アジアのマンダラ

第9回 中国のマンダラ
中国密教と法門寺

中国にはひとつもマンダラが残ってないのは何か理由があったんでしょうか。ひとつもないというのは、どう考えても意図的にしか考えられないんですけど。
中国にマンダラが残っていない理由は、私にもよくわかりませんが、密教そのものが、かなりはやく中国から姿を消したことが決定的だったのでしょう。日本と同じように密教が残っていれば、マンダラは寺院の荘厳や儀式の道具などとして大切にされたはずです。唐の時代には、空海より後にも日本からいわゆる入唐僧らがつぎつぎと訪れ、数多くの図像作品を日本に請来しています。密教が衰退したのは宋代以降のようです。宗教というのはいったん衰退してしまえば、それに付随するさまざまな文化も同じように姿を消してしまうようです。紙や布に描かれたマンダラの運命も同様でしょう。

何か今日は歴史の授業を聞いているようだった。玄奘が中国への密教伝来に関係していたのはおどろいた。
たしかにそうですね。マンダラをあつかう場合、マンダラのもつ普遍的な原理や理念を考える場合はともかく、変遷や伝承にかかわる場合、歴史的な視点から見ることが基本になるでしょう。私自身、マンダラを文化史的にとらえることに関心がありますし、歴史そのものも昔から好きです。玄奘や義浄は意識的に密教を伝来をしたわけではありませんが、彼らがインドを訪れた時代は密教の萌芽期で、『金剛頂経』や『大日経』が徐々に形成されている頃でした。『大唐西域記』に密教に関する記述が現れないことが昔から研究者によって疑問視されていましたが、おそらく当時のインドでも、後世に流行するようなかたちの密教はまだ姿を見せていなかったようです。

三面鏡のような、扉を閉じると筒になるという諸尊仏龕は、すごくかわいらしくて、一目惚れしました。さらに、八重宝函も素敵で、欲しくなりました。箱の蓋とその側面に描かれた仏も、でたらめに描かれているのではなく、金剛界マンダラが描かれているということだったが、いろいろなところにマンダラの配置が見られるということが、改めてわかった。
諸尊仏龕は空海の「枕本尊」とも呼ばれていて、携帯用の仏壇のようなものです。『御請来目録』という空海が書いた留学報告書(朝廷に提出する)の中にも言及があり、由緒の点でも超一級の資料です。請来目録記載の物品としては、東寺に残る真言八祖像が現存しますが、今回取り上げる両界曼荼羅をはじめ、ほとんど散逸してしまっています。なお、この作品は国宝なので、所持すると維持がたいへんです。法門寺の八重宝函もその価値からすれば国宝級です。この宝函は唐代のマンダラ関連作品として貴重ですが、その中に舎利がおさめられているということも注目すべきでしょう。今回はじめに紹介する奉真身菩薩も、舎利と結びついています。さらに地宮の上にあった塔を「真身舎利塔」と呼んでいたように、この寺院そのものの崇拝の中心に舎利があり、それが鎮護国家や皇帝崇拝とも結びついていました。このことはマンダラが持つ機能にも関わり、注目されます。

今までは空海は悟りを開いたようなイメージがあったが、密教の流れをうけていたのかとはじめて知った。密教についての年表でもこれだけあるなら、他の派も含めたらすごい年表ができそうだ。
空海が悟りを開いたというのは、真言宗では当然そのように考えていますし、大日如来と同じともいわれます。それとは別に、中世以来、大師信仰というかたちで空海そのものが礼拝されるようになります。これは弥勒信仰とも結びつき、救済者としての弘法大師というイメージを定着させます。年表と地図は基本的な資料なので時々配布しますが、歴史とは単なる過去の事実や人物の羅列ではないので、その背後にある社会や人々に思いをはせて下さい。

以前、愛知県にあるリトルワールドというところに行きました。ネパールの仏教寺院が復元してあって、壁一面に仏がたくさん描かれていたのを覚えています。また、一回まわすと何回かお経を唱えたことになるという銅の鐘のようなものがありました。
リトルワールドは私も以前名古屋在住のときに2、3回行ったことがあります。オープンしたのがたしか学部の学生の頃で、そのセレモニーも見に行きました。本学の人類学の鹿野先生や鏡味先生が関係しておられます。ネパールのお寺はネパールの山岳地帯にすんでいるチベット系のシェルパ族の寺院だったと思います。私が訪れたときは、まだせっせと画家が壁に絵を描いていました。チベット語で仏の名前などを言うと、喜んでくれました。「1回まわす云々」というのは「マニコル」と呼ばれるもので、中に観音のマントラ(真言)が入れてあり、これを唱えたことになります(ただし、1回まわして1回唱えたことにはなりますが、たくさんではありません)。携帯用のマニコルは、よくチベット人が手に持って回しながら歩いています。なお、リトルワールドは経営が危ないという話も聞くので、見に行くなら今のうちかもしれません。

板彫のマンダラが興味深かった。やはり板彫のマンダラもさまざまな儀式をへて作られるのだとは思いますが、どのような儀式になるのでしょうか。今までのマンダラとは違いますよね。
あまり考えたことがなかったので、適切な答えが思い浮かびません。板彫という形式そのものも、インドやチベットではまったく見ることがないので、中国や日本に特有ではないかと思います。板彫というのは一種の浮彫なので、彫刻として見るべきかもしれません。このほかに銅板を押し出して(つまり、でこぼこを作り)、たがねで毛彫りして作ったマンダラもあります。絵画とは別の工芸技術を要求される手法です。これらのマンダラは儀礼のために作られる砂マンダラとは異なり、恒久的に保存することを前提にしていると思います。灌頂と結びついた儀礼のためのマンダラのように、制作前に儀礼が行われることは、おそらくなかったのではないでしょうか(何らかの手続きはあったと思いますが・・・)。

「龕」や「鈴」は何かの儀礼に使うものなのですか。「龕」はなんだか仏壇を、「鈴」は仏壇の前で鳴らす鐘を連想しました。
龕はかならずしも仏教用語ではなく、仏像などを安置するくぼみを指すことばで、英語のnitchに相当します。鈴は密教の僧侶が手にする仏具で、中に金属製の「舌」があります。「すず」ではなく「れい」と読みます。日本の真言宗の僧侶も儀式の中で持っていますし、チベットやネパールでも広く普及しています。

法門寺の地宮を発見した人たちの驚きと興奮は計り知れないものだったと思う。盗掘にもあわずに当時の雰囲気をそのまま伝える地宮が残っていて、本当にすばらしいと思った。中国は広いので、そういったものがまだどこかにあるのではないかと思い、どきどきする。
ほんとうにそうですね。法門寺の地宮の発見は今からわずか20年ぐらい前のことで、9世紀のままの姿が、突然現れたわけですから。中国というのは日本のすぐ隣の国なのに、大陸と島との違いなのか、あらゆる点でまったく別の国のように感じます。中央アジアやチベットを含め、中国にはまだまだいろいろな文化遺産が眠っているのでしょう。

私の実家は真言宗です。こんなところで空海の名前が出てくるとは思わなかったので、おどろきました。宗教のつながり(あるいは広がり)ってすごいですね。
マンダラであれば当然空海は最重要人物のひとりとして登場します。何といっても、日本にはじめてマンダラとその教えを伝えたのが、空海なのですから。中国密教を扱うと、当時、インド、中国、東南アジア、そして日本という広範な地域が、密教やマンダラで緊密に結びついていることに驚かされます。日本のマンダラに描かれている仏たちと同じすがたを、インドの仏像に見ることさえあります。ところで、真言宗内部では空海という呼称は用いられず、「弘法大師」あるいは親しみと敬意を込めて「お大師さま」と呼びます。

板彫曼荼羅において金剛界マンダラは忠実に再現されているのに、胎蔵界マンダラがヴァリエーション豊かである理由はなぜなのかを知りたい。真身五重宝函は、今まで見てきたマンダラとは異なる箱に描かれるマンダラで、非常に面白い例だと感じた。
胎蔵界マンダラはこのほかにも『胎蔵図像』や『胎蔵旧図様』のような過渡的な作品もあり、形態や特徴が異なる作例がいくつも残されています。もともと胎蔵は金剛界よりも前に成立したマンダラで、それだけ、まだ未発達な要素が残されています。たとえば、三尊形式を背景にしているので、左右ばかりではなく上下にも広がりを持つマンダラの構図にあうようにさまざまに加工されます。いっぽう、金剛界マンダラは全体のシステムがすでに完成されているようなもので、これに手を加えることは困難です。ただし、胎蔵マンダラほどではありませんが、現存する金剛界曼荼羅の作例を比較すると、仏たちの姿などの細部に違いがありそこから系譜や影響関係を探ることもできます。


(c) MORI Masahide, All rights reserved.