第2回 チベットのマンダラ(1):ラダック

アルチ三層堂のマンダラが、マンダラひとつひとつに重要性をおくのではなく、マンダラを配した部屋の空間に重要性をおいたというのは、非常におもしろいと感じた。次週でそのことをもっと詳しく説明してもらいたいと思う。
アルチ寺三層堂の2階は、ラダックの代表的なマンダラ壁画であるばかりではなく、チベットの仏教美術の代表例のようにもしばしば紹介されます(実際はかなり特異な様式の作品です)。これらのマンダラが金剛界系のものであることはわかっているのですが、その典拠となった文献や教理は不明です。寺院の中に壁画や彫像をどのように配置するかというプログラムの問題は、それらの作品を理解する上では重要なのですが、明確な説明を与えることはむずかしく、多くの場合は推測の域を出ません。アルチ寺の中には三層堂の他にも、大日堂、翻訳官堂、新堂などにもマンダラが壁画として描かれていますし、授業の最後にお見せしたツァツァプリ寺もマンダラで飾られたお堂ですが、いずれもその配置プログラムが何を意味しているかはよくわかりません。今日取り上げるギャンツェのペンコル・チョルテンは、ラダックからずっと離れた中央チベット南部に位置する名刹ですが、比較的わかりやすくマンダラが配置されています。

『マンダラ』の写真は色彩が鮮やかすぎてグロテスクに思えた。このような壁画はどのような方法で描かれているのですか。壁面に絵の具のようなものを塗りつけるのでしょうか。
『マンダラ』(毎日新聞社)の写真は、刊行年代が古いということもあって、若干印刷の質が悪いようです。使っている紙も厚手のアート紙(表面が光沢のある紙)ではないので、ざらつき感があります。ちなみに装丁は有名な杉浦康平氏で、これ以降もマンダラ関係の本を多く手がけ、さらにその影響を受けたデザイナーがたくさんいます。今回、はじめてラダックに行って、この見慣れた写真集の写真図版が、必ずしもオリジナルの色や感触を再現していないことを知りました。しかし、この書籍がラダックやチベットに関心を寄せる人たちに与えた影響はきわめて大きく、この分野の記念碑的業績と言っていいでしょう。マンダラや密教をはじめて一般の人にも知らしめた本でもあります。グロテスクなのは別にラダックに限らず、チベットの仏教美術全体にもあてはまります。普通の日本人は拒絶反応を示しますが、これは日本の仏像に支配的な枯淡なイメージと正反対だからでしょう。壁画の技法については、私はあまり知識がありませんが、漆喰の壁に下絵を描いて、鉱物顔料で彩色をするのだと思います。表面が光って見えることがありますが、これは灯明に用いるバター油の油膜ができているのでしょう。

なぜ日本でマンダラが普及しなかったのだろうか。
日本でもマンダラの伝統はありますが、チベットのように多彩なマンダラは生まれませんでした。そのかわりに日本では金剛界と胎蔵の2種のマンダラが重視され、さまざまな作品を生みました。それ以外は別尊曼荼羅として、ワンランク下のマンダラとしてまとめられました。また、神道曼荼羅、社寺参詣曼荼羅のように、仏教以外の要素と結びついてできた日本独自のマンダラがあります(これらは前期に取り上げました)。マンダラを見る機会というのは、日常生活ではあまりありませんが、真言宗や天台宗の寺院に行けばしばしば拝観できますし、仏画の展覧会などでも頻繁に取り上げられます。

ひょっとして寺院の壁には何か特別なものが塗り込まれているというようなことはありますか(マンダラの中央とか)。
たぶんないでしょう。ちなみに、タンカ(キャンバスを作り、顔料絵の具で彩色する伝統的なチベットの絵画)では、絵の裏側にマントラ(真言)が、眉間と喉と心臓のあたりに書いてあります。これを書くことで、絵に描かれた仏に魂を入れると考えられました。単なる「絵画」ではないのです。

グリフォン、ペガサス、ガルダなどの聖獣はインドのものですか。私はギリシャとか西洋発祥のものだと思っていたのですが。もしくは西洋から輸入されてきたのでしょうか。
グリフォンやペガサスは西洋というか、ヘレニズム世界に起源があるでしょう。西アジアかもしれませんが、インドやチベットのオリジナルではありません。ガルダはインドに起源があります。東南アジアや中国、日本にも伝わっています。想像上の動物の系譜はなかなかおもしろいようで、いろいろな研究も出ています。シンボル事典なども見て下さい。

忿怒尊のインパクトがとても大きくて興味を持った。人の怒った顔は造形的にはおかしくておもしろいものですが、精神的(機能的)に恐怖を感じる不思議なもので、とてもおもしろい。最後の小さいやつは、トキワ荘系の絵でかわいかった。
上にも書いたように、忿怒尊のようなグロテスクな仏はチベットの仏教美術の典型のように思われています。たしかに忿怒尊はわれわれ日本人にはグロテスクですが、滑稽な感じもあります。私自身、チベットの忿怒尊を見ても、それほど畏怖の念は覚えませんでした。しかし、今回の調査でおとずれた多くのお寺には、ゴンカンという修行堂があり、そこにまつられている巨大な塑像の忿怒尊を見ると、やはり不気味さというかおっかないという印象を持ちました。これまでにそこを訪れて祈っていった人々の「念」のようなものがびっしりと積もっているという感じもします。最後の「トキワ荘系」というのは手塚治虫や石森庄太郎とかの漫画家のことですか?

大日如来が女性形をしているのにおどろきました。どこで大日如来とわかるのでしょうか。手に結んだ印でしょうか。それとも文献に残っているとか、周囲のシンボルなどでわかるとか・・・。
マンダラに含まれる仏たちがすべて女性形をしているのですが、それ以外の尊容は金剛界と一致するため、その中尊も大日如来と考えられているようです。根拠については不明ですが、金剛界マンダラの中に、尊名を女性形とするマンダラの種類があるので(三昧耶マンダラ)、それと関係があるのかもしれません。アルチ寺三層堂のマンダラの解釈はなかなかむずかしいようです。

これだけきびしい自然の中を暮らした人々が、このような美しいものを作ったのは当然だと思います。自然をおそれ、向き合うために、無意識のうちにこのような「文化」が自然にできたのでしょう。
そうかもしれません。一般に、ラダックを含むチベットや、中央アジアのような荒涼とした自然の中では、寺院や石窟のような空間に、環境とは正反対の極彩色の世界が作り出されるようです。現実世界がきびしいだけ、仏の世界やユートピアのイメージをふくらませることにエネルギーをそそいだのでしょう。逆に、インドのように自然がおだやかというか、豊潤なところでは、石窟寺院の内部空間は、浮彫や彫像を刻む程度で、モノトーンな世界でした(アジャンターのような例外もありますが)。

金剛界と胎蔵界の違いがわかりません。
私の『インド密教の仏たち』のコラム?と?をお読み下さい。簡潔にまとめてあります。

美術については素人だけど、描き出される線などがとても細かくてていねいですばらしいと思った。それだけ当時の人が、その世界観を作り出すことを重要視していたのかと思った。ひとつの寺にどうしてそんなにたくさんマンダラがあるのかということを疑問に思った。ひとつひとつに役割とか表すものが違うからなのか。
わたしも美術は素人です(少なくとも創作はしません)。しかし、いいものを多く見ることで、だんだん目が肥えていくと信じています。ラダックの壁画は実際に見ると、写真以上にとてもすばらしく、見飽きることがありませんでした。とくに三層堂のレベルは群を抜いています。これだけの作品がこのような辺境にどうして突然あらわれたのか、不思議ですが、ラダックを含むカシミールは、古くから仏教の正統的な伝統があり、しかも、インドの中で仏教が最後まで残っていた地域のひとつでした。ひとつの寺にたくさんのマンダラがある理由は、今週の事例なども見て、考えてみて下さい。

アルチ寺はそもそもなぜラダック地域の仏教美術の中心になってしまったのだろうか。
アルチ寺がラダック仏教の中心的な寺院であったかどうかはよくわかりません。いくつかある重要なお寺のひとつだったのでしょう。11世紀頃にこの地で活躍したリンチェンサンポという学僧(翻訳官でもあった)が、ラダックや西チベットに多くのお寺を建立し、その内部を彼が好んだヨーガ・タントラのマンダラでしばしば荘厳しました。その中で、現在、もっとも保存がいいのがアルチ寺です。

なぜ、ラダックのマンダラには赤と青が際だつような色づかいをするのだろうか。
赤も青もマンダラや仏画を描くときの基本的な色彩のひとつですが、とくに独特のあざやかさを持つ青(紺色)は、アルチ寺のマンダラや壁画と強く結びついて印象的です。ラダック全体から見れば、とくにこのような色づかいが一般的であるわけではないのですが、アルチ寺の三層堂やその他のお堂のマンダラで見られるため、紹介される機会も多いようです。

釈迦やその他の神の肌は白く描かれているが、インド生まれならもっと肌は黒いはず。なぜ、このように描かれるのか。
どうしてでしょうね。インドでは仏教の絵画作品はあまり残されていませんが、たとえば、アジャンターの壁画では、たしかに褐色の肌の色をした釈迦やその前世の姿が見られます。仏の身体の色は伝統的には金色ですが(三十二相に含まれます)、密教の仏たちの場合、それぞれ定められた身体の色があります。大日は白、阿弥陀は赤といったように。金剛界マンダラの場合、中央は大日で、そのクローズアップの写真をお見せしました。もっとも、仏のような「聖なる存在」が、実際の人間と同じ身体の色をしている必要はなく、むしろ、現実にはあり得ないような色の方が、それらしいということもあります。宗教美術では写実性よりも神秘性を優先させるのです。

つぎつぎと見たマンダラが同じように見えた。とくにほっそりとした色白の能面のような仏がうじゃっといて、気持ち悪い気もした。
駆け足でお見せしたこともあって、アルチ寺三層堂2階のマンダラは、どれも同じような印象だったと思います。たしかにその表情も能面のようですが、卵形の顔、独特の切れ長の目、焦点が合っていないような瞳、小さな口元、細長い胴体や手足、華麗な装身具など、一度見れば、すぐに他と区別の付く独特な人物表現です。

仏にはよく手が4〜6本あったり、顔が三つなどあったりするものがあるが、そのような(人として)「異形な」形を、わざわざ仏にとらせるのはなぜか。たくさんの手や顔は何らかの「全能」の象徴であるのか。
インドの仏教美術の中でも、密教の時代になると、そのような多面多臂像が広く見られるようになります。これは作品だけではなく、経典などの文献でも明確に記されています。多面多臂の発生の理由はいろいろな説があります。「全能」であることを示すというのも、そのひとつにあげられるでしょう。インドの神々の世界を考えた場合、やはり、ヒンドゥー教の神々のイメージも重要でしょう。ブラフマー(梵天)は古くから4面でしたし、インドラは千の目を持っています。後世、ドゥルガーと呼ばれることが多い女神は、十数本の腕を持ち、それぞれに異なる武器を持っていました。仏教の多面多臂像は、このようなヒンドゥー教の神のイメージよりも少し遅れるようです。もちろん、なぜヒンドゥー教の神も多面多臂なのかという問にも答えなければなりませんが。

アルチ寺の装飾は非常に色が鮮やかできれいだった。マンダラの外周部に骸骨や手や足が描かれているものがったが、先生の言っていた「地獄」というのは、これのことかなと思った。
マンダラの外周部にある死体などは、「屍林」と呼ばれます。墓場のことで、八方向にひとつずつあるので、八屍林と総称されます。死体以外にも仏塔、樹神、ヒンドゥー神なども描かれます。サンヴァラマンダラやヘーヴァジュラマンダラのような母タントラ系のマンダラに、しばしば八屍林は含まれます。母タントラの行者たちは、反社会的な儀礼をこのような屍林で行ったと言われ、そのためマンダラにも描かれると説明されるのですが、そのイメージの源泉がどこにあるのかは、私自身よくわかっていません。

秘密集会(サスポール)の仏は、目がうつろで何かを訴えかけるような表情だった。
そうでしたか。もう一度よく見てみます。サスポールの石窟は岩山の中腹にある狭い石窟で、行者が中で瞑想や儀礼をしたと言われています。狭い空間ですが、そこに奇跡のように極彩色の絵画が残されています。

チベットの気候というのは、壁画塔の保存に適していたのでしょうか。どんな感じだか、聞いてみたいです。
三千から四千メートルの高地なので、夏もそれほど暑くはなく、冬はきわめて寒いところです。年間を通して降水量がほとんどなく、たしかにこの乾燥していることが、壁画の保存に適しているでしょう。

飛天や仏に踏まれた悪鬼など、日本の仏教絵画にもたびたび登場するモチーフの描き方の、チベットと日本での同一の点、違う点があれば知りたい。
飛天は美術史や文化史の研究者が好んで取り上げるモチーフで、インドから中央アジア、中国、日本と、広範囲の研究がかなりあります。OPACなどで「飛天」で検索してみて下さい。至文堂の「日本の美術」のシリーズにも「飛天・神仙」で一冊出ています。悪鬼については、このテーマを正面から扱ったものはあまり知りません。インドでは古くはヤクシャや地神が足の下に特定の人物を置いています。チベットでも日本でも密教系の忿怒尊は、しばしばヒンドゥー教の神を足で踏みつけます。