第11回 アジアのマンダラにおける日本の位置づけ(2)
灌頂の際に両界曼荼羅を平面図に描かれた場所に立てると同時に、両界の敷曼荼羅も中央に敷くということなのですか。それとも片方だけ使用するのですか。
敷曼荼羅は片方だけで、金剛界か胎蔵界のかいずれかのマンダラを用います。灌頂の作法も金剛界と胎蔵界とでは異なります。空海の場合、長安ではじめは胎蔵界、3か月後に金剛界の灌頂を受けました。高野山では春と秋に一般の信者のために「結縁灌頂(けちえんかんじょう)」という、レベルの低い灌頂を行いますが、この場合も春と秋でそれぞれ別のマンダラを使うと聞いています。なお、寺院の両側におかれた曼荼羅は、後七日御修法や灌頂の場合は、他の「儀礼の装置」とともに準備されたと思いますが、儀礼のときだけではなくつねに懸けられている場合もあります。
社寺参詣曼荼羅がマンダラといいながら、四分法などとほとんど無縁という話を聞いて、「そもそもマンダラは何をもってマンダラというのか?」という根本的な疑問にふたたびぶちあたってしまいました。
社寺参詣曼荼羅は日本におけるマンダラの展開を考える上で、重要なのですが、絵画そのものとしても興味深い対象です。説話的な要素を多く含み、名所絵としてもとらえられます。立山曼荼羅や那智参詣曼荼羅は、これを持って諸国を勧進してまわり、絵解きをしながら参拝人を募ったと言われます。こうなると、社会的な役割や芸能との結びつきも生じ、興味の種は尽きません。インドやチベットのマンダラにはない展開が、日本のマンダラには見られます。「マンダラとは何か」という疑問は、簡単には答えられませんので、時代や地域を区切って説明することになるでしょう。一般に言われる「マンダラは仏の世界」というような説明は、わかりやすくはありますが、その多様性を見失わせることになります。マンダラに限らず、ものごとはそういうものなのでしょう。
今日の授業で思ったのですが、金剛界曼荼羅は日本ではすごくポピュラーなくせに、割と謎が多いですね。今までひとりだけ仏がバンと居るやつとか、理趣絵の部分は数合わせとして入れている要素が強いのかと思っていたのですが、一概にそう考えるのもどうかと考え直すことにしました。歴史的流れとか、儀礼にかかわる要因もからんでいるということなのでしょうか。
金剛界マンダラはマンダラの歴史の中で最も重要なもののひとつで、マンダラが伝播した地域にはほとんど存在していることも注目されます。日本の九会曼荼羅の形式は、中国で成立したと考えるのが妥当ですが、その理由や背景となる思想については、たしかに謎です。そもそも、マンダラを9種類組み合わせて、ひとつのマンダラを作るという方法そのものも、これ以外にはありません。さらに、金剛界の形式だけではなく、金剛界と胎蔵界が一組として扱われたことも、視野に入れる必要があるでしょう。この考え方もおそらく中国で成立したものですが、九会曼荼羅の成立と同時期のことだと考えられるからです。いずれにしても、個々のマンダラの研究はまだまだ十分進んでいませんし、金剛界のようにあちこちにあるものは、それだけやりがいのある研究対象となります。歴史的な流れも儀礼との関わりも、当然その中に含まれるでしょう。
日本独自の方向に行けば行くほど、「マンダラ」っぽさがどんどん抜けているような気がする。神道や参詣曼荼羅まで行くと、「儀礼の道具」や「信仰対象」と言うよりも、むしろ「絵解き(庶民向け)の手段」としての色が強いように感じられる。
そのとおりです。前期の授業や先回の授業でも紹介したように、参詣曼荼羅には日本の仏教絵画のあらゆる要素が入り込んでいるのですが、その結果、マンダラ的なものが失われてしまったようです。「参詣マンダラににないのはマンダラだけである」という奇妙な逆説が生じます。しかし、それが日本のマンダラの展開を考える上では、きわめて重要な変化なのです。参詣曼荼羅に「絵解き」が重要であることは、上にも書きましたが、一般の人々がマンダラに接することができたのは、このような絵解きのときだけだったのでしょう。そのことを考えれば、現在一般に用いられている「マンダラ」の用語が、「混沌としたもの」という本来のマンダラとは正反対のものであることも、むしろ当然なのかもしれません。
箱とか台座の仏たちの中にいた八大明王が、あまり忿怒っぽく見えなかった。とくに箱のふたの方は、ひらひらっとしたものをまとっていて、いつもと違って見えた。
法門寺からの出土品に含まれる八大明王は、唐代密教の明王像として重要な作品です。明王のグループとしては日本では五大明王が一般的ですが、中国ではむしろ五大明王よりも八大明王の方が流行していたようです。日本にも伝わっていなかったわけではなく、有名なものとして神光院の仏眼曼荼羅(別尊曼荼羅のときに取り上げています)の中に現れ、図像的な特徴は法門寺のものによく一致します。「ひらひら」したものは天衣だと思いますが、たしかに法門寺の五重宝函の方では強調されています。奉真身菩薩の台座ではそうではないようです。忿怒の表現はなかなかむずかしく、たとえば、チベットの忿怒尊を見ても、われわれは怖いと言うよりもグロテスクで、ときとしては滑稽にすら見えることがあります。もっとも、それは本や写真で見る場合かもしれません。別の話になりますが、芸術作品、とくに宗教芸術にとって、空間が重要な要素になることも考慮に入れなければならないからです。実際にチベットの寺院に行って、薄暗いお堂の中でこれらの忿怒尊を見るとまた違った印象になります(ほんとにコワイです)。
別尊曼荼羅は本当にいろいろなものがあっておもしろい。道教的なものやヒンドゥー的なものを動員していたり。チベットにも仏教以外の要素が入ったマンダラがあるといっていたが、日本のものはくだけたというか、自由な描き方がされているような気がした。当時、日本でマンダラというと、どこまでを指したのだろうと感じてしまう。
別尊曼荼羅は日本独自のマンダラの展開ですが、インド、チベットで、無上ヨーガタントラの無数のマンダラが現れたことに対比できるかもしれません。日本の場合、金剛界以降のマンダラはほとんど伝わらなかったため、マンダラの中尊はそれ以前の時代のもの、とくに天部、明王部、陀羅尼の仏などが選ばれ、その周辺を固めるために、金剛界のマンダラやヒンドゥー教などの異教の神々が用いられました。無上ヨーガタントラでは新しく作り出された仏たちが中尊の場を占めますが、周囲はやはり、このような尊格を置くことがあります。実際のマンダラの種類は異なりますが、マンダラの多様化のあり方は、意外に近いのかもしれません。また、マンダラの種類が増えることは、そのマンダラを用いて行う儀礼の多様化とも結びついていますが、それもインドと日本で同じように起こったことでしょう。
垂迹曼荼羅というのは今まであまり知りませんでした。仏と神が一緒にマンダラに現れるというのが、いかにも日本らしい感じがしました。
日本の曼荼羅として、両界曼荼羅以外を別尊曼荼羅、垂迹曼荼羅、参詣曼荼羅という3つのグループに分けましたが、これらはまったく別々に存在していたのではなく、相互に関係しながら成立・展開したものです。垂迹曼荼羅は神道や修験道と関係を持ちますが、参詣曼荼羅にもいろいろな点で影響を与えました。いずれも個別の作品に関する美術史的、歴史学的研究はかなり蓄積されていますが、インド以来のマンダラの歴史の中でとらえたような研究は見たことがありません(だから授業でも、そのような視点から取り上げたのですが)。日本文化の特質を知る上でも、重要な研究対象になるのではないかと思います。
マンダラの伝播に地域色が強く出ていることが、資料からわかって非常におもしろかった。インドに近いせいか、原初的な様式を継承していたチベットに比べて、多彩な別尊曼荼羅を生み出し、土着の神すらマンダラの中に組み込んでいった日本のマンダラは、見ているだけでも興味深いものがあった。日本の折衷
の精神が、マンダラにおいても出ていたということを感じた。中国において、絵画的なマンダラはあまり見られないというお話でしたが、数点だけでも残ってはいないのでしょうか。
日本におけるマンダラの展開は、上にも書きましたように、日本における外来文化の受容と、日本的な変容を知る上で興味深い事例です。中国の絵画のマンダラは残念ながら現存していません。ただし、白描集のような図像資料が日本に伝えられています。『胎蔵図像』『胎蔵旧図様』『五部心観』などは、いずれもマンダラの仏たちを描いた資料ですが、中国で制作されたものを転写したものです。また、板絵曼荼羅で中国の唐代のものが、やはり日本に伝えられています。現在の日本の両界曼荼羅よりも、古い形式を残していることが明らかにされています。
「月輪」というのは密教の基本的な考えだそうですが、反対に仏教において「欠けている月」(日本でいう三日月や有明月)に何か意味を持たせることはありますか。専門の方で今、仏教における月について調べています。よい参考書などあれば教えて下さい。
「月輪」(がちりん)はとくに金剛界曼荼羅で重視され、マンダラの仏たちを描くときに満月を表す円の中に入れます。これは悟りの境地が完全な円、つまり満月の状態にたとえられるからです。仏たちを瞑想するときに、その舞台のようなものとして、蓮華とともに月輪(あるいは日輪)をイメージすることも、密教では一般的です。欠けている月については、あまり思いつくものがありません。実際に造型としては、月の神であるチャンドラが月を持つことや、日蝕と月蝕を起こす神ラーフが、太陽と月を手にすること、インドネシアの菩薩や財宝神に、光背に三日月を水平に飾るものがあることなどぐらいです。専門外なのでよくわかりませんが、日本の中の仏教文学、たとえば釈教歌などで、月をメタファーにして何か教理的なことを表そうとしたものがあるかもしれません。参考文献としては、以下のものが密教の月輪に関するものとして出てきたぐらいでした。
ギーブル、ロルフ 1981 「密教的実践における象徴をめぐる試論 月輪観を中心に」『東洋学術研究』20(2).
チベットの寺院が、螺旋や円などをイメージしたり、鳥瞰的に建築したのに対し、日本は対になるように儀礼空間が整えてあったのがよくわかった。五大明王なども中央から左右に対になるように配されているように見受けられた。日本の家においても、上座下座があるのも、この思想の影響でしょうか。でも、どこかで日本は左右対称にまったく同じ物を置くのを嫌い、バランスを崩すというのも聞いたことがあったのですが。
左右対称が日本の密教人の基本になっていることは、伽藍配置やお堂の内部空間からも読みとれます。おそらくこれは、中国的な発想を継承したのではないかと思います。中国の都市空間などでも同様なことが見られます。もっとも、伽藍配置はインド以来の伝統も無視できないと思いますが。意図的にバランスを崩すという発想もたしかにありますし、それが垂迹曼荼羅や参詣曼荼羅に見られるような情景的な表現とも関連するのかもしれません。お茶やお花の伝統ともつながるのでしょう。日本人的な美意識は、かなり複雑で重層的なのでしょう。
今、日本史の古代ゼミでは、院政期の日記を読んでいるのですが、仏事で曼荼羅が出てきたりしていて、見てみると別尊系の修法等が多いような気がします。今回、泰山府君まで引っ張り込んだ曼荼羅等を見て、先生がおっしゃったように、日本的な要素が組み込まれてきていて、曼荼羅の日本化が起こっていたのだなと思いました。国による絵的感覚の違い(?)は興味深いと思いました(みんな同じ方が怖いのでしょうが)。日本のものは曼荼羅の中にどんどん入り込んでいる気がしました(参詣曼荼羅)。
院政期の日記というのは『兵範記』ですよね。鳥羽院の晩年に、京都の安楽寿院不動堂の本尊である不動明王(「北向き不動」の名で有名)を作り、安鎮法を修した記述があることを、私も教えてもらいました。その関係で天台の『阿沙婆抄』を見たところ、「安鎮日記」という文献が含まれていて、平安から鎌倉にかけて実際に行われた安鎮法の詳細な記録が残っていることを知っておどろきました。その中には儀礼の場を図で説明した「指図」も含まれています。インドの文献でも密教儀礼の方法が説明されることはありますが、実際の儀礼の記録はまったく残っていません。ましてや儀礼の指図はインドではあり得ない情報です。日本密教の伝統というのはすごいですね。