アジアのマンダラ

第10回 日本のマンダラ(1)
両界曼荼羅の系譜

保存状態が悪い転写本が多く、とくに高雄曼荼羅については、金銀泥のきらびやかな様子を一度見てみたいと感じた。西院本と甲本における大日如来の図像学的違いが非常に面白かった。豊満な印象を受ける西院本と、すらりとした感じを受ける甲本の違いは、広隆寺と中宮寺の半跏思惟像の違いを思い出させた。
高雄曼荼羅はスライドをお見せするたびに、「少しもわからなくて残念」ということを言いますが、実物を見てもほとんど判読できません。おそらく赤外線などを用いれば、もとの線などはかなりわかるのでしょうが、肉眼では困難です。三十年ほど前に行われた調査報告が『高雄曼荼羅』というタイトルで刊行されています。これに収録されている図版では、各尊の様子がかなり明瞭にわかります(金大には残念ながら所蔵されていません)。また、高雄曼荼羅から転写した各尊の白描のひとつが「御室版」と言われますが、ここからもオリジナルの雰囲気を知ることができます(こちらは金大にあります。前回の参考文献参照)。なお、同じく金銀泥を用いた子島曼荼羅が保存がいいので、全体的な雰囲気はこちらからも想像することができます。コメントの後半にある、様式や特徴の違いをほかの作品と関係づけるのはとてもよいことです。多くの作品を見て、目を肥やして下さい。

日本のマンダラには「色の規定」はないのですか。金とか銀を使うのは中国、日本ではいかにもその文化にかなったことだと思うのですが。逆にチベットなどにはそうした金、銀のみで作ったマンダラなどはないのでしょうか。
日本の場合もマンダラの色は厳密に定められています。高雄曼荼羅や子島曼荼羅のように金銀泥のマンダラは例外です。なぜ、高雄曼荼羅が彩色本ではなく金銀泥で描かれたのかは、研究者のあいだでも定説がありません。マンダラをかけた寺院の内部空間は、ろうそくの光程度の明るさしかないため、彩色したものよりも金銀泥の方が、わかりやすかったり、神秘的な雰囲気を出すのに効果的であったという説をあげる人もいます。なお、密教図像には輪郭線のみで描いた白描図もあり、マンダラ全体が白描のものもありますが、これも特殊なものとみるべきでしょう。密教では図像を正確に伝えることがとても重要ですが、彩色するよりも白描の方が、細部の特徴などはより詳細に描くことができたのかもしれません。白描図像は日本の密教美術のなかで大きなウェイトを占めています。チベットのマンダラで金銀泥で描かれたものは見たことがありません。ただし、チベットの仏画(タンカと呼ばれます)の中には金や銀のみで描いたものがあります。地の色を黒くして、そこに金や銀の絵の具で描き、全体が黒いので「ナクタン」(黒いタンカ)と呼ばれます。ナクタンに描かれる尊格には忿怒尊が多く、その雰囲気によく合っているのでしょう。

インドの方と比べて、ここまで急にヴァリエーションがなくなるのはやはり不思議です。実物の他に、儀軌書のような文献はまったく伝わらなかったのでしょうか。
日本マンダラの展開は、請来本を中心とした両界曼荼羅の流れと、今回取り上げる別尊曼荼羅における多様化があげられます。さらに、密教以外の仏教や神道との交渉から生まれた浄土曼荼羅や社寺参詣曼荼羅、垂迹曼荼羅などがこれに加わります。ここには、インドで見たような密教内部でのマンダラの展開や多様化はほとんど認められません。日本に伝わった両界曼荼羅は、経典や儀軌のみからはこれらを描くことは不可能で、作品が規範となりました。日本のマンダラで文献が重要な役割を果たしたのは、別尊曼荼羅の方です。話は少しずれますが、同じマンダラでも細部が異なる場合があります。これは描き間違いのこともありますが、「阿闍梨の意楽(いぎょう)」と言って、製作を指揮する僧侶の意志が反映している場合もあります。そこでは、文献の記述よりも阿闍梨の嗜好(広い意味で)が優先されます。

西院本と甲本は、仏をよく観察しなければ、その違いに気づかないぐらい、細かい違いであり、系統で分けた人はすごいと思った。
全体の雰囲気が違うことは、気を付けて見ればわかると思います。また、授業であげたような細部の違いも、慣れないうちは同じように見えますが、じっくりと見続けていると相違点はわかるようになります。それはともかく、マンダラを含め密教美術の面白いところは、作品相互の系譜をたどることがしばしばできることです。その背景には、図像そのものが密教の中できわめて重要な位置を占め、その形を伝えることに細心の注意を払ったことがあげられます。たとえば、甲本と西院本の表情や身体表現の違いは、オリジナルの請来本が制作された中国の様式の違いに起因すると言われていますが、日本でもこれを忠実に受け継いでいったのです。

舎利・国家・皇帝の図式に興味を持ちました。仏教の目的が、国を鎮め人を幸せにすることであっても、なぜ舎利が国家と皇帝と結びつくのですか。やはり一番尊いものだからでしょうか。
中国や日本の密教の持つ鎮護国家の思想に、舎利が重要な役割を果たしているのは、そのような思想を説く経典があるからですが、その歴史や背景はもっと複雑です。そもそも舎利信仰の歴史は仏教の歴史とほとんどかさなります(釈迦が亡くなったときからあるのですから)。仏教における仏陀のイメージが、世俗の王と重なることも古くから見られますが、そこでも舎利は重要な役割を果たします。釈迦は自分の埋葬の方法として「転輪王のごとくに行え」と指示します。その方法とは荼毘に付した後、舎利をまつるための仏塔を建立するというものでした。その後、有名なマウリア朝のアショーカ王は、もともとあった仏塔から舎利を取り出し、八万四千の仏塔を新たに建立したと言われます。アショーカ王は仏教を保護したことで有名ですが、国家権力と仏教が結びついたときに重要な役割を果たしたのが舎利だったのです。

以前、舎利の話を聞いたときに思ったのですが、舎利とは仏の骨だと聞いていたのですが、どうしてそんなにたくさんあるのかと。実際には何を代用にしているのでしょうか。その代用品は仏舎利にする際に、聖別の儀式を行うのでしょうか。転写とはどのようにするのですか。上から紙等を重ねるぐらいしか思いつかないのですが。転写を行う人は僧ですか。仏師ですか。
ほんとにどうしてそんなにたくさんあるのか不思議です。玄奘の『大塔西域記』には、インドや中央アジアのあちこちで、仏舎利がまつられていることが伝えられています。そのほかにも釈迦の衣や托鉢の鉢などもまつられています。ある時期、インドから中国へは大量に舎利が輸出されていたようです。その一方で、たとえ釈迦であってもその骨に執着するのは仏教徒としておかしいという考えもあらわれ、釈迦の説いた教えそのものを大事にすべきという立場から、そのエッセンスをまとめたことばを、仏像などに刻むこともあったようです(このことばを法身舎利偈と言います)。舎利は空海も請来品として日本にもたらしましたし、空海の最晩年から行うようになった「後七日御修法」は、舎利を本尊とした鎮護国家の儀礼です。インドや中国と同様、日本でも舎利は国家や天皇と密接な関係を持ちます。たとえば、国が栄えているときは舎利も自然に増える(!)という信仰が平安時代に生まれ、東寺では毎年、舎利の数を数える儀式があったそうです。とはいっても、そんなに爆発的に増えることはなかったでしょうし、数には限りがあるため、日本では水晶などを舎利と見立ててまつることが一般的になりました(どんな儀式があったかは、寡聞にしてわかりません)。また、宝珠と舎利を同じものとみなすこともあります。平安時代の舎利信仰と国家や王権との関係は、つぎの阿部氏の論文が詳しいです。
阿部泰郎 1989 「宝珠と王権  中世王権と密教儀礼」『岩波講座東洋思想16日本思想2』岩波書店、pp. 116-169。
転写は紙であれば直接写すこともあったかもしれませんが、新しく作る作品も絹本などの布製品なので、すかして写すということはできなかったでしょう。横に置いて模写するという方法が多かったと思います。すぐれた絵師であれば、十分可能です。制作にあたったのは絵師の場合も僧侶の場合もあります。昔から、すぐれた密教僧の条件として、絵の才能があげられますし、実際、僧侶が描いたすぐれた仏画やマンダラが数多く伝えられています。

俗な質問ですが、空海はたくさんの仏像や仏具、教本を請来していますが、公費の留学僧として、それだけの資金があったのでしょうか。それとも空海独自の才覚で用意したのでしょうか。
このあたりは、歴史の分野になるので、私もよくわかりませんが、空海の請来した内容から見て、その費用は莫大なものが必要だったはずです。しかも、銀行も外国為替もない時代なのですから、唐でも使える価値のあるもの(たとえば金とか)を準備していったのでしょう。空海と最澄とでは、遣唐使の中でも格が全然違いますから(最澄の方がずっと上)、空海の場合、使える公費のようなものもおそらくわずかだったでしょう。ただし、たとえ資金が潤沢でも、当時の第一級の曼荼羅などを大量に作ることは容易ではなかったはずです。恵果をはじめとする当時の中国密教の有力者たちが、全面的にバックアップをして、はじめて可能になったと考えられます。

胎蔵界曼荼羅など、何が描いてあるかわからない。マンダラをはっきりと見る方法はないのですか。X線などを使っても無理なのでしょうか。
請来本の大きさであれば、一辺が4?以上もあるので、保存さえ良ければ細部まではっきり見ることができます。授業でお見せしているスライドは、ほとんどが出版物からスキャンしたものなので、細部はよくわからなくなっていますが、現物は違います。西院本は2?足らずなので、かなり小さいのですが、それでも近づけばきちんと見えます。ただし、両界マンダラの作例は数多くあって、後世の小品では、かなりいい加減に書いてあるものもあります。いずれにしても、展覧会などで実際に現物を見る機会があればいいのですが。

請来本などの歴史を見たときに、転写というものは、長いタイムスパンをとって行われていたようですが、このようにマンダラをわずかにしか生産しないというのは、それだけマンダラを扱うということが、日本においては特権的なお寺でしか行われなかったということなのですか。マンダラの廉価版というべきものというのを、もう少し作っていても良さそうなのですが。それは密教が俗化するという理由からだめかなぁ。
請来本の転写というものが何百年ごとにしか行われなかったのは、たしかに不思議ですね。請来本やその転写本は、真言宗にとってかけがえのない宝であったはずですし、簡単に見ることはできなかったでしょうから、その複製品をむやみに作ることも許されなかったと思います。また、実際に請来本の系統の作品が東寺と金剛峯寺にしか残っていないのも、転写という作業が国家的な事業であったことを表しています。しかし、それなら正統の転写本がもう少しよい状態で伝えられてしかるべきという気もします。西院本などは実際、保存状態もかなり良好なのですから・・・。このあたりのことは、日本仏教史の知識が必要なようです。


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