密教美術の世界

授業への質問・感想

高校の世界史の授業でよく耳にした「ナーランダー僧院」をはじめて目にした。こんなに大きくて立派なものだとは知らなかった。この授業を取っていなかったら知ることなく終わっていたのかなぁと思うと得した気分になる。エジプトではピラミッドを作ったように、国家事業で巨大な僧院を作ったのかと思うと、また改めて仏教の偉大さを感じる。
「得した気分」というのはたしかにそのとおりかもしれません。同じ授業料を払っているのですから、できるだけたくさんの知識を学んだ方が得です。高校までの知識は体系的ではあっても表層的で、なかなか特定のテーマを深く学ぶことはできません。教養の授業にはさまざまな分野やテーマがあります。せっかく大学に入ったのですから、自分の専門以外のことをいろいろ学んで下さい。私の授業ではスライドで仏像などをたくさんお見せしていますが、できるだけ質のよいものを選ぶようにしています。その方がよいものを見極める目がそなわるからです。巨大な寺院や建物はたしかに国家的なレベルで建造されることが多いでしょう。日本でも東大寺の大仏殿に代表されるように、壮大な伽藍は政権のバックアップなしでは作り出せません。しかし、そのことがかならずしも仏教の偉大さを示すものではありません。むしろ、国家や政権と結びついた宗教はしばしば危険な様相を示します。イラク戦争におけるブッシュ大統領とキリスト教などは、最近のマスコミでもよく取り上げられます。また、建物を作る指示を出したのは為政者であっても、その制作に実際に携わったのは無数の民衆であることも、忘れてはいけないと思います。

酔象調伏の絵を見て、ひとつの絵に時間的に異なる状況を描くというのは、日本の絵巻の中にも似たような表現があったような気がして、何か関係があるのだろうかと思いました。(森注・他にも日本の絵巻物との関連を指摘してくれた方が数名いました)
ご指摘のとおりで、ひとつの絵に時間的に異なる状況を描く「異時同景図」は、日本の絵巻物の常套手段です。詞書きなどで切れ目を示すこともありますが、基本的にひとつの画面に複数の時間帯を表します。そのため、登場人物がひとつの画面に何度も現れることになります。しかし、このような手法は、けっしてインドの仏教美術や日本の絵巻物に限られているものではなく、説話的な内容を持つ絵画に普遍的に見られるものです。ヨーロッパの絵画はもちろん、未開民族の素朴な絵などにも広く現れます。むしろ、特定の決まった瞬間の、特定の視点のみから見た状態を描くという、われわれが学校の写生などで描く方法は、きわめて特殊な絵画なのかもしれません。発想の転換が必要なのです。次の文献は、絵画とは現実を切り取ったものではなく、フィクションつまり架空のことであるという視点からの、興味深い文献です。ちなみに執筆者の一人は建築家です。
千野香織、西 和夫 1991 『フィクションとしての絵画』ぺりかん社。

仏教の世界では天上界と地上界とあと何があるのですか。
「三界」とまとめて呼ばれ、欲界、色界、無色界からなります。地上や地獄、一部の天は、はじめの欲界に含まれます。仏教の宇宙観については、仏塔の時に詳しくお話しします。

「菩薩」という言葉を今までよく聞いてはいたけど、仏になるために修行していると聞いて奥が深いなぁと思った。そういう階級みたいなものはどれくらい仏教の世界にあるんですか。
仏教の仏たちの世界の内容については、次回の「仏教のパンテオン」で取り上げますが、上から順に仏(如来)、菩薩、女尊、明王、天などがグループ名としてあります。これの前に固有名詞である釈迦や観音、不動などがつきます(釈迦如来、観音菩薩、不動明王)。余計なことですが、皆さんの出席カードのコメントに「奥が深い」という表現がよく現れるのがおもしろいと思います。とくに宗教を対象にしているからかもしれませんが、どんな学問も基本的に「奥が深い」ものですし、反対に「底の浅い」と言われれば、当然、あまりうれしくありません。しかし、何がどのように「奥が深い」のか、なぜそう思うのかというところまで踏み込んで考えると、問題意識がより明確になります。

また寝てしまった。涅槃に入ったものとみなして下さい。マトゥラーの仏塔の目は全開でしたが、普通のは半開きで、上は天界、下で人間界を見てると聞いたのですが、マトゥラーのはどうなんですか。
世の中にはたくさん仏像の入門書や仏像辞典のようなものがありますが、ときどきあてにならないものや、かなりあやしいものも見られます。それを有名な学者や仏師が書いていることもあります。仏像の目が半開きであることの説明に限らず、いろいろな解釈が仏像の姿や形にあたえられるのはしかたがないのですが、それがどこまで妥当であるか、その典拠は何かを確認することが学問としては必要です。なお、涅槃に入っでも、できるだけはやく娑婆世界に戻ってきてくれるとありがたいです。

チベット仏教は密教なのかと疑問に思った。インドから伝わった仏教が個々の地域性によってかわることはあるのだろうか。
チベット仏教イコール密教ではありませんが、チベットの仏教のほとんどの宗派は、密教の要素を持っています。とくに「古派」という意味のニンマ派は顕著です。インドで生まれた仏教がアジア諸地域でどのように受容され、変容していったかは、アジア各地の仏教を考える上で大きな問題です。それぞれの地域でのあり方が、その地域の人々の文化や宗教観を如実に示すからです。次のような叢書もあります。
『佛教の受容と変容』全5巻 佼成出版社。

母の摩耶夫人は釈迦を産む前は普通の人だったのですか。釈迦を産んだのだから、人ではないかもしれないが、産んだことによって神となったのであれば、人でも神でもないのですか。
基本的に摩耶夫人は人です。インドでは輪廻思想が基本で、人も輪廻するのですが、神々の世界も輪廻の中に含まれています(天といいます)。摩耶夫人は釈迦を産んだあと数日でなくなり、次に生まれ変わったのが天界だったのです。その時点では神になっています(キリスト教やユダヤ教的な意味の神ではありません)。ただし、前回の回答でもふれたように、摩耶夫人信仰はたんに釈迦の母であることや、天の住人であるというだけではなく、「母なるもの」であることが重要だったようです。その結果、摩耶夫人への単独の信仰やさまざまな神話を生み出しました。八相の中の三道宝階降下のエピソードも、その一つです。また、釈迦が涅槃に入る直前に、摩耶夫人が天からおりてきて、これに対して、臨終の釈迦が起きあがるという物語も、経典の中にあります。この話はわが国で「釈迦金棺出現図」という有名な絵画をうみました(国宝・京都国立博物館所蔵)。

今日の講義には関係ないんですけど、仏教はインドで生まれたのに、今のインドはイスラムかヒンドゥー教だったと思うんですけど、どうして仏教誕生の地が違う宗教にかわってしまったのですか。
簡単に言ってしまえば、インドの宗教の中で仏教は異端の宗教だったからです。それは仏教が最高神の存在を認めず、あらゆるものの実在を否定したからです。逆に、インドで正統的な宗教は、ブラフマンと呼ばれる宇宙の根本原理や、ヴィシュヌやシヴァのような人格神を認めています。そして、この世界を、このような神々が顕現したものと考えます。仏教がなぜインドから姿を消してしまったのかという限定的な問題については、さまざまな説があります。たとえば、イスラム教の侵攻、支持基盤の喪失、ヒンドゥー教との違いが不明確になったことなどがあげられます。

三十二相がすべて表現された仏は存在しないのですか。この三十二相はいつ頃から考えられたとか、それぞれに意味はあるのかとか、わかっているのですか。32という数には意味はあるのですか。33は重要な数だとは聞いたことがあるのですが。
三十二相の中には実際に表現できないものや、具体的な形態ではないものも含まれています。肉髻や螺髪のように比較的、表現しやすいものを中心に、一部が実際の仏像に表されていると見るべきでしょう。三十二相は「阿含」(あごん)とよばれる初期の仏教経典にも現れ、かなり早い時期に成立したようです。大乗仏教の多くの経典にも登場しますが、三十二相の内容は文献の間で必ずしも一定しないようです。仏教辞典などでは『大智度論』のような、かなり後世の百科辞典的な文献にあげられている三十二相をしばしば紹介しています。32という数の意味は、経典などには明記されていないようです。一般的な解釈ですが、32はは2の5乗という「整った数」なので、一種の聖なる数とみなされたのでしょう。仏教には四諦八正道や十二支縁起、菩薩の十地のように、重要な項目に数がしばしば現れます(というより、むしろ数が限定されていないものがほとんどありません)。とくにどの数を仏教が重視したということはないようです。

三十二相のうちの白毫相では、なぜ眉間の白毛は右旋なのですか。仏像でも釈迦の従者も左右にいますが、仏教において右や左はそれぞれ何かの意味を持つのでしょうか。また、32や80などの数は7のような意味を持つのですか?仏教ではあまり偶数を好まず、奇数を大事にすると聞いたことがあるので不思議です。
基本的にインドは右を左よりも優位におきます。これはインドに限らず、世界中でほぼ普遍的に見られることです。この問題を扱った人類学の古典的な著作に、エルツの『右手の優越』という本もあります。釈迦の時代のインドでは、高貴な人に対し、右遶(うにょう)という挨拶の方法があります。対象が自分の右にくるように、右回りに回ります。このような対象には釈迦のようなものばかりでなく、仏塔などの建造物もあてはまります。仏塔の周囲には右遶道と呼ばれる道があり、信者はその周りを右回りに回って礼拝したようです。脇侍の位置ですが、実際の作例を見る限り、とくに左右に優劣を付けているのではないようです。数については、すでに上でも述べたように、仏教ではいろいろな数が登場しますが、とくにどの数字が重要であるということはありません。37、64、108などは、例外的によく知られた重要な数です。仏教が奇数をとくに大事にするということはないと思います。

「仏は何を食べても最上の味である」と三十二相の味中得上味相にありましたが、仏は何を食べるのですか。
何を食べるのでしょうね。釈迦を含む当時の出家者集団は、托鉢によって食事を得ていましたから、釈迦だけが特別なものを食べていたわけではありません。実際は悟っているのですから、何も食べなくてもいいのかもしれませんが、仏典ではあちこちで布施として食事をもらっています。涅槃、つまり亡くなる直前には、チュンダという信者から特別な食事をもらって食べるのですが、その後、体調を崩したことになっています。合理的に考えれば、もう80歳の年寄りだったのですから、なれないものを食べたのがよくなかったのかもしれません。このときに食べ物の内容は、キノコとか、豚肉とかいろいろな解釈があります。このエピソードを含む『涅槃経』は、釈迦の最期を淡々と記述する経典で、読むものの胸を打ちます。

仏教が一神教ではなく多神教なのは、キリスト教やイスラム教とルーツが違うからなのですか。
キリスト教とイスラム教、そしてそれらよりも古いユダヤ教は兄弟のような関係にある宗教で、まとめて「砂漠の宗教」とも呼ばれます。いずれも至高的な存在として絶対神をたてる点がが共通しています。仏教はこれらとは明らかに成立の背景も性格も異なる宗教です。ただし、宗教の入門書などで宗教を分類して説明するときに、一神教と多神教という区別はよく目にしますが、ひとつの宗教をこのうちのいずれかに分類するのは、実はかなり困難です。仏教でもパンテオンの総体を見れば多神教とすべきでしょうが、これらのすべての仏は大日如来に帰一するというような立場をとれば、一神教になります。このような仏教における絶対的な存在を「法身」(ほっしん)といいます。

インドの仏像は仏のまわりにたくさん人がいるなと思いました。でも坊主の人(僧)はいないなぁと思いました。仏塔を仏塔でデザインすることにはどんな意味があるのですか。
たしかに、バールフットの三道宝階降下の浮彫などでは、当然いるべき出家者たちが表されていません。釈迦を人間的な表現では表さないことと、このことを結びつけて考える研究者もいますが、その理由ははっきりわかりません。ただし、ガンダーラでは釈迦のまわりにしばしば弟子たちの姿が表されます。仏塔を仏塔で装飾することの意味も、明確ではありません。とくにアマラヴァティーとナーガールジュナコンダという南インドの遺跡で流行したようです。仏塔という装飾モティーフそのものはサーンチーやバールフットなどの北インドの仏教遺跡でも好まれましたが、入れ子式にはなっていません。南インドの仏教徒たちは独特の仏塔観を持っていたのかもしれません。

密教においては釈迦は如来の一部としてマンダラによく描かれますが、大日如来の変化法身としての存在を釈迦とするのであれば、密教は「仏教」とはいえないのではないでしょうか。密教が仏教である理由を知りたいです。
釈迦と大日如来の関係は、仏教における「仏身論」になります。大乗仏教で真理そのものを仏とみなした「法身」が現れると、歴史上の釈迦は「変化身」あるいは「応身」となります。これは法身が実際に人間の姿をとって衆生の前に現れたものです。このほかにも「報身」とよばれる阿弥陀如来のような仏もいます。大乗仏教の仏身論は、空間的にも時間的にも無限の世界に現れる無数の仏たちを、どのように関係づけるかを追求した結果です。密教の仏陀観も基本的に、このような大乗の仏身論を継承したものです。密教が仏教である理由は、彼ら自身がそのように主張したからですし、教理的には大乗仏教の伝統をそのまま受け継いでいます。ただし、大日如来のような一種の人格神をたてたのは、本来の仏教からは逸脱しています。私の先生のひとりは、密教はヴェーダーンタ(インドの正統的哲学学派の名で、梵我一如を主張する)と何ら変わらないと言っていました。なお、釈迦を中尊とするマンダラはほとんどありません。胎蔵マンダラには釈迦院があって、そのなかに釈迦も描かれますが、どちらかというと脇役のような部分です。

パーラ朝の仏教は、僧院を中心としていたが、他の王朝では仏教の中心はどこなのか。
パーラ朝以前でも僧院を中心としていました。ただしパーラ朝の僧院は、それまでのものとはくらべものにならないほど規模が大きく、しかも王朝の支援のもとで活動していたようです。逆に、王朝の衰退が、インドにおける仏教の弱体化をもたらしたようです。

5月4日に両親が京都国立博物館に行ったのですが、すごい人で、ゆっくり仏像等が見られなかったそうです。父親は途中で挫折したそうです。行くか行くまいか考えてしまいました。いろいろな意味で。
それは残念でした。先週「招待券あります」と宣伝した二つの展覧会のうち、京博の「空海と高野山」展のチケットは、研究室にわずかしか残っていなくて、希望者の方にじゅうぶん分けることができず残念でした。もう一方の「マンダラ---チベットとネパールの仏たち」は、まだかなり残っていますので、希望者は文学部の研究室まで来て下さい。仏像の展覧会は静かなところでゆっくり見たいものですね。話題の展覧会になってしまうと、なかなかそれはかないませんが。「空海と高野山」展はこの先1年近くかけて、東京、名古屋、和歌山を巡回します。名古屋や和歌山あたりは穴場ではないかと思います。機会があればそちらへどうぞ。


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