アジアのマンダラ

第11回 日本のマンダラ(1)
両界曼荼羅の系譜

日本のマンダラはなかなか多様です。インドではヒンドゥー教の神々などを合わせ、ともかく数を集める方針が主流だったように感じましたが、日本は儀礼などの目的にあわせて種々な形態をとる、いわば、より創作的な要素がマンダラに含まれているように思いました。
日本ではインドやチベットのように100種を越えるようなマンダラは生まれませんでしたが、別尊曼荼羅や今回取り上げるさまざまなマンダラをあわせると、数の上ではそれ以上になるかもしれません。いずれも「多様なマンダラ」と呼ぶことができますが、インドではマンダラの多様化の背景には、さまざまな密教経典の登場があったのに対し、日本ではマンダラを用いて行う修法やそれを説く儀軌が重要となります。さらに、神道や浄土教など、本来、密教とは直接関係のない宗教にも「マンダラ」と呼ばれる絵図があらわれたことが、日本独自の「マンダラの世界」を生み出しました。

種子マンダラの種子というのは、いわゆる梵字のことと思います。一種独特の文字ですが、いつ頃、どういう経緯で生まれたものでしょうか。
マンダラが作られた時代のインドの文字です。日本では「悉曇」(しっだん)と呼ばれることもありますが、これは書体の名称から付けられたものです。マンダラの仏たちを文字で表すのは、シンボルで表すことと同じ発想ですが、密教独自の瞑想法と関係します。マンダラやその中に含まれる仏たちは、密教の僧侶によって瞑想の中で生み出されます。このとき、瞑想のための核のようなものとして、これらの文字やシンボルが準備されます。これらの核をつぎつぎと変化させることで、仏の姿を作り上げていくのです。文字は音もともない、瞑想の過程で僧侶はそれぞれの文字を発音することもあったようです。

大仏頂曼荼羅は景色の中に仏がいて、遠くから見ると風景画のようだった。曼荼羅の種類の多さに非常におどろいた。
別尊曼荼羅の形態は、金剛界や胎蔵界にならった幾何学的なものと、景観や建造物を背景とする叙景型に大別できます。大仏頂曼荼羅は後者に含まれ、背景には山や川が描かれています。ほとんど同じ構成要素を持つ一字金輪の場合、八葉蓮華に描かれた前者のタイプと、空間の中に配した後者のタイプの両者があります。今回の授業で取り上げるように、叙景型が優勢になるのも、日本のマンダラの特徴のひとつにあげられます。

別尊曼荼羅になると、それまでのマンダラと比べてかなり単純になっていたが、このようなマンダラの多様化および単純化(簡単に作成可能?)も、平安時代の各種の儀礼、祈祷の隆盛と関係があったのだなぁと思った。
たしかに、インドのマンダラが複雑化、大規模化を進めていったのに対し、日本では別尊マンダラにみられるような多様化はあっても、規模の上では胎蔵や金剛界に比べるとはるかに単純なものになっています。別尊曼荼羅を用いて行う儀礼は、基本的には特定の尊格を本尊として行う祈願儀礼であるので、その尊格に若干の取り巻きをくわえた画像があれば、儀礼を行うには十分なのでしょう。別尊曼荼羅のような形のマンダラが日本でさかんに作られたのは、インド密教の初期的な段階で行われたこのような現世利益的な儀礼が平安時代の貴族社会とうまく結びついたからと考えられます。マンダラが「世界」を表すなどという考え方は、日本人にとってほとんど受け入れられていなかったのでしょう。

別尊曼荼羅の儀礼の私的な利用に対して、日本の僧たちのあいだでも反対のようなものはなかったのですか。
むしろ、積極的に私的な利用をすすめていったようです。空海や最澄につづく入唐僧たちは、それまで知られていなかった、より強力な修法(儀礼)と図像を求めて中国に渡りました。とくに天台は最澄が伝えた密教が空海のそれにくらべ不完全(というより特異)なものであったため、密教の導入により熱心でした。平安時代の密教儀礼は、護国的なものから私的なものへという流れでとらえることができますが、実際の経典や儀軌でこれらが区別されているわけではありません。たとえば、護国儀礼といっても中心にあるのは天皇の長命息災を願うものだったりするのですから、私的な修法とみなすことも可能です。朝廷や貴族の信を得るために、真言宗も天台宗もさまざまな修法を実践し、その効果をアピールしました。これを「験(げん)をきそう」といいます。場合によって、別の僧侶の行う修法を無力化させる修法も行われます。

自分の描いていたマンダラのイメージと少し違ったので、『五部心観』の描かれ方が新鮮でした。受けた印象としては、禅のイメージと重なったのですが、それとはまた関係はないのでしょうか。
『五部心観』や胎蔵図像、胎蔵旧図様のような白描集は、密教図像の中でかなりの割合を占めます。マンダラそのものではなく、その中に含まれる尊格のみを取り出した図像集です。ただし、五部心観には尊像以外にも各尊のマントラ、シンボル、印(両手を組み合わせて作るシンボリックな形)なども下段に描かれています。これは、この図像集が単なる「デザインブック」ではなく、それぞれの仏を瞑想するためのマニュアルとなっていたからです。五部心観は善無畏がインドから中国にもたらしたものが原本と考えられ、このような伝統がインドに由来することがわかります。チベットやネパールでもこのような瞑想のための図像集が何種類もありますが、同じルーツを持つのかもしれません。もちろん、その場合もマンダラなどの図像作品の下絵という性格もあわせ持ちます。

・灌頂の儀礼が胎蔵曼荼羅を用いて行われることの方が多かったのではないかとおっしゃっていましたが、その場合は胎蔵だけで両界を表していたということですか。「二つでひとつ」というのはわかるのですが、ひとつで二つを表すというのは、具体的にどういうことなのでしょうか。
・別尊曼荼羅は両界曼荼羅よりも小ぶりということですが、どれくらいの大きさなのですか。
本来、マンダラとはそれひとつで「仏の世界」を表しているのですから、二つある必要はないのですが、中国密教や日本密教では金剛界と胎蔵界の二つのマンダラで一具と扱われます。そのため、マンダラを用いる灌頂儀礼でも、これら二つのマンダラに順に入壇します。空海が中国で灌頂をうけたときも、はじめに胎蔵界で灌頂をうけ、数ヶ月後に金剛界での灌頂を行っています。二つのマンダラを用いる回数は、必ずしも同じではないのです。灌頂には「結縁灌頂」とよばれる在家信者向け(平安時代は社会的身分の上位の人に限られる)のものがありますが、その場合は、いずれか一方だけで行われます。(ちなみに、高野山では春と秋の連休の頃に、おもに観光客を対象に結縁灌頂をおこなっていますが、やはり金剛界と胎蔵のいずれかひとつで、通年で両方となります。)敷曼荼羅の表面が摩滅しているのは、灌頂で行われる「投華得仏」で、花(実際は葉っぱ)をマンダラの上に投げて、それを別の道具で引き寄せるためにできたと考えられます。とくに根拠があるわけではありませんが、摩滅の度合いは儀礼での使用頻度によるということで、胎蔵界を用いることが多かったのではないかと言いました。実際に史料などで確認できるかどうかわかりませんが・・・。別尊マンダラは一定の大きさがあるわけではありませんが、一般には長辺でも一メートル未満でしょう。儀礼を行う場に懸けて用いられたようです。

日本に砂マンダラを作るという発想が出なかったのでしょうか。壇を壊すのではなく、残すというのは、頻度によるか、金銭面での問題が絡むような気がします。灌頂の投華得仏の折り、投げる花は何の花でしょうか。大元帥法などを国家の大事にあたり、修法せよと命じるのは誰なのだろうか。やはり天皇直々か。その際、やはり真言、天台系統だけなのであろうか。気になります。
砂マンダラはチベットのマンダラを指す造語で、インドでは単に「マンダラ」と呼んだり「描かれたマンダラ」と言います。後者は「観想上のマンダラ」という瞑想の中のマンダラとの対比で用いられる用語です。漢訳の密教経典では「土壇曼荼羅」と訳されることもあり、制作方法は経典と通じて日本にも伝えられています。しかし、実際に作られたことはなかったようです。作り方はわかっても作る技術が伝わらなかったからかもしれません。また、インドでこのようなマンダラを作るのは、マンダラが儀礼の場の一部を構成するためでした。インドでは古代以来、儀礼の場は恒常的なものではないという考え方が伝統的にあるのですが、これも日本では一般的ではありません。頻度や金銭的な理由もあるかもしれませんが、それはインドやチベットでも同じことではないでしょうか。投華得仏で投げる花は、インドの文献ではとくに指定はされていませんが、日本では「樒」(しきみ)という木の葉を使います。3枚ほどの葉がつながった枝を合掌した両手の指先にはさみ、前方に投げるようです。大元帥法は、通常は天皇の代替わりの時に、正月の後七日御修法にかわって行われたそうですが、国家危急の時には臨時で行われます。指示はおそらく天皇でしょう(ただし、確認していませんので、自分で調べてみて下さい)。大元帥法は小栗栖の常暁が請来した修法で、基本的に真言に属します。大元帥明王という名前の恐ろしい尊像を特大の画像として準備し、これを本尊として行います。儀礼の場にはそのほかにも刀や弓矢などのさまざまな武器が並べられ、護国儀礼の究極的な姿を示しています。


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