アジアのマンダラ

第4回 マンダラの歴史(1)
金剛界マンダラ

本でマンダラを見ると「西院本」とか「伝真言院」とか書いてありますが、どういう意味でしょうか。
授業出よくお見せする東寺の国宝の両界曼荼羅は、かつては「伝真言院曼荼羅」と呼ばれていました。これは、東寺の僧侶たちが中心になって行っていた「後七日御修法」(ごしちにちみしほ)という儀式で用いられたと伝えられていたからです。真言院とはこの儀礼専用の宮中の建物です。この儀礼は現在でも東寺で行われていますが、他の真言密教の儀礼と同様、両界曼荼羅を東西に向かい合わせになるように懸けます。しかし、最近の研究で、このマンダラはどうも真言院に懸けられていたものではなく、「西院」という別の建物にあったという説が有力になってきました。そのため、最近の本などは「西院本」という呼称を用いることが多くなりました。
柳沢 孝(監修) 1994 『東寺の両界曼荼羅 ---- 連綿たる系譜・甲本と西院本』東寺宝物館。

菩薩が水牛に乗っているというのは、ハスの花と同じように、水牛という動物に何か特別な意味があるのですか。また、サンスクリット語で「宝石」だと紹介された「マニ」は、どこかの国の言葉で「手」だと聞きましたが(「マニキュア」など)、両者の間に語源的な関連はありますか。
水牛はインドでも重要な家畜で、農作業などでしばしば用いられます。仏像に現れる水牛はおそらくヒンドゥー教の神々から取り入れられたものです。有名なヒンドゥー教の女神に「マヒシャースラマルディニー」という神様がいますが、「水牛の悪魔を殺す女神」というのがその意味です。実際に水牛を殺す姿でしばしば描かれます。しかし、さらにさかのぼれば、西アジアの古い時代の宗教で、水牛と女神に対する信仰があったようです。仏教では文殊が水牛と結びつきますが、この起源も同じあたりにまでさかのぼることができます。詳しくは私の『インド密教の仏たち』の第三章をお読み下さい。手を表す「マニ」については、ラテン語のmanusと、その流れを汲むフランス語のmain、イタリア語のmano、スペイン語のmanoなどが関係するようで、祖語として*m n-が想定されているようです(風間喜代三 1990 『ことばの身体誌:インド・ヨーロッパ文化の原像へ**−』平凡社)。サンスクリットでは「手」を表す語彙はhastaかp公iなので、系統が異なります。なお「宝」を表す ma.niは mani と若干、発音が異なります(?ヘ反舌音)。

胎蔵界では部屋を院、金剛界では会という違いが興味深かった。また、金剛界の仏のほとんどが人工的に作られたということにたいへん驚いた。
金剛界の会というのは、部屋とは少し異なるようで、曼荼羅のひとつの単位のようなものです。実際、チベットなどでは、成身会などのそれぞれが単独のマンダラとして作られ、それが正統的です。ちなみに、金剛界のマンダラの中に見られる井桁で区切られたところが「部屋」に相当します。建物内部は個室に分かれていて、五仏や十六大菩薩がすわっているようです。ただし、壁はないようで、柱だけです(井桁のデザインは柱です)。金剛界の仏が人工的なものというのは、先回の授業で強調したところですが、実際はすべて新しく発明するのはむずかしかったようで、伝統的な仏たち(観音や文殊)が名前を変えて登場することもあります。また賢劫十六尊や賢劫千仏のように、マンダラの外側には、大乗仏教の仏たちをあてます。そこまで徹底できなかったのか、あるいは伝統的な仏を含むことで、正当性を示したかったようです。ヒンドゥー教の神も同様に登場します。

マンダラを見てみると、四角と丸の組み合わせだと思うのですが、四角、丸という形に意味はありますか。丸に関して言えば、日輪、月輪、perfectなイメージがあるのですが。儀式に用いる物も仏(菩薩)にしてしまうのですね。
四角や丸にはもちろん、意味があります。しかし、それは何かひとつだけではなく、さまざまなレベル、つまり仏教の教理的なものから、人類が持つ普遍的なものまでさまざまです。あげておられる「完全性」のようなものもその中に含まれます。マンダラが基本的に丸と正方形で表されるのは、マンダラに表されている「仏の世界」が、「完全なもの」でなければならないからでしょう。マンダラに現れる仏には、このあといろいろなものが出てきます。なかには、たとえば「音」を仏にしたようなものもあります。マンダラを新しく作るためには、顔ぶれも一新しなければいけないのでたいへんです。

先生は展覧会などでマンダラを見るときに、どのような点に注目して楽しみますか。参考までに教えて下さい。
とくにマンダラにかぎって特別な見方をすることはないと思いますが、自分の専門のものと、そうではないものでずいぶん違います。よく知っている作品、とくにインド、チベット関係のものは、細部にまで目を向け、これまで知らなかったことがないか、気を付けてみます。写真と実物との印象の違いなども重要だと思っています。専門外の作品は、一般の人とそれほどかわらないと思いますが、できるだけ図録やキャプションの情報を身につけてから見られるといいですね(図録はたいてい見てから買うことになりますが)。一番いいのは、その分野の専門の人といっしょに、ポイントを教えてもらいながら見ることでしょう。金沢ではあまり展覧会がないのが残念です。広坂にできる新しい美術館に期待したいところです。

東西南北がいつも東が上になってるのはどうしてですか。
胎蔵では上が東ですが、金剛界は上が西になります。180°かわっているのはマンダラを見るものの視点が違うからという説もあります。胎蔵まではマンダラは礼拝の対象としての性格が強いので、それを見るものは対面していたが、金剛界以降では、マンダラの中尊と一体となる観法が主流になったので、視点が逆になるというのです。ただし、壁画や絵画の場合は上下がありますが、地面の上に作る場合は、実際の方角にあわせればいいので、関係ありません。

梵字のマンダラは胎蔵界のものしか存在していないのか。
金剛界もあります。基本的にどのマンダラでも、仏を文字で象徴したこのようなマンダラがあります。ただし、日本以外ではあまり現存作例はありません。マンダラの仏たちを象徴するこのような梵字は「種子」(しゅじ)と呼ばれます。授業では省略してしまいましたが、マンダラを瞑想するときに、はじめにこのような種子を生み出し、それをもとに仏たちを生み出します。瞑想のときの「核」のようなもので、「種」と呼ぶのもそのためです。

金剛界曼荼羅はおおざっぱに言うと、胎蔵曼荼羅のパズル版と言うことですか。一切如来智印が描かないものには、ものを生み出す何かは描かれたのでしょうか。マンダラの中に突然「ものを生み出すもの」が現れるのは、場違いな気もします。
パズル版というのではなく、胎蔵と金剛界は時代的には近いのですが、まったく異なる原理でできています。日本の金剛界は28種類の金剛界のマンダラのうち、8種類を取り出して組み合わせたので、それ自体は、ジグソーパズル的に見えるかもしれません。一切如来智印に相当するような「万物を生み出す源」は「法源」(サンスクリットでdharma-udaya)と呼ばれます。マンダラを瞑想するときには、最初に「場の設定」のようなものをしますが、何もない空間にこの「法源」や「蓮華」などを生み出します(種子などはその後です)。実際のマンダラには蓮華は外周部に表されますが、法源はよくわかりません。インドの文献では蓮華の部分とその内側の境界線が、法源を表すというような説明が見られます。たしかに、日本の胎蔵界のように、世界全体を生み出す母胎が、マンダラの中、つまり世界の内部にあるのは変ですね。

なぜ金剛部と蓮華部のランクが逆転したのですか。そもそも何を基準にランクづけをするのですか。
金剛部の仏たち、とくに金剛手やその流れを汲む金剛薩☆が仏教の中で重要な位置を占めるようになったからです。もともと、金剛手は夜叉のグループに含まれ、菩薩でさえなかったのですが、密教の時代、とくに『金剛頂経』以降は菩薩以上の地位にまで上りつめます(『金剛頂経』という経典名そのものからも、それはわかります)。仏教の仏たちの世界の内部は、このような一種の下剋上が頻繁に起こります。

胎蔵マンダラにおける「星宿」の中には土曜や水曜、蠍虫宮や秤宮などといった名前が見えるようですが、土曜や水曜は惑星(土星や水星)だとして、蠍虫宮や秤宮は占いなどでもよく見る星座のさそり座や天秤座に相当するものなのでしょうか。これらは西洋が由来だと思っていたのですが、本当はインド?それともインドと西洋で星座の見方に共通した原型があったということでしょうか。
インドの天文学(占星術も含む)も、ヨーロッパのそれも、起源はアラビアあたりです。天体や星宿を神とみなすのも共通で、英語の曜日を表す語のいくつかは、神の名前からつけられたものです。インドでは太陽から土星までの七曜に、彗星の神、日蝕や月蝕を起こす神を加え、九曜でグループになります。占星術でおなじみの十二宮は、ほぼわれわれの知っているものと同じです。このほか、星宿のグループに二十八宿もあります。インドでは古くから天文学や数学が発達した国で、われわれが想像する以上に高度なレベルに、紀元前から達しています。インド学ではこの分野の研究もさかんで、次のような入門書も出ています。
矢野道雄 1986 『密教占星術』東京美術。
矢野道雄 1992 『占星術師たちのインド』(中公新書)中央公論社。
林 隆夫 1993 『インドの数学:ゼロの発明』中公新書 中央公論社。

金剛部の法マンダラ以降の、残り十六マンダラは、また別のマンダラ絵として描かれるんですか。
そのとおりです。九会のように組み合わされることはなく、それぞれ単独で描いたものが、チベットに残っています。今回の授業で一部を紹介します。残念ながら、日本には存在しないようです。なお、四部で6種のマンダラなので、全体は24になるのですが、金剛部のみはさらに四種のマンダラを説くので、全部で28種のマンダラがあります。今回の授業でお話します。

金剛界はややこしいです、個々の仕組みと種類、その組合せさえ理解すれば、何とかなりそうですが、それだけ理解するのにも骨が折れそうです。暗記するのは到底無理なので、大まかにでも理解することをめざしたいです。賢劫千仏と賢劫十六尊どっちでもいいということですが、数に開きがありすぎです。何か理由があるのですか。僕なら間違いなく十六の方で。千も描くのはやっぱり修行なのですか。
たしかにややこしいですが、お書きのように、別に暗記する必要はなく、原理を理解すればいいと思います。しかし、原理を理解すれば、あとは機械的に掛け合わせるだけなので、28種類のマンダラというのはそれほど覚えにくいものではありません。逆に、何のまとまりもない28種のマンダラを覚えるのは、なかなか困難です。また、その内部の三十七尊も、いくつかのグループに分解できるので、自然に覚えられます。賢劫十六尊と賢劫千仏は、どちらも同じ「賢劫」が付いていますが、中身は違います。賢劫十六尊は弥勒を筆頭に、観音、文殊のような伝統的な大乗仏教の菩薩たちで構成されます。一方の賢劫千仏は、この時代(これを賢劫といいます)に現れる千の仏のことです。これらのほとけは順番にこの世に現れ、釈迦はその四番目になります。マンダラに描かれるのは五番目の弥勒からで(弥勒は今から一番近い未来仏です)、千仏といいつつ、実際は996尊しか描かれません(チベットの場合は千仏すべて描く)。典拠となる『金剛頂経』では「弥勒などの偉大な者たちを描け」とのみ説かれるので、弥勒を筆頭とする賢劫十六尊と賢劫千仏のいずれかが描かれるのです。このような説明は注釈書や儀軌類に見られます。


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