密教美術の世界

授業への質問・感想


同じ仏教だからインドと日本の仏像が似ていて当たり前だと思っていたけど、よく考えたら、何千キロもさまざまな民族を経由してもイメージが伝わっているのはすごいことだと思った。
前回の授業のテーマは「似てる?似てない?」でした。感想やコメントにも「よく似ていて驚いた」というものが多かったようで、似ていることを実感できてよかったと思います。授業でも考えてもらいましたが、インドから日本に仏像のイメージが伝わる間には、気の遠くなるような距離があるにもかかわらず、よく忠実に伝えられたものだと思います。直線距離であれば、ネパールから中国へというのが一番短いでしょうが、ヒマラヤを越えられなければならないので、授業でお話ししたような迂回路を取ります。シルクロードとして有名ですが、南海を経由するルートも「海のシルクロード」として知られています。いずれにしても、飛行機もインターネットもない千年以上前のことなのです。「似ているか似ていないか」というだけの問題であれば、結論は簡単ですが、このような状況の中でなぜ似ていることが可能であったのか、そもそも、似ているのはどういうことなのか、逆に似ていないものがあるのはなぜか、などの問題を今回少し考えてみます。

インドと日本はものすごく離れているのに、よく似た仏像がたくさんあってびっくりしました。日本独自の仏像は少ないみたいですが、日本がインドの仏像をまねて作ったのですか。それとも仏像を作る上でマニュアルみたいなものがあるのですか。
前の方とよく似た感想ですが、後半の「マニュアルみたいなもの」についても今回取り上げます。仏教はそもそも外来の宗教なので、日本独自の仏像はたしかに少ないのですが、神道や民間信仰と混淆して、日本固有の神格もいくつか現れます。また、仏教の仏と神道の神が本来は同一のものであるという「本地垂迹説」なども登場します。「聖なるもの」についての考察は、いつの時代でも宗教の中心的な課題です。

仏像の足の下にはなぜいつも人や馬、龍などの像があり単独の仏像はないのか。
単独の仏像はないわけではありません。しかし、仏教も含め、インドの神の像に、動物や人物を台とするものが多いのもたしかです。降三世明王が二人の人間を踏みつけていることに、驚いたというコメントもありました。踏まれているのはヒンドゥー教の神のシヴァとその妻です。たしかに異様な姿ですね。仏教の神がヒンドゥー教の神よりも優位にあることを表すのですが、インドの美術の伝統から見ると、それほど単純ではないようです。これについては教科書の最後の章で考察しているので、読んでみて下さい。授業でも終わりの方で取り上げる予定です。

素朴な疑問なのですが、インドで起きた仏教は長い長い道のりを経て日本にたどり着きました。それまでの過程で伝わったはずの仏教は、他国では儒教やキリスト教へとかわっていて、ほとんど残っていないのに、どうして日本ではこんなにも深く受け入れられたのでしょうか。日本人の気質や、もともと、多くの神や仏を信じていたためですか(今になってとても不思議でしかたありません。しかも、細かな点までよく似ているので、すごいことです)。また、仏像の姿などを忠実に伝承しているのに、インドではそうでない従者などが日本で観音となったりと位が変化するのはなぜですか。本でも猪は出てきますが、なぜ猪である必要があるのですか。
なぜ仏教は日本で受容され、根付くことができたのかというのは大きな問題です。指摘されているように、日本人固有の宗教観や心性もその理由に挙げられるでしょう。あるいは、仏教が国家権力と結びついたことも大きな要因でしょう。仏教の伝来そのものも国家的なレベルのことでしたし、奈良時代や平安時代の仏教が朝廷や貴族と密接な関係を持っていたこともよく知られています。現在の日本仏教のかなりの宗派は、鎌倉時代に現れたいわゆる「鎌倉新仏教」にその起源を持っています。これらの仏教は「庶民のための仏教」のようにしばしばとらえられますが、けっして国家や権力と無縁だったわけではありません。もちろん、宗教とは個人の信仰を基礎においたものですから、民衆の観点からの考察も必要です。ところで、東南アジアやチベットなどでは、現在でも仏教は生きていますし、日本以上に人々の生活に密接に関係しています。しかし、その一方で、日本と同じように、国家レベルで仏教が導入されたり、既存の土着的な宗教と結びついたにもかかわらず、現在ではほとんど姿を消した地域もあります。いずれにしても容易に答えを出せる問題ではありませんので、自分でもいろいろ考えてみて下さい。仏の世界の位の変化については、今回取り上げます。猪については、「なぜ猪?」という質問が他にも見られました。教科書の「大日如来」の章でも取り上げられていますが、太陽や絶対者と結びついた動物と考えられています。もっとも「なぜ猪でなければならなかったのか」という疑問は残りますが。

本を読んで授業を受けるとよりわかりやすくなりました。今回、レポートを書いてみてよかったと思います。インドからはるばる日本まで忠実に伝えられているところがすごいと思った。
レポートの課題は負担に思う方も多いでしょうが、読むのと読まないのとでは、実際の授業の理解がまったく違ってきます。そのため「書いてみてよかった」と思ってもらえるのはうれしいことです。「授業の前に読んでおきなさい」という指示程度でもいいのですが、なかなかそれだけでは、読んでもらえないので、課題にしています。自分で言うのも何ですが、各章ごとにまとまりをつけつつ、全体でも流れができるように構成されるなど、けっこうよく考えて書いてある本です(少し誤植があるのが申し訳ないのですが)。

現在のインドの人々は、大多数がヒンドゥー教を信仰している中で、「密教」を信仰している人々はいるんですか。
ほとんどいません。ただし、インドの内部にはカシミールやシッキムのようなチベット文化圏が含まれますので、その地域では密教の要素を含むチベット仏教が信仰されています。中世のインド密教の伝統は、インドの国内ではほとんど消滅しています。13世紀の初頭にはほぼ壊滅状態になったようですが、その後しばらくは持続したようです。現在のバングラデシュには、その流れを汲む宗教が現在でもわずかに残っているそうです(詳しいことはわかっていませんが)。なお、インドの宗教はヒンドゥー教と考えがちですが、イスラム教徒が人口のかなりを占めますし、キリスト教もさかんです。

・釈迦の八相図等を見ていると、年齢による身体の変化が見受けられません。どうしてでしょうか。
・女尊と他の仏たちの肉体、容姿にあまり違いを「胸以外」感じません。どうしてなんでしょうか。
・これは授業とはまったく関係ないことなんですが、私は「スジャータ」のトラックを見たことがいっぱいあるんですが、製品はあまり見たことありません。微妙です。(これは見なかったことにして下さい)
・「涅槃」と「入滅」はどう違うのでしょうか。
年齢による身体の変化が見られないのは、インドにおける宗教図像の特質として重要だと思います。われわれは絵画や彫刻などの芸術品を、対象に似ていること、たとえば「ほんとうにそっくり」とか「まるで生きているようだ」と思うことを、ひとつの理想と考えがちです。これは「写実性」「リアリズム」ということばでも呼ぶことができますが、宗教美術に関しては、必ずしも重視されません(宗教美術以外でも同様なことはあります)。むしろ、決められた形式を守ることの方が「聖なるもの」を表現するのにふさわしいと考えることが多いのです。これは、仏教だけではなく、キリスト教などの他の宗教美術でも認められることです。キリスト教美術の場合、ルネッサンスにおいて、ギリシャ彫刻のような古典世界的なイメージが支配的になったという、特殊な条件があります。このような宗教美術にみられる形式性の重視は、以前取り上げた「聖なるものの象徴的表現」や、前回の「なぜ似てるのか」とも結びつく問題です。女尊をふくめ仏たち相互のイメージがあまり変わらないことについては、次回の授業で考える予定です。「見なかったことに云々」と言われると、よけいにコメントしたくなりますが、スジャータはたしか「名古屋製酪」(あるいは略称の「めいらく」が会社名?)という会社のコーヒー・クリーマーの商品名だったと思います。最近は他の会社のものに押されてシェアがあまりないのかもしれません。名古屋の会社なので、地域的なかたよりもあるのかも。どうでもいいことですが、以前に私の住んでいた近くにこの会社の工場があったので、数十台のトラックがならんでとまっているところをよく見ました。最後の質問の「涅槃」と「入滅」は同じことです。

マンダラの仏との比較がおもしろかった。本物でなくてもいいから、カラーでじっくりマンダラを見てみたいと思った。ところで馬頭と同じように牛頭の仏はいるのですか。
マンダラは授業の中で取り上げます。そのときに全体像や構造、意味するものなどをお話しします。本物のマンダラは展覧会などでときどき見ることができます。以前から紹介している京博の「空海と高野山」展では、有名な血曼荼羅をはじめ、何点か出ています。写真集や美術書でも見ることができますので、図書館などで探してみて下さい。私の研究室の文学部比較文化研究室にも何点かあります。牛の頭の仏は、チベットやネパールで信仰されているヴァジュラバイラヴァ(マヒシャサンヴァラとも言います)が有名です。ただし、この仏の頭は牛ではなく、水牛です。教科書の文殊の所でも取り上げていますが、文殊や大威徳明王とも密接な関係がある仏です。また、日本で仏教と神道が混淆してから現れたと思いますが、牛頭天王(ごずてんのう)という神様もいます。このような仏は垂迹神と呼ばれます。牛頭天王はとくに疱瘡(天然痘)の疫病神、つまり、病気をもたらすとともに、それからも守る神として知られています。文殊やそれと関係を持つ女神たちが、インドで天然痘の神として信仰されていたことを考えると、なかなか興味深いです。

不動明王に対するインドと日本の信仰の差はどうして生じるのでしょうか。
不動明王がインドに起源を持つことはたしかなのですが、インドでも、その流れを汲むチベットやネパールでも、この仏は日本ほどには信仰されませんでした。不動明王を日本密教がきわめて重視した理由には、大日如来の化身と考えられたこと、他の明王に比べてイメージがわかりやすかったこと、護摩という儀礼と結びついたこと、空海などが重視したこと、感得と呼ばれる独自の宗教体験と結びついたこと、不動の瞑想が日常的に行われたことなどが考えられます。なお、後期の文学部の「仏教文化論」という授業で、不動明王と大日如来を取り上げて、仏教文化の伝播や地域性を考える予定です。

五智如来の後ろの宝珠型のもの(森注・実際は絵が描いてある)は何を表しているのでしょうか。高校の日本史で奈良時代の仏像に不空羂索観音像があったのですが、これとウダヤギリのとは何か関係があるのでしょうか。
五智如来の後ろのものは「光背」(こうはい)と言って、ほとけから発散される光をあらわしたものです。頭の後ろに円形の板を当てることもありますが、これは「頭光」(ずこう)といいます。いずれも、仏の三十二相のひとつである「金色相」を表しています。インドの仏像でもこれらは見られます。奈良時代の不空羂索像は、おそらく授業で紹介した東大寺のものか、唐招提寺の像かと思います。日本への密教の本格的な導入は、平安時代初期の空海と最澄以降ですが、すでに奈良時代から断片的に密教の経典や仏像が入ってきています。不空羂索観音もすでにそのころ伝えられています。興味深いのは、日本の不空羂索観音像は八臂を持つことが多いのですが、インドでは四臂が一般的です。そもそもインドには八臂の観音像そのものがほとんど存在しないのです。同じ仏でも日本とインドで異なるイメージを持つひとつの例です。

同じ像の中にたくさんの物語があって、こんがらがんないのかなと思う。同じ像じゃなく、いくつかの像に分ければもっと見やすそうだなと思う。なぜ同じ像の中に描いたのかが知りたい。
たしかにそのとおりで、古い時代のバールフットやアマラヴァティーなどでは、ひとつのパネルにはひとつの物語しか表されないのが普通でした。ただし、これらのパネルは仏塔を飾っていたので、仏塔全体では複数の物語が表されています。そうなると、全体の配列や順序が何を表しているかが問題になります。また、これらの物語は実際に参拝に来た人々にはよくわからないものもあったかもしれません。そのため「絵解き」をするような僧侶もいたという人もいます。パーラやその前のサールナートの八相図や仏伝図は、選ばれる主題はかなり固定化されていたようです。一枚のパネルに八相すべてを表すのは、この八つの場面がとくに重要であったとも考えられています(教科書の第一章参照)。これらの作品ではほぼ例外なく、涅槃の場面や仏塔が一番上に置かれています。これも、おそらく涅槃の持つ重要性を反映したものです。

僧院では何をしていたのですか。
修行です。経典を読んだり覚えたり、瞑想や儀礼もしていたでしょう。学んだことをもとに、論議もします。一般の信者も参拝に来ていたので、彼らのために説法をしたり、儀礼をしたこともあったはずです。その一方で、僧院という巨大な組織を運営するためには、社会的や経済的にもしっかりしたシステムがあったはずです。実際、ナーランダーなどの大僧院は、多くの土地を所有し、そこからの収入で維持されていたことがわかっています。最近の仏教の研究では、律とよばれる僧侶の生活規範を定めた文献を中心に、僧院を含め仏教の実態を解明する試みが行われています。下記の本はその代表的なものです。なお、インドの僧院の伝統は現在のチベットの僧院にかなり残っているようです。
ショペン、G. 2000 『インドの僧院生活』小谷信千代訳 春秋社。

前々から思っていたのですが、インドの仏像は日本の仏像とは違って、石板などに彫刻されたものが多いですよね(浮彫みたいな)。これはなぜですか。やはりインドの仏像の方が日本よりも複雑だからですか。あと、今日はもう少し左の方に立って説明してほしかったです。スライドが見えにくかった。
別にインドの仏像の方が日本よりも複雑ということはないでしょう。単純な比較はできませんが、木を刻んで作ったり、乾漆像などもある日本の仏像の方が、細部の表現などでは複雑化しているようです。インドでは神の像の素材に石が好まれます。ブロンズやしんちゅうなどの金属製もよく用いられたようです。その理由のひとつは宗教的なもので、神の像は永遠に存在する必要があると考えたからです。木像や塑像は加工は容易ですが、壊れやすいという難点があります(ただし、いずれも現存するものが少ないだけで実際はあったらしい)。別の理由として、寺院との関係もあります。インドの寺院は石を積んでできていることが多いのですが、神や仏の像はその一部として組み込まれます。これらの像はそれを安置する空間と切り離しては存在しなかったからです。なお、スライドについてはこちらも気を付けますが、見えにくいときは、見えるところに移動して下さい。授業中にすわる位置を変えるのは気にしませんから(勝手に教室を出ていったりするのは気にしますが・・・)。

金剛法菩薩は密教になってからは聖観音になるという説明がありました。教科書にも密教の時代になると毘盧遮那如来は大日如来になるというようなことが書いてあり、いまいち意味が分からないと言うか、すっきりしないままでいたのですが、「密教になると」とはどういうことですか。名前が変わるだけですか。
はじめの「金剛法云々」は逆で、従来の観音が胎蔵マンダラや金剛界マンダラに組み込まれるときに、「金剛法」という名称が与えられました。それはともかく、同じ仏が名称や姿を変えることは、たしかにわかりにくいです。大乗仏教やそれ以前からすでにさまざまな種類の仏たちが信仰されてますが、密教の時代でもその大半は引きつづき信仰されます。しかし、その場合、名称や姿が変わったり、今回の授業で取り上げるように、位や重要性がかわることもしばしばあります。毘盧遮那如来と大日如来は、名称は同じvairocanaなのですが、大乗仏教の『華厳経』では毘盧遮那と訳され、密教の時代には大日と一般的に訳します(原語がmahavairocanaにかわることもあります)。これは、同じ名称の仏でもその性格や位置づけがかわったからです。その一方で、密教の時代になってから、新しく登場する仏たちもたくさんいます。仏たちを見ることで、仏教のあり方がわかるのです。


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