第6回 ネパールのマンダラ(1):主要な現存作例

仏頂尊勝と百万塔の作品が、今まで見てきたものとは異なっていたので興味を持った。仏塔信仰というものがどういうものなのか気になった。
仏頂尊勝と百万塔の作品はマンダラと呼ぶことはできないのですが、仏頂尊勝を描くネパールの代表的な形式とうことで紹介しました。仏頂尊勝が仏塔の中に描かれるのは、この尊をまつる方法を説く経典に、仏塔の中に安置することをすすめる記述があるからです。その効験として、寿命が延びることがあげられていますが、このことがネパールにおける人生儀礼への展開(今日の授業で取り上げます)の背景にあります。仏頂尊勝に対する信仰はインド、中国、チベット、ネパール、日本などの密教が流行した地域で共通してみられます。有名なものでは中国の北京郊外にある居庸関という建物に、6カ国語で書かれた仏頂尊勝の陀羅尼があります。日本でも平安時代には尊勝法という儀礼が、天皇や貴族のためにしばしば行われました。長寿というわかりやすい御利益がその人気の理由でしょう。一方の仏塔信仰はさらにひろく、アジア全域で見られます。本来は釈迦が涅槃に入って、その遺体を荼毘に付したあと、遺骨を納めるために作られたのが仏塔と言われています。しかし、実際にはそれ以前から仏塔は存在していたと考えられています。宇宙論的な意味を持った建造物で、世界を支える軸や、死と再生の場として機能してきました。仏塔信仰そのものをあつかった本に、杉本卓洲『インド仏塔の研究』(平楽寺書店、1984)や宮治昭『涅槃と弥勒の図像学:インドから中央アジアへ』(吉川弘文館、1992)があります。どちらもやや専門的ですが、名著です。

ネパールのマンダラを見ていると、インドからのマンダラの影響を忠実に再現しながら、それをチベットに伝えているというのが見てとることができた。しかし、忠実な再現の中でも、ネパール独特のものが生み出されていったように感じる。ネパールで流行し、独特なものへと変容したマンダラにどのようなものがあったのかを知りたいと感じた。
マンダラの歴史におけるネパールの正確な位置づけは、まだよくわかっていません。忠実な継承者と独自の開拓者という二つの性格は、おそらく正しいと思いますが、その両者の駆け引きや時代による変化などは、私自身、実作例をもっと詳しく検討しなければいけないと思っています。さらにネパールの仏教美術はヒマラヤ地域という枠組みでとらえる必要もあります。海外からは写真集などが出版されていますが、日本ではほとんど見られません。インドやチベットの仏教美術書もわずかですが、ネパールはさらに少ないです。地味なのでしょうね。ネパール独自のマンダラとしてよく見られるものは、授業でも紹介した不空羂索観音マンダラ、スーリヤマンダラ、金剛界、法界などです。チベットに比べると、マンダラの種類は少ないような印象を受けます。しかし、最近知られるようになった文献に、108種類のマンダラを説いたものがあり、13世紀頃のネパールで流布していたことが確認されています。伝統が伝わりながらも作品としては制作されなかったか、あるいは散逸したということで、この地域のマンダラの扱いの難しさを感じます。

インド→ネパール→チベットの順ではなく、インド→チベット→ネパールという順で、素直に北進しないで、講義をすすめた意図は何でしょうか。
直前の回答とも関係しますが、たしかに素直にインドの流れから進めば、ネパールを先にして、チベットをあとにする方が自然かもしれません。そうしなかったのは、いくつかの理由があります。まず、チベットではじめに取り上げたラダックが、時代的には南アジアに現存するマンダラとしては、もっとも古いことがあります。ネパールはこれほど古いマンダラは残っていません。チベットのマンダラの方がネパールのものよりも研究が進んでいることもあげられます。チベットで取り上げたラダック、ペンコル、ゴル寺、ツォクシンという順は、時代の順でもありますが、チベットでマンダラがいろいろな意味で変わっていったことを示すためでもあります。ネパールのマンダラではこのような流れを読みとるだけの作例をそろえられません。さらに、これは私の一般的な傾向ですが、授業で取り上げる対象が複数あって、重要度がその間で異なる場合、まず重要なものから取り上げます。ネパールが重要ではないということではありませんが、研究の水準などから見て、まだまだチベットのマンダラほどの情報がそろっていないということです。授業の組立は、それなりに考えていますので、そのあたりをくみ取っていただければと思います。

ツォクシンを見ていて、釈迦はチベット仏教において、どのようなポジションにあるのか、今ひとつわからなくなってしまいました。初期仏教のようにオンリーワンな崇拝を集めていたわけではなく、膨大な数の仏たちの中に紛れてしまっているようですが。そもそも初期仏教と密教とでは、世界観がだいぶん違うと思うので、ツォクシンの中に釈迦がいると少し違和感を感じます。
チベット仏教における釈迦の位置は、もちろんインドの初期仏教と全く違います。一般に仏の数は仏教の歴史の中で、次第に増えていきます。時間的には過去仏や未来仏(弥勒が代表)、空間的には多の仏国土の仏たち(たとえば阿弥陀や薬師)が現れます。それとともに、これらの仏を分類整理する必要も現れ、釈迦のように歴史的に現れた仏を応身(おうじん)、阿弥陀のような仏を報身(ほうしん)、そして、すべての仏の根元的な存在を法身(ほっしん)と呼びます。大乗仏教では仏をこれらの三つのグループに分け、それぞれの性格や機能を論じるのですが、そのような考え方を「仏身論」といいます。ただし、注意しなければならないのは、大乗仏教や密教の仏が多数現れたことで、釈迦への信仰が薄められたようにも見えますが、実際には釈迦そのものへの信仰は根強いものがあります。インドでも密教の時代には経典に無数の仏が登場しますが、実際に仏像として礼拝されていたのは、圧倒的に釈迦でした。おそらくその伝統は、チベットでも継承されています。経典や論書の中の仏の世界と、実際の仏教徒の生活レベルでの仏とは、かなりの差異があったようです。

ラマの生まれ変わりと見なされた人は、必ず活仏とならなくてはいけないのか。拒否権はないのだろうか。
たぶんないでしょう。というより、名誉なことなので、喜ぶことがふつうのようです。チベットは仏教が社会の中で極度に肥大化していて、僧院や僧侶の数も膨大です。一家に一人は僧侶を出すのがふつうともいわれ、家族の他のメンバーにもその功徳は及ぶと信じられています。ダライラマやパンチェンラマはもちろん別格ですが、それほど名のしれない活仏でも、僧院の中で優遇されることは確実ですし、一般の僧侶にはないさまざまな特権が与えられます。もっとも、僧侶になるということは出家をすることなので、家族からの別離が前提です。惜別の情に駆られることもあったと思いますが、そのあたりは民間説話などの形で伝えられていると思います。

サンヴァラと諸尊図を一見しただけでは、同じような仏がサンヴァラを囲むようにして配列されているだけのように見えたが、あんなに綿密に分けられて、配置も考えられているとはびっくりだった。ツォクシンに通じるというのも関係なさそうな絵に見えるだけに驚いた。奥が深いなぁと思った。マンダラを基本としながらツォクシンのような自然の情景を入れ、また歴史上の人物を入れた図は何のために描かれたのだろうと思った。お坊さんの遊び心とかかなぁと思った。今日のプリントのスライドの18番のヴァスダラー・マンダラが今まで見てきたようなマンダラと違って、目を引いた。緑や建物や人が描かれていたのできれいだし、こんなのもあるのかと興味を持った。やっぱりなじみがある緑や建物が描かれていると、親しみを持つなぁと思ったけど、これはネパール特有なのだろうか。
サンヴァラと諸尊図の変化は、前期のサンヴァラのときにも簡単に紹介しましたが、ツォクシンの説明をしたあとの方が、趣旨はよく理解できたのではないかと思います。ツォクシンのような形式の図は、瞑想のイメージのための補助的なモデルだと思いますが、たぶん、チベット人はあのような「仏の世界」も好きだったのでしょう(あまり根拠はありませんが)。18番のヴァスダラー・マンダラは、中心の部分は他のマンダラと同じような形式ですが、周囲に人物や風景が描かれています。内容の比定はできませんが、おそらく説話的な内容の枝と思います。縦長の四角いキャンバスに丸いマンダラを描くと、周囲に余白ができるので、チベットやネパールではしばしば人物像が描かれます。両者の間では素材やモチーフが異なるようです。17番のヴァスダラー・マンダラでは、マンダラそのものの内部に写実的な楼閣を描いて、その中に仏たちを入れています。これまで見てきたマンダラの楼閣の表現方法とは異なりますが、日本の別尊曼荼羅の一種である宝楼閣曼荼羅にも似ていて、これも興味を引きます。マンダラを描く形式が比較的自由であるのは、日本と共通するのかもしれません。

何となくなのですが、以前から須弥山に興味がありました。昔読んだ話で蛇の上に亀、その上に三頭の象が乗っていて、さらにその背中にこの世界が乗っているという世界観があったのを覚えています。たぶんインドの話だったと思います。人間の宇宙観とか世界観はなんだかすさまじいなぁと思います。
須弥山を中心とする世界観は、インドでもっとも一般的なもので、多くの解説書がでています。なかでも定方晟『須弥山と極楽』(講談社現代新書、1973 )は読みやすいでしょう。わたしもずっと昔の高校生の頃、この本を読んで「仏教って、なんておもしろいんだ」と感動しました。「蛇の上に亀、その上に三頭の象が云々」というのは、全く別の分野の本ですが、大平健『やさしさの精神病理』(岩波新書、 1995 )にのっています。最近よく言われる「自分探し」には限界がないということの例として、世界の構造を探ることの空しさ(?)を説明するために登場します。

ネパールというのは土地的に何とも微妙なところにいたためか、いろんな土地のマンダラがミックスされているのだなと思いました。今回の授業とは関係ありませんが、世界で今起きている宗教紛争って、一神教のものばかりが中心ですよね。なぜでしょう。多神教は一神教よりもフレキシブルなんでしょうか。
ネワール仏教のマンダラは、たしかに折衷的なところがありますが、ヒンドゥー教の影響、人生儀礼との関係、現世利益的な目的などの要素も見逃せません。一神教と多神教については、中東のイスラム世界とキリスト教世界の対立という図式が、最近の世界情勢で目立っていることによると思います。イスラム教もキリスト教も、さらにその前にあるユダヤ教も、砂漠から生まれたよく似た宗教と言われ、とくに絶対的な唯一の神をたてることを特徴とすると理解されています。しかし、根本的な教義はともかく、一般の人々にとって、宗教はもっと多様な面を持っています。日々の生活の中で宗教と関わるのは、単に神への信仰だけではないからです。その場合、一神教であるとか多神教であるというのは、あまり意味をなさないこともあります。また、多神教は他の文化に対して寛容かと言えば、必ずしもそうではないでしょう。たとえば、インド内部の宗教抗争でも、ヒンドゥー対イスラムが基本となっています。また、一神教と多神教という二分法は便利でよく用いられますが、宗教の類型としては単純化しすぎな面もあり、たとえばキリスト教の中にもイエスに対する信仰の他にマリア信仰や天使信仰があり、また、仏教の中でも大乗仏教や密教では、最高神に相当する大日如来をたてます。

今回のレジュメの「p. 219 写真113」のかぶりもの?の中がどのようになっているのか気になります。肩車をして手で支えているのかとも考えましたが。マンダラを現代アートのようにしたものを、どこかで見たことがあるような気がします。ヒンドゥー教のヤントラの三角形が新鮮でした。仏塔信仰からすると、裕福な人が得をするような気がします。
かぶりものは燃灯仏(ねんとうぶつ、Dエpaコkarabuddha)といわれる仏をあらわし、このようなかぶりものをかぶった儀礼があります。燃灯仏とは過去仏の一人です。かぶりものは金属製で中ががらんどうになっていて、手や肩で支えてかぶり、練り歩きます。直接は関係ありませんが、日本にもよく似たものがあり、浄土教の儀式のひとつである来迎会で、阿弥陀如来がこのような姿で現れます。日本の場合は木製で、胸のあたりに外を見るための穴があります。マンダラをモチーフにした現代の芸術家はかなりいます。画家の前田常作氏やグラフィックデザイナーの杉浦康平氏などはその代表的な人たちです。具象画とも抽象画とも異なるマンダラのデザインは、彼らにとって新鮮に映るのでしょう。仏塔信仰についてはそのように見えるかもしれませんが、その一方で信仰は「ものではなく心である」というような貧乏人向け?の救済策もちゃんと用意されています。そうでなければ、広く信仰を集めることはできないでしょう。

ヒンドゥー教のヤントラというのがでてきましたが、ヒンドゥー教にとってのマンダラみたいなものですか?四方に門のようなのがあるのが似ていると思いました。
ヤントラとマンダラは形態も似ていますし、機能も共通する面が多々あります。マンダラの楼閣部分を取り出すと、ヤントラとそっくりと言ってもいいでしょう。どちらが先に現れたかははっきりしませんが、おそらくヒンドゥー教側が先にこのような「神々の配置図」を考え出して、仏教がそれを発展させたのではないかと思います。ヒンドゥー教の場合、ヤントラの中に神々が描かれることはありませんが、仏教の場合、それまでの仏教図像の伝統や壮大な宇宙論などがマンダラに組み込まれ、特異な発展を遂げたのでしょう。仏教でも仏の姿を表さずにシンボルなどで表現するマンダラもあり、一般に儀式で用いられたのはこのようなマンダラでした。これはヒンドゥー教のヤントラと外見上もよく似ています。