アジアのマンダラ

第2回 マンダラと密教儀礼

龍とあるがヘビの図を儀礼で利用することにはどのような意味があるのか。日本だと白蛇は神の使いとかいうけど、あまりよいイメージの生き物ではないので。
ヴァーストゥナーガは文字どおりりには「敷地のナーガ」という意味です。この儀礼ではナーガは家を建てたり、マンダラを作る地面そのものを象徴しているようです。一般にナーガや蛇はカオス(混沌)と結びつくことが多いのですが、ここではむしろ、地面の浄化のための指標となるので、秩序化された存在のようです(くわしくは『マンダラの密教儀礼』のp. 84以下参照)。ナーガはインドの想像上の神で、古くから民間信仰の対象でした。そのような信仰は仏教が現れる前から有力で、仏教が広まった理由に、このような民間信仰と結びつくことができたこともあげられます。ナーガは伝統的に龍(竜)と翻訳されますが、中国の龍は独自のイメージをそなえていて、インドのナーガの造型表現とは異なります。ヨーロッパのドラゴンも同様です。ナーガの項ををサンスクリットの辞書でひくと、蛇やドラゴンなどの意味の他に、象もあげてあります。初期の仏典のひとつ『スッタニパータ』(『ブッダの言葉』として岩波文庫で翻訳されている)にも、そのような象としてのナーガの用例があります。仏教も含め、ナーガの研究にはさまざまなものがあります。なお、シンボル辞典のようなもので蛇の項を見ると、他のどんな動物よりもいろいろな意味があげてあります。日本でもヨーロッパでも蛇にまつわる神話や迷信は数限りなくあります。旧約聖書のアダムとイヴの物語などは有名ですね。蛇がこのように重視された理由のひとつはは、その両義的な性格にあります。陸上生物なのにウロコがある、動物なのに足がない、などは、蛇がいずれの範疇にもうまく収まらない境界上の生物であることの例です。このようなものに、人間は宗教的、象徴的な意味をしばしば見いだします。
入澤 崇 1988 「ナーガと仏教」『密教図像』6: 68-50。
定方 晟 1972 「仏典に於けるナーガ」『印仏研』20(1): 53-59。
平岡 聡 2001 「インド仏典に出没する龍(ナーガ)」『アジア遊学』28: 14-22。

マンダラを制作する際、まず「土地の選定と検査」を行うそうですが、どのような方法でそれは行われ、またどのような条件の土地が選ばれたのでしょうか。
方角や高さ、まわりにあるもの、水が近くに流れていることなどのいろいろな条件があげられています。検査には、穴を掘って、中に水を入れたり、土をもう一度埋めもどすという方法がしばしばあげられています。水を入れた場合、一定の時間が経った後でも水が減っていないことや、土を入れた場合、もとの状態よりも高くなることが求められます。地盤沈下を避け、地面が密な状態であることが求められたのでしょう。くわしくは『マンダラの密教儀礼』の第3章「マンダラを作る」を参照して下さい。

京都国立博に行って来ました。八大童子がとてもよかったです。見れてよかった。図版などもしあったら見せて下さい。
「空海と高野山」展は5月25日までで、かなり盛況なようです。不動明王の眷属の八大童子像は、出品された中でも、とくに有名な作品で、一体だけで、あとはたいした作品がなくても、展覧会を開くことができるほどの傑作です。それが八体全部(うち2体は後補で、レベルは落ちますが)そろって展示されるのは、おそらく高野山以外では初めてでしょう。図録は高野山霊宝館が刊行した『運慶作 国宝八大童子像』に詳細な写真があります。研究室にありますので、関心のある人はどうぞ見に来て下さい。

それぞれの仏のシンボルは、インドでも日本でも同じ仏を指しているのでしょうか。それは密教じゃなくて、浄土教や他の宗派でも仏のシンボルはあるんですか。
同じ仏を指す場合もありますし、そうではない場合もあります。密教のマンダラの場合、仏をあらわすためにどのシンボルを用いるかは多くの場合、経典などの文献に定められています。そのため、異なる文献で同じ仏に別のシンボルを対応させることもあります。たとえば、大日如来は胎蔵マンダラでは仏塔、金剛界マンダラでは法輪になります。このようなシンボルは、適当に決められたのではなく、多くの場合、インドにおける図像学の伝統にしたがっています。仏が手にする持物などがシンボルに選ばれるのは、そのわかりやすい例で、観音と蓮華、文殊とお経などがあります。浄土教はあまりシンボルを用いることはありませんが、阿弥陀来迎図の観音が蓮台を持つのは、このような観音とハスとの結びつきによるものですから、無関係ではないでしょう。密教のシンボル体系の起源をさかのぼれば、インドの仏教美術の初期に見られた、仏塔の装飾や釈迦の象徴的な表現にまで行き着くでしょう。

大乗と小乗の話はとてもよくわかった。家の龍の話はもう何度も聞いたけど、何度も先生が話すのだから、重要なのだろうと思いつつ、どう重要なのか、今までよくわからなかったが、今日あたり、わかったような気がした。
どうも、何度も同じ話で恐縮です。ヴァーストゥナーガはマンダラ制作儀礼の中でも、私にとって興味を引かれるプロセスのため、つい何度も取り上げてしまいます。昨年、集中的にこの儀礼を調べて、論文をいくつか書いたことも、影響しています。この儀礼はこれまでほとんど本格的に研究されたことがないテーマですが、マンダラ制作儀礼や建築儀礼の象徴性をよく表しているので、つい紹介したくなります。スライドでお見せしたような図が他にも何点か残っているのも、おもしろいところです。

イメージの均一化によって、シンボルが重要視されていったことが、図像学的にわかっておもしろかった。もう少し、どんな菩薩が何を持っているか、それはどうしてかということが詳しく知りたかった。
仏像や仏画を含め、芸術作品が持つ意味を解明するのが図像学(イコノグラフィーあるいはイコノロジー)と呼ばれる分野で、キリスト教美術やルネッサンスの芸術などでさかんに行われています。仏教美術についても研究の蓄積がありますが、密教のように神々の体系が複雑になり、そのシンボルも多様化した宗教の研究には、とくに有効です。菩薩とシンボルの対応はたとえば、すでに上で述べたように、観音とハス、文殊とお経や剣、弥勒と龍華あるいは水瓶、金剛手と金剛杵、虚空蔵と宝珠などがあげられます。このような特徴については、つぎのような図像辞典を見れば詳しく書いてあります。ただし、たんなる対応だけを知るだけでは「物知り」で終わってしまいます。なぜ、そのようなシンボルを持つのかという問いを発することも必要です。
佐和隆研 1962 『仏像図典』吉川弘文館。
頼富本宏・下泉全暁 1994 『密教仏像図典  インドと日本のほとけたち』人文書院。

大乗仏教では信仰があれば誰でも(出家僧でも在家信者でも)菩薩になれるとありましたが、年齢も問わないのですか。マンダラに描かれているのは神(人)だけだと思っていたが、龍も描かれていておどろいた。
何歳でもなれるはずです。性も身分も関係ありません。ただし『法華経』のような大乗教典では、仏になる前に女性は男性に変わると説かれています(変成男子)。大乗仏教の中には如来像思想というのがあり、あらゆる生類はすべて仏となる素地をそなえているという教えも有力になり、これは中国や日本の大乗仏教に大きな影響を与えました。マンダラに描かれているものについては、基本的には「聖なるもの」のみが登場しますが、今回取り上げる胎蔵マンダラのように、外金剛部に「やおよろずの神々」が現れたり、もう少し先に紹介する母タントラ系のマンダラに「屍林」という墓場の光景が含まれたりします。

仏をシンボルで表現したマンダラがあり、先生は何かこうしなければならない積極的な理由があったのだろうとおっしゃっていましたが、それは聖なる存在である仏を、仏の形で表現することがタブーと考えられていたからということかなと思いました。何か他にも理由は考えられますか。
インドにおける初期の仏教美術に見られる釈迦の象徴的表現(仏陀不表現)の伝統が、密教におけるシンボル重視にも受け継がれていることはたしかですが、むしろ、仏像そのものを描くよりもシンボルを描くことの方が「合理的」だったからだと考えています。その背景には、仏の種類の増加にともなう仏のイメージの画一化があるからです。密教のパンテオン(仏の世界)にはきわめて多くの仏が含まれますが、仏、菩薩、明王などのグループ内部では、ほとんどイメージに違いがありません。そのため、それぞれのほとけがもつシンボルを変えることによって、区別を付けます。シンボル以外が共通であれば、それぞれ固有の特徴であるシンボルのみを示した方が、よく似たイメージ(クローン人間のようなもの)を並べるよりも機能的・合理的だと考えられるからです。マンダラは「儀礼の装置」であるというのが基本的な考えなので、「使い勝手のよいもの」をめざした結果がシンボルによる表現ではないかと思っています。ついでながら、「こうでなければならない積極的な理由」というのを強調したのは、一般に、何か新しい説を立てる場合に「たぶんこうだろう」では説得力がないからです。

曼荼羅ができる前に仏が降臨してしまうのですか。それでできるまでのあいだ、その仏は灌頂瓶の中で待機しているということなのでしょうか。だとすると聖なるものに対する扱いにしては丁重さを欠いている気がします。それとも「丁重に扱う」といった概念は、仏にはあてはまらないものなのでしょうか。
灌頂瓶に降臨する仏は水の中に溶け込んでしまうようです。マンダラができた後で行う灌頂で、これを弟子の頭にそそぎ、仏の智慧を与えます。また、基本的に儀礼の場に神や仏を招くのは「賓客接待」をモデルにした儀礼であるため、「丁重に扱う」ことが求められます。ところで、儀礼の場に仏を呼び寄せるのは、これ以外にもマンダラ制作と灌頂の中で何度も行われ、そこに一貫した筋書きを求めることは困難です。歴史的に見て、儀礼全体が重層的に形成され、人と仏の関係だけで、合理的に儀礼の構造が決められているのではないからです。

即身成仏という話で即身仏を想起しました。即身成仏という思想(?)を体現したものが即身仏なのでしょうか。
即身仏はいわゆる日本のミイラですよね。即身仏については私はほとんど知識を持ち合わせていません。必ずしも密教系の寺院に伝えられているだけではないので、日本独自の民俗信仰、他界観や苦行法と関連するような気がしますが・・・。どなたか詳しい方は教えて下さい。

五蘊と無我との関係がよくわかりません。無我とは文字どおり解釈すると「我」がないという意味になります。認識する主体としての「我」まで否定されてしまうのでしょうか。
五蘊は授業で説明したように、存在物一般あるいは認識の対象である「色」と、認識のありかた4種である「受」以下に分けられます。これは、釈迦が問題としたものが、この五種ですべてであったということです。そこには、伝統的なインド思想が対象とする「ブラフマン」のような宇宙原理は登場しません。われわれの認識とその対象のみを問題にして、それらがすべて「我ではない」あるいは「我がない」と結論づけたのです。この我は、ブラフマンの対極にあるアートマンのことです。

講義とは関係ないので失礼ですが、仏教儀礼では香油を使う(身体に塗ったり)ことがあるそうですが、香油というアイテムはやはりもとをたどればインドに行き着くのでしょうか。『日本書紀』の記述にあったのですが。インドの習慣か何かで。
香油そのものではありませんが、塗香といって、香水のようなものがあります。香水も仏教用語にありますが、「こうすい」ではなく「こうずい」と読みます。これらは香料であるとともに、清涼剤のようなもので、身体に塗るとひんやりした感触があったようです。本来は高貴な人や客人に使ってもらったようですが、「プージャー」というインドで広く行われている儀礼では、神々に対する供物のひとつに登場します。プージャーについては『マンダラの密教儀礼』の第2章「インドの宗教儀礼」を読んで下さい。


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