アジアのマンダラ

第5回 マンダラの歴史(1)
秘密集会マンダラと法界語自在マンダラ

なぜ、ヒンドゥー教の神を敵とみなすのか。仏教とヒンドゥー教はそんなに仲が悪いのか。
たぶん、そんなに仲が悪くなかったでしょう。仏教はインド内部においては「異端」とも呼ぶべき宗教ですが(たとえば神の実在を認めない)、外来のイスラム教などとくらべれば、仏教もヒンドゥー教も同じ仲間とみなすことができます。もっとも、ヒンドゥー教徒にとって仏教はすでにライバルではなかったでしょう。密教の時代、仏教は長期凋落傾向にあり、一般の信者もつぎつぎとヒンドゥー教徒に変わっていったと思われます。儀礼や図像にみられるように、仏教のもつイメージそのものがヒンドゥー教とかわりがないものになっていったことや、一般信徒にとって重要な人生儀礼に仏教が関与していなかったことなどが、その理由にあげられるでしょう。密教文献の中でヒンドゥー教の神を敵とするのは、仏教がこのような「仮想の敵」を作らなければ、やっていけなくなったことのあらわれです。さらに時代が下って、11世紀頃に成立した『時輪タントラ』では、仏教徒とヒンドゥー教徒が連帯してイスラム教に対抗しようと説いています。事態はさらに切迫していたからでしょう。

八十一尊マンダラは天台宗を中心に伝わっているということですが、真言密教と天台密教では、マンダラにかなり違いがありますか。
あります。もともと、日本にマンダラを本格的に伝えたのは空海ですが、同じ時期に唐にわたった最澄は、マンダラについての知識も、その実物も日本にもたらすことができませんでした。そのため、後年、空海から灌頂をうけたり、重要な文献を借用したりしています。もともと、最澄が関心があったのは法華経とそれにもとづく天台教学で、密教という存在そのものもほとんど意識していなかったようです。天台内部で密教が体系的に学ばれるようになったのは、次の世代の円仁、円珍以降です。八十一尊マンダラは基本的には真言の九会曼荼羅の成身会に相当します。真言にも同じ形式のマンダラは伝わっているようです。日本におけるマンダラの独自の展開に「別尊曼荼羅」がありますが、これはマンダラごとにさまざまな修法が定められ、平安時代の皇族や貴族のために、しばしば行われました。真言と天台で得意とする修法があり、それに応じて、マンダラの種類も両者で異なります。日本のマンダラのところでくわしくみるつもりです。

仏教は全体や世界という概念に対し、無関心ということでしたが、それはどういうことですか。
インドでは、宇宙をひとつの生命体と考え、さらにそれは唯一なる原理(「ブラフマン」つまり「梵」といいます)が展開したものであると考えました。しかも、それがわれわれ一人一人が持っている自我(アートマン)と、本質的には異ならないと主張しました。これが、古代インドの思想を代表する「梵我一如」の考え方です。その後、この唯一なる原理が神格化されて、絶対神とみなされるようになり、それに対し、そのような存在を認めず、さらにわれわれの自我のようなものも存在しないとみなす仏教が現れました。釈迦が開いた悟りの内容の根幹に、世界全体を「五蘊」としてとらえる考えがあります。授業でも言及していますが、五蘊の内容は存在物全体を表す「色」と、それを認識する側の「受」以下の四種で構成されます。そこにはブラフマンも神も登場しません。

ひとつの砂マンダラを作るのにはたいへん手間がかかりそうですが、どのくらいの時間がかかるのでしょうか。
現在のチベットでは数週間というのが普通のようです。マンダラの種類によって、単純なものから複雑なものまでありますので、それによってかなり違いがあるようです。また、日本密教が伝える伝統的なマンダラの制作法は「七日作壇法」と呼ばれ、土地の選定から完成まで一週間で行われたようです。これは、インドの文献からも確認されますので、インドでは、もう少し早く作ったのではないかと思います(記録があまり残っていないのでよくわかりませんが)。

胎蔵マンダラにくらべると金剛界マンダラは非常に複雑であると感じた。結局、日本の金剛界マンダラは『金剛頂経』の二十八種類のマンダラをまとめたものであると解釈しいいのかという疑問点が残った。金剛界マンダラは経典の中にその図像が記されていないという話があったが、それならば、どのようにして金剛界マンダラは制作され、受け継がれていったのかを教えてほしい。
はじめの疑問はたしかにそうですね。なぜ九会曼荼羅のような形式が現れたのかは、授業でも言ったように、よく分かっていません。中国で成立したのはたしかですが、だれが、何を根拠に考えついたのかは謎です。システムとしては四大品(四部族)と6種のマンダラというのは、確固としたものですが、これが突然できたわけではないことも分かっています。はじめは金剛界品のみが経典として成立しました。このテキストは不空(ふくう)による漢訳経典として残っています。6種のマンダラというマンダラの多様化がはじめにあったということです。その後、降三世品以下の三つの部分が増広されていったことになります。降三世品のはじめの部分(つまり、大マンダラと三昧耶マンダラのみを説く)ができたところで、九会曼荼羅が考え出されたという可能性もありますが、降三世品においても六種のマンダラというセットが重要であったはずなので、むずかしいかもしれません。また、そのような文献も現存していません。後半については、密教経典全般にいえることですが、マンダラや儀礼についてのすべての情報が文字化されているわけではなく、「口伝」という形で、その多くが伝えられてきました。重要なことであればあるほど、文字には表さないという傾向があります。これは仏教だけではなく、古代のヴェーダの宗教以来の伝統です。しかし、それでは複雑な儀礼やマンダラのようなものを扱うのに支障があるので、根本経典に説明を加えた釈タントラや続タントラのような経典や、儀軌、注釈書が多数現れるようになります。口誦伝承と文字文化がせめぎ合っていたようです。

今こうしてみているマンダラ(壁に描かれたマンダラ)と、壊してしまうマンダラは、意味・作られたいとは違うのでしょうか。これから見ていくマンダラh、あまり日本に伝わっていないということですが、なぜ伝わらなかったのですか。日本の密教世界ではチベットと同じような発展の仕方をしなかったということですか。
たしかに、壁画のマンダラを儀礼のためのマンダラは、制作の意図が違うでしょう。前者は装飾、後者は儀礼の装置と見ることができます。壁画としてのマンダラは、それが描かれた建造物全体のプランにも関係します。寺院のような建造物は、それ自体がしばしばコスモスを表します。そのような象徴性を強固にするために、マンダラが「素材」としても使われるのです。このような発想はインドの仏教寺院ではほとんどなかったようですが、チベットでは主流になります。しかも、まだインドに仏教が残っていた時期に、ラダックのアルチ寺のように、すでにマンダラをこのような素材として使った寺院がチベット文化圏では建立されています。インドとチベットでは建造物内部の空間をどのように処理するのかという考え方が、根本的に異なるのでしょう。二つ目の質問については、日本とチベットとでは、密教の展開の違いはまったく異なります。密教は空海をはじめとする「入唐僧」たちによって、平安時代の初期から中期にかけて日本にもたらされました。この時代の中国は唐代です。チベットで主流となる「無上瑜伽密教」がインドで流行したのはそれよりも後のことです。宋代にもこのうちのいくつかの密教経典が漢訳されましたが、これは中国仏教にも日本仏教にもほとんど影響を与えませんでした。今回の授業で取り上げる「秘密集会マンダラ」を説く『秘密集会タントラ』などもそのひとつです。内容が伝統的な仏教とはかけ離れていることや、密教そのものがその時代の中国にとって魅力を失っていたことが、背景にあるようです。

なぜ、胎蔵マンダラは中期密教以降すたれてしまったのですか。世界の考え方が変わったのですか。秘密集会マンダラにおいては、尊格それ自体は、あまり重要性がないのですか?そう思えたのですが(尊格に対応するものに意味があるように)。
仏の世界の基本が、『金剛頂経』の四部からさらに発展した五部が主流になったことが大きな要因でしょう。五部というのは中心と四方という組合せになるので、マンダラを作る上では好都合です。歴史的にみて、インド内部で『大日経』や胎蔵マンダラが発展するということはなかったようですが、チベットには胎蔵マンダラの作例はいくつか残っています。胎蔵マンダラの中心の大日如来(胎蔵大日といいます)も、いろいろなところに古い作例があることが、最近の研究で明らかになりつつあります。日本ほどではありませんが、このマンダラの伝統がある程度強固であったことがわかります。秘密集会マンダラの尊格については、それが象徴する仏教の教理や概念の話を先にしたので、そのような印象を持ったと思います。尊格そのものも重要です。今回改めて取り上げます。

他宗教の神を中心にすえたマンダラの存在にはおどろいた。仏教、キリスト教、イスラム教間で発生するとは考えにくい事象だと思った。
降三世品の付属の四つのマンダラ(三世輪のマンダラ)は、インドのマンダラの歴史においてもユニークな存在です。しかし、これ以降の無上瑜伽密教に現れるマンダラの多くは、中心にグロテスクな姿の仏をおいたものが数多くあります。これらは仏教の仏ではありますが、そのイメージはヒンドゥー教のシヴァなどと変わるものではありません。三世輪のマンダラの主役である大自在天は、このシヴァと同一視されています。『金剛頂経』以降のマンダラにこのマンダラが大きな影響を与えたことが、このようなところにも認められます。なお、授業で紹介したペンコル・チョルテンの壁画のマンダラは、これらのマンダラの現存する作例としてはおそらく唯一のものです。これを含め、ペンコルは後期の授業でくわしく見るつもりです。

チベットのマンダラが青、緑、黄色、赤と色分けされるのは、おのおのの色や順序に何か意味があるのですか。
各方角に対応する部族の上首の仏の色です。たとえば、阿◎は青、宝生は黄色、阿弥陀は赤、不空成就は緑となります。それ以外の仏の場合も、五部に配当されるので、同じ部族であれば同じ色(たとえば金剛部は青)になります。別の説明として、マンダラの楼閣がある須弥山(しゅみせん)は、四方がルビーやラピスラズリなどの四つの宝石でできていて、これが反射しているとも言われます。

小宇宙と大宇宙という思想は、どこでいつ頃生まれたものなのでしょうか。密教には自然に取り入れられている気がするのですが。
前にも書いたように、大宇宙であるブラフマンと小宇宙であるアートマンについての考察は、古代インドのウパニシャッドの哲学ですでに確立しています。密教の大日如来をブラフマンと見れば、密教はインドの正統的な思想ときわめて近い関係にあります。大宇宙と小宇宙とに関する考察は、決してインドだけではなく、人類の思想や神秘主義のもっとも基本的なものののひとつです。大宇宙はわれわれを取り巻く森羅万象、小宇宙はわれわれ自身、とくに身体や生命ととらえれば、現代の環境問題や生物学、宇宙論なども、同じことを言っているように見えます。

仏像のフィギュアってご存じですか?子ども向けお菓子のコーナーにあります。180円ぐらいで。五大明王とか四天王とかなかなかよいです。あなどれません。友人は降三世がほしくて買いあさっておりまして、私は大威徳が手に入ってよろこんでいます。
比較文化研究室でも一部で話題になっています。大威徳と金剛夜叉を見せてもらいました。たしかになかなかよくできています。イメージの基本的なところは東寺講堂の五大明王のようですが、慶派の四天王の様式なども参考にされているのではないかと分析?しています(平安初期と鎌倉初期なのでずいぶん違うのですが)。ちなみに監修者の松村一男氏は神話学の専門で、以前は天理大、現在は和光大にいらっしゃいます。インド関係の著作もある方です。

胎蔵、金剛界、秘密集会と三つのマンダラについて今までやりましたが、どれも奥が深くて内容が濃く、10分の1も理解できていない気がします。もっともっと深くじっくり学び、理解を深めたいと思いました。仏と一体になるとはどのようなものなのか、一度体験してみたいです。
マンダラの背景となる考え方は、われわれの日常生活や歴史とはほとんど無縁のことなので、わかりにくいかもしれません。できるだけわかりやすいように努力はしているのですが・・・。秘密集会については、今回改めて説明します。無上瑜伽のマンダラになると仏の名前にもなじみがなくなります。構成原理のようなものだけでも「ああ、そういうことか」と思えればいいのではないでしょうか。「仏と一体となる体験」は、トランスとか恍惚感とかいうものをさらに越えた神秘体験でしょうが、いったいどのようなものでしょうね。。密教の研究者の中には、一部ですが自分でこのような体験をめざす人もいます(私の先生もそうでした)。しかし、仏と一体となるとは「別の世界」に行ってしまうということですから、かなり危険なことです。かつて、欧米の若者を中心に東洋の神秘思想が流行したとき(オウムなどもその末裔です)、ドラッグなどの力を借りてこのような体験をめざす人が多くいました。

日本では女尊が崇められることが少ないように思いますが、秘密集会マンダラなどには男尊に対応するなくてはならないもののような存在として、女尊が登場しているように感じられます。ヒンドゥー教の主な神々が皆、妃をめとっているのにも似ている気がします。日本にはそういう発想がないようですが、文化的なものでしょうか。
そのとおりですね。インド密教では時代が下るほど、パンテオンの中に女尊が占める割合が増えていきます。次に取り上げるもタントラ系のマンダラは、主尊のみが男尊で、それ以外がすべて女尊とか、女尊のみで構成されたマンダラなどもたくさんあります。ヒンドゥー教の影響もありますし、もっと土着的な女神信仰も関係するようです。日本密教で女尊がそれほど重要でなかったのは、日本に伝わった段階の密教では、彼女らが重要な位置になかったこともあげられるでしょう。文化的といえなくもないですが、アマテラスを最高神にする神道も日本にはあります。以前に東京で「女神たちの日本」という展覧会があり、日本の宗教にも多様な女神がいることを再確認しました。

画家前田常作氏の絵画を見ると、一体の尊格も描かれていないものであっても「これはマンダラだ」と認めてしまいます。なぜか自分なりに考えたのですが、円や方形が多く使われている放射状の配置が多く、宇宙的な拡がりを連想させることなどしか思い当たりません。人をして「これはマンダラだ」と認識させる最勝の条件とは何だろうかと考えてしまいます。
「マンダラとは何か」は人によって違いますし、歴史的な文脈と芸術的な文脈ではさらに異なります。前田常作氏はマンダラを制作の基礎のおいた画家として有名で、その作品も高く評価されているようです。日本のマンダラだけではなく、チベットのものにもインスピレーションをうけているようです。デザイナーの杉浦康平氏もマンダラに造詣が深い芸術家です。マンダラの持つ形態だけではなく、宇宙や生命とつながりを持つデザインが、彼らにとって大きな意味があるのでしょう。以前、富山県[立山博物館]に行ったときに、前田氏の作品がいくつかありました。立山は「立山曼荼羅」が有名で、この博物館にはチベットのマンダラのコレクションもあります。また、太閤山という公園に行ったら、前田氏がデザインした噴水で、マンダラをデザインの基調にしたものがあり驚かされました。富山県にはチベットのマンダラを中心とした利賀村の瞑想の郷などもあり、県全体でマンダラに積極的に関わっているようです。


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