アジアのマンダラ

第1回 マンダラを知るための基礎知識

大乗仏教の教理を継承しながら、それでも上座部に近いものがあるということが理解できなかった。
 たしかにこの部分は説明が不十分でした。すこし長くなりますが、補っておきます。
 一般に密教は大乗仏教の中から生まれた(あるいは変質した)といわれるのですが、必ずしもそれだけではありません。仏教を含めほとんどの宗教は教えと実践という二つの要素を持っています。教え(教理)の面からは、密教は大乗仏教の直接の後継者であり、むしろ特別な発展をもたらすことはほとんどありませんでした。問題はもう一方の実践面です。大乗仏教にとっての理想的な実践をあらわすことばに「自利利他円満」があります。自分自身の知的なレベルの向上と、他者への働きかけ、具体的には慈悲による救済がともにそなわることによって、はじめて悟りが可能になるということです。「上求菩提、下化衆生」と言った場合も同様です。これは悟りを求める努力と、衆生つまり一般大衆を救済する慈悲を表すことばで、菩薩がなすべきこととしてあげられます。上と下という方向を表すことばが含まれているのも、このような菩薩の持つ二面性をよく表しています。
 菩薩そのものの説明もしていなかったので、補っておきますと、悟りを開くために(つまり仏となるために)努力するものを意味し、本来は悟るまでの釈迦を指していましたが、大乗仏教ではそのような努力をするあらゆる仏教徒が菩薩とみなされます。「誰でも菩薩」というのが大乗仏教のテーゼなのです。そして、すでに述べたような「他者への働きかけ」が、従来の仏教(つまり初期仏教や上座部仏教など)よりもはるかに重視されました。このような実践はきわめて長い時間を必要とするものでした。三阿僧祇劫(さんあそうぎこう)と呼ばれる無限に近い時間、菩薩の実践を行わなければ悟ることができないともよく言われます。極端な場合、理想の菩薩は他の人々がすべて悟りを開くまで、自分自身は悟りをあえて開かないのだという経典もあります。誰でも菩薩になることはできても、その次の仏になるのはほとんど絶望的な状況を大乗仏教は設定しているのです。その背景には仏の絶対性や超越性を押し進められた仏陀観の変化もあります。
 これに対し、初期の仏教経典は、釈迦から直接教えを聞いた者たちが、釈迦と同じ悟りを開いたことをしばしば伝えています。上座部仏教の場合、釈迦と同じではありませんが、それにきわめて近い阿羅漢(あらかん)という存在になることは可能としています。そのためには戒律の遵守や高度な瞑想、きびしい修行などが必要ですし、誰でもそれができるというわけではありません。しかし、大乗仏教のように、ゴールが見えない世界とは違うのです。このような枠組みの中で密教の実践を考えた場合、選ばれた者のみが瞑想やヨーガなどの神秘体験を通して、現世で悟りを開くことができる(即身成仏)というのは、救済の形式としては大乗仏教よりも伝統的な(あるいは保守的な)仏教に近いのです。見方によっては、密教は大乗仏教の枠組みを逸脱し、近道を見つけたようなものかもしれません。ちなみに、同じ大乗仏教の枠組みを別の方法で壊したのが、浄土教です。仏の絶対性を究極にまで高め、その慈悲のみによって衆生が救済されるという考え方をします。絶対他力という言い方もしますが、大乗仏教一般から見れば、一種の「開き直り」にも見えます。これにあわせて密教をとらえれば「おきて破り」とでも言えるでしょうか。いずれにせよ、宗教の実践に見られる二方向性、つまり自己自身への努力と、他者への働きかけは、仏教の修道論や救済論を考える上できわめて有効な枠組みとなるのではないかと思います。
 論点は異なりますが、初期の密教の実践者たちが小乗仏教の伝統的な瞑想や修行をしていたことを明らかにした次のような論文も最近発表されています。
大塚伸夫 2001 「『蘇婆呼童子請問経』に見られる初期密教修行者像について」『密教学研究』33: 37-74。

チベットのマンダラは文献の記述に基づいて作られるということですが、その「文献にもとづく」ということの背景には何か理由などがあったのでしょうか。(日本の「絵に基づく」というのとは違って)また、その場合の文献とは、たとえばどのようなものなのでしょうか。
チベットやネパールにもインドから、絵画のような形でマンダラの作品そのものも伝えられたはずですが、現存していません。それでも千年以上にわたってマンダラを描く伝統が維持されたのは、マンダラの描き方を説いた文献も伝えたからです。具体的には「マンダラ儀軌」とよばれるようなマンダラ制作のマニュアルです。それを読めば、われわれでもマンダラを描くことができます(少なくとも輪郭線を引くこと)。密教の経典にもマンダラに関する記述はありますが、おおむね簡略で、実際は口伝のような形ではじめは伝えられたのでしょう。このような口伝は日本にもおそらく伝えられましたが、詳細なマニュアルは伝わっていません。そのかわりに、空海をはじめとする入唐僧らによる請来本が規範となったのです。文献よりも作品が重視されたというのはこういうことです。

密教の説明のところの「神秘体験」というのは座禅を組んで、無理に飛び上がったのを「浮いた!」とするあれだろうかと思った。
宗教における神秘体験の内容はいろいろですが、密教の場合、仏と一体となることです。空中浮遊はオームで有名になりましたが、密教経典には修行者が獲得する超能力のひとつとしてよく現れます。本来は仏の神通力のひとつでもありました。オームが空中浮遊にこだわったのは、それが仏典にも説かれる「正統的」な力だったからでしょう。

前回も気になったが、金剛界と胎蔵界は何がどう違うのか。どんな人がこのようなさまざまなマンダラを作るのか。
金剛界と胎蔵界の違いは、マンダラの歴史のところで詳しくお話しします。マンダラを作ったのは日本の場合、プロの絵師だったでしょうし、チベットやネパールでもそのような職業の人がいます。砂マンダラは通常の僧侶が協同作業で作るようです。

高雄曼荼羅と子島曼荼羅の年代の差はたしかにあると思いますが、それだけであんなに違うものなのですか(あの鮮やかな子島曼荼羅も200〜300年後にはああなってしまうのですか?それとも「もの」の特徴や保存法などの違いによるものなのでしょうか)
両者の現状の差はご指摘のとおり、おもに保存法の違いでしょう。子島曼荼羅が子島寺に厳重に保存されていたのに対し、高雄曼荼羅はその由緒正しさが災いして、寺宝としてさまざまなところを転々とします。高雄曼荼羅は今から40年ぐらい前に詳細な研究が行われ、その報告書が下記のように刊行されています。現在では肉眼ではほとんど確認できない細部の写真も含まれていて、その美しさがよくわかります。
高田 修、秋山光和、柳沢 孝 1967 『高雄曼荼羅』吉川弘文館。

時輪マンダラをじっくり見たのは初めてだったのですが、一点透視というか、奥行きがあって吸い込まれていきそう。塔を内部から見上げたときにも似ていると思いました。
時輪マンダラは三重の楼閣からなり、同じ形態の楼閣が外から中に向かって順に小さくなるので、たしかに求心的な印象を強く与えます。天井の構造で「三角隅持ち送り天井」(ラテルネンデッケ)というのがあり、やはりよく似た印象を受けます。インドのヒンドゥー教の寺院やラダックの仏教寺院、中央アジアの石窟などでも見られますが、このような天井をマンダラに見立てて仏たちの絵を描いた例も、西チベットの方にあります。
頼富本宏監修 1997 『西西蔵石窟壁画』集英社。

先週末、知人に誘われて「空海と高野山展」に行って来ました。本来の目的は空海の書蹟を観に行くことだったのですが、数ある展示品の中でもマンダラは印象深かったです。(「血曼荼羅」の対も大きく迫力がありました)。その中には「種子曼荼羅」も展示されていて、はじめて梵字のマンダラを見たのでおどろきおもしろく思いました。
じっさいに「血曼荼羅」や「種子曼荼羅」を見ることができてよかったです。同展ではこのほかにも有名な作品を惜しげもなく展示しています。私はとくに運慶の「八大童子像」がお気に入りです。「空海と高野山展」は5月25日まで京都国立博物館で開催中です。最近、招待券を入手できましたので、観覧希望者は比較文化研究室までどうぞ。

マンダラは壮大な神々の世界を描いたものであるとなっていますが、日本の場合、「神様、仏様」とお願いするように神と仏を区別しています。日本の場合、日本の神道の「神」と仏教の「仏」を区別していっているのだとは思いますが、仏教においてやはり仏は神なのですか。
「マンダラは壮大な神々の世界を描いたもの」といった場合は、仏教のあらゆる神的な存在をさしています。その中には仏も菩薩も明王も天もいます。われわれの業界では「尊格」ということばを使うことが多いのですが、あまり日常的な用語ではないので、私は授業では使いません(論文では使います)。「仏」もわかりにくいのですが、釈迦や阿弥陀、薬師のような狭い意味での仏(つまり仏陀)を指す場合と、尊格一般を指す広い意味の両者があります。「マンダラは仏の世界」といってもいいわけです。一方、おもにヒンドゥー教起源の尊格をヒンドゥー教の神というようにと呼ぶこともあります。伝統的には「天」というグループ名が用いられました(梵天、帝釈天、弁天のように)。なお、「マンダラは壮大な神々の世界を描いたもの」という定義とともに、神々を含めマンダラに描かれているものはすべて、ひとりの仏(たとえば大日如来)が姿を変えたものというのも、マンダラの説明には必要です。一神教的で汎神論的な性格を密教は持っているのです。

最初にマンダラを作った人はどうして二次元に対応させたのだろう。二次元より三次元の方が仏の世界の投影のような気がする。仏の世界が何次元かはわからないからだろうか。
ひとつの理由はもともとインドに、神を招くための「よりしろ」を平面的に作る伝統があったからです(『マンダラの密教儀礼』第一章参照)。また、三次元よりも二次元のほうが、マンダラを瞑想する者の創造力にゆだねる部分が多かったため、柔軟に瞑想できたかもしれません。宗教美術一般に言えることですが、具体的で写実的なものがかえって対象の聖性を減退させることもあります。形式的、象徴的な図像がむしろ好まれます。

マンダラははじめはどのような形であったのですか(絵か立体かで言えるならば)。立体マンダラは儀礼に使われることはあったのですか。
経典には布に描くという記述がありますので、本来絵画で表されたようです。中国や日本に伝わったマンダラもほとんど絵画形式です。今のチベットでも見られるような砂で描く方法も、儀礼のためのマンダラとしてかなりはやく成立したと思います。12世紀頃のインドの文献を読んでいると、このような砂マンダラの他に、ブロンズなどの彫像を所定の位置に配したマンダラもあったようです。これも一種の立体マンダラですが、マンダラの楼閣全体はおそらく作られなかったと思います。立体マンダラそのものはやはりチベット仏教の発明だと思います。灌頂のような儀礼で作られることはほとんどないでしょう。中が見えないのですから・・・。チベットの寺院に行くと、お堂の中に立体マンダラを安置していることがあります。これはもっぱら礼拝用でしょう。

現在でも密教は信仰されているのですか。それとも絶えてしまったのでしょうか。
日本の真言宗、天台宗は密教系の仏教です。マンダラも灌頂もあります。チベットの仏教はインドの伝統をほぼ忠実に継承していますが、密教に関しても世界中のいかなる国よりも多くの伝統を維持しています。チベット仏教の宗派はいずれも密教的な要素を濃厚に持っています。ネパールの仏教もインド密教の伝統を継承しています。現在、密教のサンスクリット文献はほとんどがネパールのカトマンドゥ市にのみ伝えられています。このほか、中国、朝鮮半島、東南アジア(とくにインドネシア)にも密教は伝来しましたが、現在では残っていません。


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