文献は、哲学の分野では数多くありますが(最近はやりの「自分探し」のような本のことではありません)、最近のものを少しあげておきます。関心があればいろいろ読んでみて下さい。
鎮目恭夫 1999 『人間にとって自分とは何か』みすず書房。
村田純一 1998 『新・哲学講義 4 「わたし」とは誰か』岩波書店。
人間が「全体」や「世界」を考えるのはなぜでしょうね。やはり、その根っこには「自分とは何か」という問題があるような気がします。人間に思考力や想像力がある限り、必ず直面する問題ではないでしょうか。

世界が広すぎます。なぜこのような差を付ける必要があったのでしょうか。仏がどれほど偉大かを示すだけなら、天国を遠いところにひとつだけ作ればいいのではないでしょうか。
前回紹介した宇宙観は、まだ「小世界」といわれる段階で、序の口です。本当は、その先の爆発的に膨張するところまでやりたかったのですが、時間がありませんでした。仏の偉大さを示したかったという理由は、おそらく正しいのですが、そのためにそこにいたるまでの世界がいかに広大であるかを示す必要もあったのです。

天国というのはもともと仏教要語だと知り、おどろきました。別の授業でゼウスのことを最初、宣教師たちは「大日」と訳したけど、それが仏教用語だと知り、そのままゼウスと呼ぶことにしたということを聞きましたが、当時から日本語の中で仏教用語だと気づかないくらい、仏教というのは日本人の生活の中に密着していたものなんですね。
誤解を与えたようですが、天国という用語そのものは仏教では一般的ではありません。天とか天上世界といった場合、われわれはキリスト教的な天国を連想しますが、仏教用語としては神(とくにヒンドゥー教起源の神でサンスクリットでdeva)を指すことばで、彼らが住む世界がそのまま天と呼ばれるということです。大日とゼウスの話は、たしか遠藤周作の小説で取り上げられていて、有名なようです。それよりも古い事例では、中国の唐代にネストリウス派キリスト教が景教として伝わったとき、密教の用語をもっぱら用いたといいます。日本にキリスト教が伝わったときは、かわった仏教の一派ぐらいとして受け入れられたようです。


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