第3回 チベットのマンダラ(2):ギャンツェ

五類諸天の区分の仕方は、中国の五行や西欧の5エレメントの考え方に通ずるところがあると思った。この世界が何で構成されているかという問いは、世界共通のものなのだろうか。
5という数は、たしかに世界の構成要素を表す数としてインドでも重要です。「五大」と呼ばれ、地水火風空からなります。古代ギリシャ哲学でもおなじみの「元素」ですが、インドではおそらくそれよりも古くから、知られていたようです。五類諸天のうち、たしかに地居天や水居天、虚空天は、これらの5元素に対応するものがありますが、飛行天と三界主は一致しません。授業でもお話ししたように、それぞれのグループに属するヒンドゥー神が活躍する場所や、とどまる場所として地や水を私は考えていましたが、必ずしも該当しない神もいて、ひょっとすると五大と何か関係するのかもしれません。

前回ではマンダラの中の仏はすべて上に向いた形になっていたと思うが、ギャンツェに来たらもう上から見下ろした(東西南北それぞれの方角に向いた)形になっていた。こうした形式の違いは時代によるものなのでしょうか、場所の違いによるものでしょうか。
この問題は私も関心を持っていて、いろいろなところで書いています。儀礼で使うために地面の上に描かれたマンダラは、放射状に描かれるのが自然だと思いますが、壁画のように垂直の壁に描くと、不自然になります。「水平のマンダラを垂直に起こすときに、重力に従う形にした」と説明したこともありますが、インドの文献を見ると、礼拝像として、垂直に描いたマンダラも古くからあるので、機能(礼拝の対象か、儀礼の舞台装置か)とか、表現方法(絵画か、砂のマンダラか)という違いで、使い分けていたのではないかと、現在では考えています。ギャンツェの壁画のマンダラが、ラダックなどとは異なり、放射状に描かれているのは、マンダラを絵画(チベットでは「タンカ」と呼ばれます)として描くときにも、このように描くのがすでに一般的だったからでしょう。ちなみに、普通の日本人にとって、マンダラとは絵画であり、垂直に飾るものという思いこみがあります。しかし、マンダラの構造を説明するときには、平面に放射状にしたものの方がわかりやすいので、砂マンダラやギャンツェのマンダラをしばしば素材とします。

なぜ「大マンダラ」と「羯磨マンダラ」は形がほぼ一緒なのですか?というより違いがわかりませんでした。
どうも違いはないようです。金剛界マンダラの典拠となる『金剛頂経』には、羯磨マンダラは「大マンダラにしたがって仏の姿を安置せよ。金剛薩☆などの姿にしたがって、印を持った女尊を描け」と説明されます。これによれば、菩薩たちを女尊の姿で描くことになりますが、ペンコル・チョルテンでは、実際は通常の菩薩の姿で、金剛薩☆などは描かれています。これは注釈書を書いたアーナンダガルバが、「金剛薩☆などにしたがって、印やシンボルをともなった姿で描く」と述べていることによるようです。なお、経典に女尊の姿で描くように指示があるのが、羯磨マンダラが別名、供養マンダラとも呼ばれることによります。金剛界マンダラでは供養を表す仏たちは、通常、女尊の姿をとるからです。

今日はややこしかったです。どこにどんな仏がいたのか、覚えられそうにはありません。系統だっているのはわかるので、構成はそれなりに理解できそうですが。
おそらく大半の方が同じような感想をいだいたと思います。専門に研究するわけではありませんので、細かい仏の名前などまで詳細に覚える必要はありません。4つの仏のグループがそれぞれ6種(もしくは10種)のマンダラを持ち、さらにヒンドゥー教の神の4種のマンダラがあることという程度でいいと思います。むしろ、金剛界マンダラとは日本に伝わるような1種のマンダラではなく、このような複数の原理を組み合わせて作り出した、一種の構築物であるということを理解して下さい。マンダラは「仏の世界」を表したものであることは一貫としていますが、その表現方法は経典や時代によって異なるのです。また、ペンコル・チョルテンでは、これらの金剛界マンダラを含め、建造物の内部空間を、仏の世界のヒエラルキーによって統一している点も重要でしょう。

今回扱われたペンコル・チョルテンの中に描かれているマンダラは、そもそも何のために描かれたのでしょうか。マンダラは弟子を仏とするためや、仏像に力を与えるために描かれるために作られていたと思うのですが。
おっしゃるとおり、弟子の入門儀礼や仏像の完成式にマンダラが用いられ、それがマンダラの本質的な構造や機能を知る上で決定的であることは、前期の私の授業などで強調しているところです。しかし、チベットではマンダラがこのような儀礼の装置として用いられるばかりではなく、前回のラダックでも見られたように、寺院を装飾するモチーフとして重要な役割を果たします。これは、おそらくインドでは考えられなかったマンダラの機能でしょう。インドではマンダラを布に描いたり、浮彫でその仏たちを表現することはあっても、寺院の壁画として描く例はおそらくなかったからです。これに対し、チベットでは一種の壁紙としてマンダラが用いられたのです。それと同時に、チベットにはさまざまなマンダラがインドから伝えられ、それが蓄積されていったことも重要です。チベット仏教は無数のマンダラに関する知識を有していたのです。本来、マンダラとは1種類だけで「仏の世界」を表していたにもかかわらず、このような無数のマンダラによって「仏の世界」を構築することが、可能になります。その場合、ひとつのマンダラは仏の世界というジグソー・パズルの1ピースにしか過ぎません。

階層構造がとてもおもしろいと持った。その中に実際に入ってみたいと思った。ヒンドゥー教の神々や后をのせるというのは、マンダラにのせるときに、彼らにしかない役割みたいなものがあるからのせるのだろうか。自分の宗教だけでなく、他の世界もあるということを、改宗した他宗教の神を用いることで示しているのだろうか。それとも、その宗教内でヒンドゥーの神が持つ役割みたいなのがあるのか。改宗しても神は神だからなのか。謎だらけです。
密教におけるヒンドゥー教の神の位置づけは、たしかに難しい問題です。マンダラの周囲に描かれたり、降三世明王のように、足の下にヒンドゥー教の神を踏んでいるのは、彼らに対する仏教の仏たちの優位を表すと、しばしば説明されます。しかし、これは一面的な見方だと私は思います。マンダラの歴史を見てみると、金剛界マンダラに限らず、ヒンドゥー教の神々を含むマンダラが数多くあります。とくに、規模を拡大したマンダラの場合、仏教の仏だけでは足りないので、ヒンドゥー神が多数動員されます。これまで見てきたように、マンダラに含まれる仏たちは、マンダラの種類ごとに大きく変わりますが、ヒンドゥー神の顔ぶれを見ると、ほぼ一定しています。つまり、彼らの人気はほとんど変化がなかったことがわかります。周辺からではあっても、仏教のマンダラを実際に支えているのは、このようなヒンドゥー神だったとも言えるのです。密教の仏とヒンドゥー神との関係については、他にもいろいろな問題を含みます。拙著『マンダラの仏たち』の最終章でくわしく考察しているので、関心があれば読んでみて下さい。

大マンダラを描くときに、まわりに1000の仏を書くのはとてもたいへんそうだ。ハンコみたいなものがあったら便利だと思った。たしか6層(5層)より上は、行けなかった(森註・この質問をした方は、ペンコル・チョルテンに実際に行っています)。チベット人も入ることができないのだろうか。僧の像はとても気味が悪いと思う。(上にのぼるにつれ)なぜあんなにうさんくさいのだろう。
賢劫千仏を描くのはたしかにたいへんそうですね。チベットでも日本でも、仏画などを描くときに、下絵を用いることがあります。同じ仏であれば、同じ下絵を用いることができるので、省力化が図れます。ハンコは用いなかったでしょう。ただし、すぐれた絵師であれば、同じものでも異なるものでも、気にせずどんどん描いていったと思います。また、ペンコルのマンダラはこのような細部でも、少しも手を抜かず、きっちり描かれています。後世の補筆のあるマンダラでは、無惨な修正が行われていて、画家の力量の違いを痛感します。上の層に行けないのはおそらくチベット人でも同様でしょう。無上ヨーガ・タントラに属する仏たちは、少し紹介したように、半裸で明妃(配偶神)を抱擁したショッキングな姿であるため、一般の参拝者の目には触れないようになっているからです。僧の像や絵を含め、チベット寺院がわれわれ日本人にとって気味が悪いのは、同感です。写真集などで見ているのと、実際に寺院に行って見るのも全然違いますね。

ピラミッドやボロブドゥール、そして今日のペンコル等、太古から多くの文明や宗教で、その象徴的建造物が、幾何学的な設計がなされている。それは見た目の美しさもあるだろうが、宇宙的な意味が大きいのでしょう。しかし、左右対称のものや、そういった幾何学的なものを見たときの不思議な感じは何であろうか。マンダラを見たときもそうだが、単に美しいという感じではなくて、何とも言えない力というか・・・。それを昔の人は宇宙的安秩序というか、見えない力として、こういった幾何学的な図形、建築で表現したのだろうか。今日は、いろいろ形式ばったことが多くて、頭がパンクしそうでした。しかし、友人がここに行ったという話を聞いて、チベットに行きたい欲が大きくなってきた。
おっしゃるとおりで、古代以来の巨大建造物はしばしば宇宙論的な意味を有し、幾何学的、対称的な形態を持ちます。建築そのものが、人間にとってひとつのコスモスであるからでしょう(宗教学者のエリアーデなどがしばしば強調します)。このような巨大建造物が王の墳墓のようなことが多いのも興味深いです。権力者たちは理想的な世界で永遠に生き続けることを、死後に期待したのでしょう。また、建築のおもしろいところは、「聖なる空間」を表すためにどんなに奇抜な発想で設計しようとも、実際に作ることができて、その中に人が入れなければ意味がないということです(あたりまえのことですが)。これは仏像などにもあてはまることですが(作れないような形や、安置することのできないような仏像は作っても意味がありません)、建築はさらに実用という点で、制約が多くなります。寺院や教会などの宗教的な建築物の場合、このことはとくに重要になるでしょう。そこは「神の家」という現実を超越した聖なる空間であるべきなのですが、実際にそれを地上に作るためには物理的な制約があります。いずれにしても、建築、絵画、彫刻など、聖なるものが持つ力は、たしかに興味深いものがありますので、いろいろ考えてみて下さい。チベットにもぜひ行ってみて下さい。

最初、図を見たとき、下の方は5層の外壁が塀のように段々になっているだけかと思ったんですが、ちゃんと1階、2階・・・と部屋の中になってるんですよね。ひとつの階層がいくつかに分けて呼ばれているようですけど、ということはそれぞれ何部屋にも分かれているのでしょうか。物語とかはよく建物の外壁に描かれていますけど、マンダラは外には描かれないものなんですか。
ペンコル・チョルテンはピラミッドのような外見をしていますが、中はいくつもの小部屋に分かれています。下の層ほど、そのような小部屋がたくさんあって、迷路のようです(ちゃんとシンメトリーになっていますが)。お堂の名前は、たいてい、その部屋の中心に置かれた仏の名前から取られています。ペンコルに限らず、チベットの僧院では、建物の外壁を特定の壁画で装飾することはほとんどありません。装飾的に仏像を安置することもないようです。そのかわり、内部はあらゆるすき間を埋めつくすように、壁画を描きます。建造物の内部空間を、聖なるものの姿で充満させるという感覚でしょう。

・研究報告の最後にあった「色」の話が興味深い。図版などを見比べながら、ゆっくり読んでみたいと思った。そんで、実際に混色してみたい。
・ペンコル・チョルテンについては、どんな社会の中で、誰がどんな人に作らせたのか、その目的は何かといったことが気になった。描いた人はたくさんいただろうし、それぞれ技術も個性も差があったと思うが、そんな差は作品に認められるのだろうか。描いた人たちはみんな、自分が何を描いているのか、その意味するところをちゃんと理解していたのだろうか。
研究報告の中の「色」についての論文は、佛教大学教授の小野田俊蔵氏のものです。この方はチベットの論理学を専門にするすぐれた研究者ですが、その一方で、実際にタンカ(チベットの絵画)を制作されています。民博のマンダラ展では、そのプロセスを展示されて、図録でも解説されています。この方のホームページも、チベット情報が満載で充実しています(佛教大学のホームページからたどれます)。ペンコル・チョルテンの建造や、壁画の制作の背景についての疑問は、たしかにそのとおりですが、マンダラだけを見ていてもわかりません。当時のこの地域の政治状況、仏教教団のあり方、実際に製作を指揮した人物の思想や立場などから考察すべき問題でしょう。そのうちのいくつかは、研究報告の中で正木氏が簡単にまとめていますし、より詳しくは、授業で回覧したLo BueのGyantseにあるようです。壁画を実際に描いた人々についての情報は、おそらくほとんど伝えられていないと思いますが、これだけの規模ですから、相当数の絵師が携わったでしょう。様式は基本的に同じですが、細部の表現などで、かなりの相違点があります。かれらは壁画ばかりではなく、タンカのマンダラも描いていたでしょうから、マンダラの描き方に関する知識は豊富なはずですが、それが何を意味しているのかについては、おそらく関心を払わなかったと思います(少なくともわれわれのようには)。

経典そのものではなく、経典の注釈書に規定されている世界が描かれているのにおどろいた。「仏の世界」と言っても、それは経典の中で説かれてるのではなく、註釈によって作られた点もあるのだろうか。
インドの宗教文献は、仏教に限らず、基本的な聖典と、それへの膨大な注釈書からなります。歴史上の思想家の多くは、自分たちの思想を注釈書という形で表したのです。マンダラの場合は、さらにプラクティカルな問題があります。経典に見られるマンダラの記述は、たいてい、きわめて簡略です。それだけを見て、実際にマンダラを描くことはほとんど不可能です。わからないところも、当初は口伝のような形で伝えられたと考えられますが、時代が経過すると、それを注釈書や儀軌(ぎき、マニュアルのこと)の形で、文字にします。しかし、その段階ですでにさまざまな伝承があったり、注釈書などの作者の独自の考え方があらわれたりします。

マンダラの色には何かきまりがあるのですか。東が青、南が黄色、西が赤、北が緑というのが目立ちます。
マンダラの彩色にはこれに白をくわえた5色が基本です。黒が加わることもあります。これらの5色は、マンダラの中央と四方の5人の仏、すなわち五仏の身体の色に対応します。金剛界マンダラの場合、東の青は阿◎、南の黄色が宝生といった具合です。金剛界以外のマンダラで、五仏が登場しないものも、五仏と同体関係を持つことが多く、それに応じて塗り分けられます。ただし、5色には元素の色や、マンダラの楼閣を載せた須弥山の色、儀礼の色などと結びつける解釈もあります。