密教美術の世界
授業への質問・感想
パンテオンとはいったい何なのか。
授業で言ったはずですが、「神々の世界」という意味です。語源的な説明をすれば、「パン」は「すべての」を、「テオン」は「神、あるいは神に関する」という意味です。世界の宗教の多くは、神や仏などの超越的な存在を前提としています。
ずいぶんいろいろな種類の神々がいるのだとおどろきました。仏には女性がいなくて女尊が出てきたと言われたけれど、それなら明妃というのは何なのでしょうか(仏のパートナーらしいというのはわかりましたが)。
狭い意味での仏は「ブッダ」すなわち「悟った人」を意味する男性名詞です(サンスクリットにはドイツ語などと同じように、名詞に性があります)。そのため、ブッダであればすべて男性で、もし女性の「悟った人」であれば「ブッダー」になります。初期仏教から大乗仏教までは、ブッダはこのようにすべて男性でした。『法華経』の「変成男子」という有名なエピソードは、女性の修行者が最終的にブッダとなるときに、男性に変わるというものです。しかし、密教の時代にはあらたに女性の「聖なるもの」すなわち女尊が登場します。これは、男性の「聖なるもの」に仏、菩薩、明王、天がいたように、仏と同格の女尊や、菩薩に似た女尊など、さまざまなものがあります。明王のように多面多臂の忿怒形の女尊もいますし、もともと、ヒンドゥー教や民間信仰の神々である天のクラスは、女尊の種類も豊富です。明妃はこれらの女尊の中で位の高いもので、仏のパートナーにあたります。仏たちは人間と同じように、家族に相当するものを構成することがあり、そこでは「仏母」と呼ばれることもあります。また、別のグループとして、「陀羅尼」とよばれる一種の呪文を神格化した女尊たちもいます。「陀羅尼」ということばが女性名詞なので、女尊と結びつけられます。これについては教科書のコラムを参照して下さい。なお、仏教におけるこのような女尊信仰の背景には、インド全体における女神信仰の隆盛があると考えられています。
仏像のイメージを伝達するためのテクストを見られるような場所はどこかありますか。
仏像のイメージを伝えてくれるのは、仏教文献です。釈迦の像であれば「仏伝」と呼ばれるジャンルの文献で、とくに三蔵の中の律と経の中に数多く含まれます。密教の時代であれば、経典にも多く含まれますが、注釈書や儀軌類などの論書にあたるさまざまな文献に含まれます。金沢大学の中では、仏教関係の文献は、私の所属する文学部比較文化研究室にもかなりそろっていますし、図書館の地下にある「暁烏文庫」が充実しています。仏教文献の説明は授業ではできないと思います。関心があれば、次のような参考文献を読んで下さい。
渡辺照宏 1967 『お経の話』(岩波新書) 岩波書店。
パンテオンの仏の部のうち、守護尊に秘密集会という仏がありますが、これはいったいどんな仏なのでしょうか。名前に興味がわきます。あとNHKスペシャルで「文明の道」というシリーズがあり、次回はなんと仏教と仏像に関する内容とのこと、予告を見ながら、この授業で学んだことを思い出していました。
秘密集会は「ひみつしゅうえ」と読みます。『秘密集会タントラ』というインド密教史の中でも重要な位置を占める経典に説かれる仏の名前ですが、残念ながら仏像などは日本には伝えられていません。チベットではとても人気が高く、この仏を中心とするマンダラも遺されています。マンダラを授業で取り上げるときに、紹介します。なお、この文献は最近全訳が発表されたので、簡単に読めるようになりました(松長有慶 2000 『秘密集会タントラ和訳』法蔵館)。NHKスペシャルではガンダーラを取り上げると思います。見られる人は見ておいて下さい。NHKは昔から文化遺産や仏教に関するドキュメンタリー(というかカルチャー番組)が得意で、「シルクロード」や「大英博物館」などでも、このあたりのことを取り上げています。
仏たちの印はそれぞれ意味はあるのですか。見返り阿弥陀は初めてみたけど、優しい雰囲気がしていて気に入りました。インドの仏はなぜか細身なのが多いですね。これも文化的背景に関係しているのでしょうか。
それぞれの印には意味があると考えるのが適当ですが、あらゆる時代や地域をこえて、それが常に一定であるということはありません。また、同じ意味を別の印が示すこともあります。たとえば、授業でよく取り上げる「初転法輪」の場面では「転法輪印」(あるいは「説法印」ともいう)という印を示すことが多いですが、古い時代には別の印が見られますし、大日如来が示す智拳印が、この転法輪印からできたという説も有力です。印の歴史は仏像の歴史にほぼ重なりますが、印をどのようにとらえるかは、それぞれの時代や地域で異なります。たとえば、浄土教で重要な役割を果たす来迎の阿弥陀は、往生するもののレベルにしたがって9種類の印を示しますが、これは密教ではほとんど継承されていません。細身の仏像は授業の中心を占めるパーラ朝の仏像に顕著です。これより前の時代には、もっと堂々とした体格の仏像もあります。
菩薩や観音の名前をやったけれど、あんなにいるなんてびっくりした。七福神も同じようにあるのですか。
七福神はインド、中国、日本の神々の寄せ集めです。インド起源の神は弁財天、大黒天、毘沙門天、中国起源は福禄寿、布袋、寿老人、日本が恵比寿です。大黒天はインド起源ですが、その姿は大国主の尊(因幡の白ウサギで有名)の影響があり、インドの大黒(マハーカーラ)とは異なります。七福神の研究もいろいろあります。
インドに薬師如来がいないことが気になった。インドが起源ではないものもあるんだなと思った。
インドに薬師の作例は残っていませんが、インドで成立した仏です。サンスクリットでvai ァajyaguruといい、「医療の王」という意味です。インド起源の仏でもインドに作例が残されていないものがあります。薬師の場合は中国やチベットでも流行し、多くの作品が作られました。
・考えてみれば、日本の仏教は密教と密接な関係にあると思った。「鎌倉新仏教」しかり、「真言」「天台」しかり。勉強になりました。
・「神々の世界」の図はわかりやすいんですが、「天」は一番下級なのでしょうか。「仏」は「神」の上にある存在なんですよね。
日本文化における密教の重要性は、高校までの歴史の授業などではあまり強調されませんが、宗教にとどまらず、広範な領域で認められます。鎌倉新仏教の開祖たちがすべて天台系であったことにも注意すべきでしょう。「天」については、仏教内部では「護法尊」つまり仏教の教えを守る役割の神であるので、位置づけは低くなります。「天」に相当することばは「デーヴァ」ですが、これは絶対神や最高存在の神を表すものではありません。
五十六億七千万年後にこの世に下生する弥勒は地球が存在するうちに来られるのでしょうか。つーか、どうして五十六億七千万年後って中途半端な時間に決まったんですか。授業に関係なくてすいません。
仏教ではわれわれが想像をはるかに超える時間論や宇宙論を持っています。これについては近いうちに授業でお話ししますが、その中では五十六億七千万年なんて、たいした時間ではありません。この数字がどこから来たのかは、私もくわしく調べていませんので、調べておきます。なお、教科書で一桁間違えて伝えられたと書きましたが、私自身も間違えていて、五億七千六百万年後というのが、正しい数字のようです。訂正しておきます(どちらにしても、地球はともかくわれわれが生きているわけはないのですが)。
どうして弥勒とかみたいに領域を共有するものがたくさんあるのだろうと思った。
仏の世界は固定化されたものではなく、もっと流動的なものです。一種の下剋上が起こったり、逆に人気がなくなって姿を消す仏もいます。これは仏教だけではなく、神話やパンテオンがあるところでは、広くみられる現象です。このような変化や本来の出自を知ることで、その仏の性格やイメージを知ることができるというのが、教科書を執筆したときの立場でした。それは今でも有効だと思ってます。
胎蔵界マンダラの中でも、今回のパンテオン様式図を見ても、仏と神の位置関係に疑問があります。仏>菩薩など>神(異教含む)とありますが、密教でもご存じのように神も拝みます。他教では絶対的存在とある神が仏(密教)では相対的に位置づけられています。仏教(密教)における神格は、仏に対してどのような立場を認められているのでしょうか。
(森註・この質問はやや専門的なので、関心がない人はとばして下さい)
不等号(>)は位階の上下を表すと理解しますが、ヒンドゥー教を起源とする神々が、密教のパンテオンに包摂されると、ほぼ例外なく「護法尊」的な位置づけになります。十二天がその代表的なものです。これは胎蔵界マンダラなどの「外金剛部」や、護摩の次第における「世間段」の扱いでも同様です。ただし、インドと日本の密教は分けて考えた方がいいかもしれません。日本では狩場明神や丹生明神のような日本古来の神々に対する信仰も、密教の中にみられるからです。インドについてみれば、外金剛部などに含まれるヒンドゥー神は、いずれも少し格下の神であるようです。インドラやアグニはかつては至高神的な存在でしたが、この時代には東や南東を守る護方神でしかありません。一方、シヴァやヴィシュヌのような、中世のヒンドゥー教でもっとも位が高い神は、密教には簡単には包摂されません。そのために『金剛頂経』の「降三世品」のような経典を、わざわざ創作しています。
仏たちの名称をみて、今までに読んだ本やマンガなどにも出てきていたのを思い出し、マンガといってもあなどれないと思った。また、仏とか菩薩とかはっきりと分かれているというわけでないようで、やはりむずかしいと思った。
私の知る範囲でも、マンガのタイトルや登場人物、モティーフなどに、ヒンドゥー教の神や仏教の仏が出るものがかなりあります。またテレビゲームにも、インド関係の神々の名前がよく登場するようです。理由はいろいろ考えられますが、ギリシャ神話や日本神話の神々のようによく知られていないので、手垢の付いた感じがしない、グロテスクなイメージがインドの神々から連想される、作者がインド関係の知識を断片的に持っている、などでしょうか。最近のマンガに「気」とか「神秘体験」をあつかった「精神世界」ものが多いことも関係するようです。
授業と直接関係ない気はしますが、観音菩薩の「観音」は「〜観音」のそれとは違う意味なのですか。また、日本では地蔵菩薩は踏切の近くなどにいて、小さい頃から身近な守り神的存在のような気がしていたのですが、本来どんな意味を持つのですか。
関係あります。観音はインドでも中国でも日本でも、またチベットなどでもとても人気の高い菩薩です。そのため、単なる観音以外にもさまざまな種類の観音が現れ、これらをまとめて「変化観音」といいます。馬頭観音や千手観音などの「〜観音」がこのような変化観音です。これは、観音の霊験をとく『観音経』という経典(『法華経』の「普門品」)の中に、われわれが困ったときに、観音はそれぞれにふさわしい姿で現れることが説かれていることも影響しています。地蔵はインドでは独立した信仰はほとんどなかったようです。中国を経て日本に伝わる過程で、輪廻に苦しむわれわれを救済するもの、とくに子どもを救う神として信仰されるようになりました。また、踏切に限らず、四つ辻に地蔵がよくおかれるのは、このような場所が宗教的に重要であるからです。日本では地蔵は道祖神や庚申信仰とも混淆します。
なぜ「両義的なもの」は宗教によく取り上げられるのですか。あと、似ている、似ていないについて、今日の説明では根本的なところがわからなかった気がします。これから分かっていくんでしょうか。
なぜでしょうね。「両義的」であるからというのでは答えになりませんが、人間とはこのような特定のカテゴリーに収まらないものが気になったり、不気味に思うのではないでしょうか。似ている、似ていないについては、よけいなことを話しすぎたかもしれませんが、偶然似ているものがあっても、それは人類が普遍的に持っているイメージであることとか、歴史的な必然性がある場合、それは中国を媒介とした情報の伝達があったこと、作品のイメージを規定する文献があったことなどが、具体的な理由としてあげられます。「これから分かっていく」かどうかは分かりませんが、実際のスライドをみて、いろいろ考えてみて下さい。授業でも言ったように、それよりもむずかしい「なぜ似ていないのか」という問題もあわせて。
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