第4回 チベットのマンダラ(3):ゴル寺のマンダラ集

今日で理解が追いつかないギリギリのところに至った。ここが踏ん張りどころだと本能が察知している。
「本能が察知する踏ん張りどころ」というのは、なかなか巧みな表現で恐縮します。前回の授業は、マンダラの配列についての謎解きに時間をかけて、作品全体には十分な説明ができず、反省しています。以前に書いたものがあるので、自分ではわかっているつもりだったのですが、いくつか肝心なことを言い忘れ、理解しづらかったと思います。今回、冒頭で少し補う予定ですが、ポイントをここでまとめておきます(少し長くなりますが)。
 45種のマンダラを14枚の絵画(チベットでは「タンカ」といいます)に描いた15世紀の作品を取り上げ、その内容と、成立の背景をたどることが中心でした。これらのタンカは12世紀初頭にインドでできた『マンダラ儀軌書 ヴァジュラーヴァリー』に依拠していることが、各作品の上部中央の銘文に示されています。しかし、単にこの文献をもとに描いた作品ではないことが、配列の点などからわかります。文献の中の少なくとも次の項目にそれぞれ手を加えなければ、作品に直接結びつけることはできません。
(1) マンダラ儀軌書に説かれる26種のマンダラを42種類にする。
(2) 42種のマンダラを、マンダラ儀軌書とはまったく異なる順序にする。
(3) 『阿闍梨所作集成』から3種のマンダラを加える。
(4) 実際に、14点のタンカを制作する。
それぞれの解決策を以下に示します。
(1) 従来『マンダラ儀軌書』に説かれているマンダラの種類が26種であるとされていたが、これはこの文献の著者自身の示したものではなく、研究者が便宜的に理解したもので、文献を詳細に検討すれば、42種のマンダラを数えることができる。またチベットの文献には『マンダラ儀軌書』のマンダラの数を42と数える伝統があったことを伝えるものがある(これについては授業ではふれませんでした)。
(2) 新しい順序は、マンダラやそれが依拠する経典の一般的な分類法である「四分法」にもとづく。これは、マンダラを用いて行う儀礼である灌頂が、チベットでは四分法にしたがって異なることによる。いっぽう、『マンダラ儀軌書』の段階では、灌頂はいずれのマンダラでも共通の方法で行われ、そのため、マンダラの配列は、マンダラ制作を説明するのに便利なように、形態にしたがって、似たものが集められている。チベットでは『マンダラ儀軌書』に従いながらも、四分法のそれぞれで異なる方法で灌頂が行われたことが、歴史書などから確認できる。
(3) 『阿闍梨所作集成』はその名称の通り、密教の阿闍梨(師僧にあたる)の儀礼次第をまとめた文献である。注目されるのは、ここで問題となっている『マンダラ儀軌書』や、それと密接な関係を持つ儀礼文献を、そのまま一部に含んでいることである(つまり、パクっているということです)。さらに、おそらくネパールで流行していた儀礼やマンダラについての情報を含み、ここに14番目のタンカにあった3種のマンダラについての解説もある。『阿闍梨所作集成』はネパールで流布していたようであるが、これをネパールからチベットに導入したのが、ササン・パクパなる人物である。ササン・パクパは『マンダラ儀軌書』と『阿闍梨所作集成』に含まれるマンダラの瞑想に関する著作があったことが、後世の文献で確認できる(ただし、実際の著作は現存せず)。このマンダラとは『マンダラ儀軌書』42種と、『阿闍梨所作集成』の3種の合計45種と考えるのが妥当である(この部分、授業では混乱していました)。
(4) ササン・パクパの弟子であるクンガ・サンポ(14〜15世紀)はゴル寺という僧院を建て、ゴル派の開祖となった人物であるが、彼の伝記には、ゴル寺の内部を飾るためにネパールから絵師を招き、『マンダラ儀軌書』のすべてのマンダラと、『阿闍梨所作集成』の3種のマンダラを描かせたことが記されている。このマンダラこそ、問題にしている14枚、45点のマンダラである。現存する作品が、きわめてネパール的な要素が濃厚であるのは、このためである(別の話になるが、その後、チベットの絵画の中にネパール的な様式をもったゴル派が誕生した)。
 長い説明になりましたが、(1)は『マンダラ儀軌書』を読み解くことでわかりますし、(3)と(4)は裏付けとなる文献資料が証拠となります。やっかいなのは(2)の配列の問題で、なぜ変更しなければならなかったのか、もとの『マンダラ儀軌書』の配列と、14枚のタンカの新しい配列は、それぞれどのような理由でそうなっているのかが説明できなければなりません。そのために持ち出してきたのが、「マンダラは儀礼の装置である」という、これまで何度も繰り返してきたマンダラの定義なのです。
 授業でお話ししたように、この作品については97年の美術史学会例会で発表し、翌年の学会誌『美術史』で活字にしました(先週の資料の文献リスト参照)。マンダラについて、ある程度の基礎知識があれば、誰が読んでもわかるように書いてありますので、一度、挑戦してみて下さい。必要な人にはコピーを差し上げます。

「理念」と「実用」、「理想」と「現実」の折り合いの妙を感じますね。「仏典(理念)」と「マンダラ(実用)」の関係を見てみると。理念と実用も時代の流れや人によって移ってゆきますし、そもそも人間界ではうまくかみ合わせようとするのが当たり前でしょうから。
はじめに建築物における「聖」と「実用」の話を少ししました。この問題は建築だけではなく、宗教美術にもあてはまります。どんなに崇高な仏像を作っても、それが安置できなかったり、見る者が理解できないようなものは、礼拝の対象にはなりえないでしょう。たしかにこの問題は「理念」と「実用」とか、「理想」と「現実」、さらに簡単に言えば「ホンネ」と「タテマエ」という二項にまとめることができますが、美術作品としてとらえる場合、さらに「美」という項目を立てて、三者の均衡の上で成り立つと見ることもできます。つまり、宗教美術として成り立つためには「聖性」「美」「実用性」の三者のほどよいバランスが必要になります。はじめのふたつは、理想や理念にまとめられそうですが、実際はそうではありません。聖なるものが必ずしも美しいとはかぎらないからです。グロテスクなもの、奇異なもの、人が目をそむけるようなものも、しばしば聖なるものとなります。たとえば、チベットの美術に現れる多面多臂は、実際に存在したらじつにグロテスクな姿ですが、イコンとして定着しています。それは、単に手や顔が多ければいいというのでなく、ある程度のバランスを保ち、しかも実際に制作できる範囲で押さえられているからです。もちろん、そのバランスは絶対的なものではなく、地域や時代、民族性などのさまざまな条件によって左右します(一般にチベットの仏教美術は、現代の日本人の目には奇異なものに映ります)

なぜこれほど仏の世界を幾何学的に描くのかと思ったが、チベット人たちは仏と人の世界を厳然と分ける部分が大きいギリシャ神話の神の世界と同じ感覚にとらえていたからではなかろうか。日本の神話は神の世界と人の世界が非常に似ている。後の神仏習合も考慮に入れると、日本でマンダラ的幾何学的模様をあまり見かけない理由があるのではないかと思う。
マンダラに描かれた仏の世界が、きわめて整然と幾何学的に描かれているのはその通りです。たしかにその背景には仏の世界をどのようにとらえるか、われわれの現実世界とどのような関係にあるかが重要なポイントになります。マンダラの幾何学的世界はすでにインドで成立していますので、神と人の関係はむしろインドにおけるこのような問題ととらえるべきでしょう。その背景にはインドにおける伝統的な世界観(コスモロジー)とその表現の方法がまず第一にあげられます。また、仏教を含むインドの思想や宗教が世界の構造を分析するときに、有限個の原理でこれを行うことも関係します。すべての現象や存在は、いくつかの原理にまとめられることで把握され、これがマンダラの構造に反映されます。日本仏教でもマンダラは受け継がれましたが、このような背景はほとんど理解されていなかったでしょう。仏の集合図や礼拝図として受容されたために、マンダラの重要な要素である幾何学的な構造は次第に姿を消していきます。別尊マンダラの多くが、金剛界や胎蔵のような四角い枠を持たないことは、そのよい例です。「世界をどのようにとらえ、それをどのように表現するか」ということが、マンダラを理解するためには必要なのですが、伝統的に日本ではこのことはほとんど問題にされなかったようです。

今日見たように、マンダラに銘文があってそれにかかわった人の名前などが分かるといったことはよくあることなのでしょうか。
多くはありませんが、いくつかあります。とくに、今回取り上げた作品のように、作品制作の目的が追善などの場合には、それが明記されています。

授業とは関係ありませんが、ずいぶん前に先生が、最近マンダラが流行っていて、「立体マンダラキット」のようなものがあると言っていたと思います。どうしたら購入できるのですか。(みんぱくのパンフレットに、附録としてマンダラ塗り絵がついていましたが・・・)ちょっと組み立ててみたいです。
立体マンダラはチベットで誕生したもので、木や金属でできています。現在でもチベットの僧院などで実際に制作にあたっている人がいます。以前に私がお話ししたのは、このような伝統的な立体マンダラを、ペーパークラフトで作る人たちが欧米や日本にいるということだと思います。私の翻訳した『曼荼羅大全』(東洋書林)の原著者のM.ブラウエンもそのひとりで、本の中には自分で作ったペーパークラフトの立体マンダラが、挿図としてたくさん含まれています。民博のマンダラ展では、日本人の瀬戸敦朗氏のペーパークラフトの立体マンダラが展示されています(図録のP. 78に写真)。ペーパークラフトですから、厚手の紙に印刷された何百というパーツを切り離して組み立てます。以前に少しいただいたものが、私の研究室にあります。関係者の話では、自前でもパーツを印刷できるように、CD−ROMの形で売り出す計画もあるようです。実現すれば、けっこう売れるでしょうね。

二十八宿は中国のものというイメージが強かったので、チベットのマンダラに描かれているのが意外だった。もともとはどこのものなのだろうか。
もともとはインドのものです。さらにはアラビアとかの天文学(占星術)に由来します。インドでは古代以来、天文学(占星術)が高度に発達していて、これとあわせて関連分野である数学や暦学の発達を促しました。チベットや中国、さらに日本にも、その伝統は伝わっています。授業で紹介したマンダラに二十八宿が描かれているのは、九曜などの他の天体とともに、占星術の基本的な要素となるからです。人間の運命を支配しているのがこれらの天体と考えられていました。

仏たちに混じって(隅っことは言え)、実在の人物であるクンガサンポが描かれているということは、彼はそれだけ人々から崇拝されていたり、強い力を持っていたりしたのだろうか。(それとも、単に自分が作らせたものだから、ついでに描かせた?)
本来、仏たちの世界を描いたマンダラが、絵画として表現され、それに伴って周囲に歴史上の人物を配するようになったのは、チベット独自の展開です。インドのマンダラに実在の僧を描いたりすることはありませんし、日本のマンダラも同様です。下だけではなく、上の方に何人も描く場合があり、これは、絵の中心的な主題であるマンダラが、インドからチベットへ誰の手を経て伝えられたかを示すもので、「血脈」と呼ばれます。授業で取り上げた作品で、右下にクンガサンポが描かれているのは、制作依頼者であることを示すともに、マンダラ全体への礼拝者であることもおそらく表しています。これは、今回取り上げる「集会樹」という形式の絵画でも同様に見られます。

「女尊を中尊とする四種のマンダラ」の右上のマンダラは、仏はシンプルですが、背景が細かくてきれいでした。このマンダラは、チベットでは流行していないとありましたが、なぜですか。左下、右下のマンダラについてはどうですか。マンダラに流行があるとは知りませんでした。とくに流行しているマンダラはありますか。
四種のマンダラのうちの三種は、ネパールで流布していた『阿闍梨所作集成』から取り入れられたもので、この文献自体、チベットではあまり重視されませんでした。右上のマンダラの中尊はヴァスダーラーという財宝の女神で、単独のブロンズ像はチベットでも作例が多いのですが、マンダラはほとんどありません。左下のグラハマートリカー・マンダラは占星術と関係し、ネパールでいくつか作例が残っています。右下の仏頂尊勝は陀羅尼の女神として有名で、陀羅尼そのものはチベットでも中国でも日本でも絶大な信仰を集め、単独の作例としてタンカやブロンズ像が、チベットには多く残されています。しかし、これと同じ形式のマンダラとなると、おそらく皆無に近いでしょう。どのマンダラが流行するかは、いろいろな条件があります。日本の場合、伝えられたマンダラがわずかであったので、金剛界と胎蔵のみが突出して重視されました。チベットでは宗派ごとに違い、たとえばゲルク派では秘密集会マンダラ、サキャ派ではヘーヴァジュラ・マンダラが好まれました。これは、各派が重視する経典や教理とも関係します。また、悪趣清浄マンダラは葬送儀礼と関係を持つので、チベットでもネパールでも多くの作例があります。