第10回 アジアのマンダラにおける日本の位置づけ(1)

インドで時代を経て変化・統合されていったマンダラが、チベット、ネパール、インドネシア、そして日本において、それぞれの考えのもとで受容されていったことが、今回の授業でわかったような気がした。インドにおける最終形態とも言い得る時輪マンダラが、他地域で好んで受容されるようなことがあったかどうかが、最後に少し気になりました。
時輪マンダラは11世紀前半にインドで成立した『時輪タントラ』にもとづいています。授業ではふれませんでしたが、それまでのマンダラとは異なる原理でできていて、なかなか難解です。経典やマンダラに関する本格的な研究も、まだ始められたばかりです。インドではその後、150年ぐらいは仏教が続いていたのですが、時輪マンダラがどの程度、流行していたかはよくわかりません。マンダラはもちろん、主尊であるカーラチャクラの単独の作例も、現在のところインドからは見つかっていません。チベットにはこの経典やマンダラが正しく伝えられ、その伝統は現在まで連綿と受け継がれています。私の翻訳した『曼荼羅大全』(東洋書林)は、時輪マンダラにもとづいてマンダラを説明した本で、著者はその情報をもっぱらチベット仏教の文献や僧侶から得ています。時輪マンダラはチベット以外ではネパールにも伝わっているのですが、とくに流行したわけではないようです。作例もほとんどありません。インドネシアや中国、日本には伝わっていません。伝わったとしても、おそらく日本ではほとんど受容されなかったのではないかと思います。余談ですが、私が大学院のときに『時輪タントラ』を専門的にやりたいと指導教官に相談したところ、即座に「やめなさい」といわれました。手に余るということだったのです。

日本では他国ほど多面多臂蔵が流行しなかったのはなぜだろうか。日本で多面多臂像というと阿修羅や明王系の像が思い浮かぶが、このような恐ろしいイメージのある仏が、多面多臂の形をとるのは、何か関係あるのだろうか。
多面多臂が多いのはインドからチベット、ネパールにかけてで、とくにチベットの忿怒形の仏たち(明王や天部に相当)に顕著です。日本の場合、たしかに明王に六臂や八臂がありますが、あまり一般には知られていません。明王でも一面二臂の不動が圧倒的に信仰されているのは、このような多面多臂像を日本人が受容しなかったからでしょう。明王部以外では観音の中に千手観音や十一面観音などがいます。彼らも同じように多面多臂なのですが、もっぱらその手や顔は、衆生救済のためにあると説明され、武力やグロテスクさを強調する明王系の多面多臂とは少し性格が異なるのではないかと思います。この他、弁財天や摩梨支天などの天部にも多面多臂像がありますが、いずれも密教系の尊格です。私などはチベットの多面多臂像などを見慣れているので、日本のものはごく普通に見えるのですが、一般の人にとって、顔や手の数が多いのは、ずいぶん異様に感じるのでしょう。キリスト教や神道の神で、多面多臂のものはあまり思いつかないのですが、このようなところにも「聖なるもの」の表現方法の違いが見られるようです。

4.8センチメートルの群像があると聞いてふと思ったのですが、仏教において大きさというものに関しては、どのような意味があるのでしょうか。奈良の大仏などは、やはり大きいから意味があるような気もするのですが。そもそも仏教は「色即是空」だし、形や大きさにこだわるのも違和感があるのですが。
小さいものは仏教そのもの教理的な意味よりも、携帯に便利とか、僧侶が個人で所有するとか、立体的なマンダラが作りやすいというような、現実的あるいは機能的な理由が強いと思います。これに対して、奈良の大仏に見られるような巨大さは、大きく作ることそのものが重要でした。奈良の大仏は毘盧遮那仏といいますが、あらゆる仏たちの中の根源的な仏で、宇宙そのものに匹敵するような存在です。どれだけ大きく作っても足りないのですが、そのかわりに、大仏の坐っている蓮台の蓮弁に「世界図」を無数に描き、相対的にきわめて巨大であることを表しています。このような大仏の伝統は、インドには現存していませんが、アフガニスタンのバーミヤン(タリバンによって破壊されて有名になった)や、中央アジアの敦煌、雲崗、龍門などにも残っています。いずれもの宇宙的な規模の仏を表現することを意図していたようです。同時に「千体仏」も描かれることが多く、これも大仏の蓮弁と同じように、無数の世界に現れた仏たちを示しています。仏教が仏像という「聖なるイメージ」をもっていたことは、たしかに仏教のもつ「空」や「無執着」などの教理とは相容れないのですが、それでもあえて仏像の形で表したことが重要でしょう。インドでは仏像誕生までに無仏像や仏陀の象徴的表現の時代がありました。仏像が誕生してからも、仏像は仮のもので、一番重要なのは仏教の教え、すなわち「法」であることが強調されました。仏像にはそのことを示す有名な一節(法身舎利偈といいます)がしばしば刻まれ、その伝統はチベットにいたるまで続いています。

中尊が大日から阿◎、あるいはヘールカ尊になっていったのは、どういう理由からなのか、疑問に思った。
密教では仏たちをいくつかのグループに分けることがあり、その場合、大日は如来部、阿◎やヘールカは金剛部というグループに属し、いずれもその上首(部族の長)になります。大日から阿◎への変化は、如来部から金剛部へと部族の人気が移ったことがその背景あります。その大きな契機になったのは、金剛界マンダラを説く『金剛頂経』で、この中で阿◎やその配下である金剛手(金剛薩☆)が重要なはたらきをします。ヘールカについてはその起源はよくわかっていませんが、仏教の中では阿◎と同体とみなされます。このように金剛部の仏たちが信仰を集めた背景には、当時の密教が「暴力的なもの」「過激なもの」を好んだことが予想されます。これは仏教に限らず、インドの宗教の主流であるヒンドゥー教においても、中世にシヴァやドゥルガーに代表されるような、荒ぶる神々が人気を博したこととも関係あるのではないかと思います。

ひとつの作品の中に、なぜマンダラを四つ描くのですか。四つのうちひとつだけ、少し違うものを描いたりするのも、バランスがくずれる気がするのですが。
ゴル寺のマンダラ集は全体が14枚の絵画で構成され、そのうちの9点が4つのマンダラ、1点が5つのマンダラを含み、残りの4点が1枚に1マンダラでした。1枚に1点のものは、おそらく規模の大きさから選ばれていると思いますが、その他が4点であることとの理由はよくわかりません(5点のものはおそらく数あわせ)。推測に過ぎませんが、すべてのマンダラを1枚ずつに描くと、45枚の作品が必要となり、これらの絵画を飾るお堂にそれだけのスペースが確保できなかったというような現実的な理由があったのではないかと思います。1枚に4点ずつ描くと、それぞれの作品がある程度まとまりが持てることも考えられます(中尊が同じとか、典拠となる経典が同じなど)。この作品集以外にも、1枚に4つのマンダラを描いたものがあり、チベットのマンダラの絵画形式として、ある程度なじみがあったのかもしれません。

マンダラは漫然と見ているだけではさっぱりわからない。曼荼羅を理解するには仏の世界を「悟る」か、理知的に迫るかのどちらかが必要なのだろうが、日本人にとってマンダラが少々奇異に見え続け、独自の発展がなかったらしい。どちらの行為も日本人には苦手とするからなのだろうと思う。
そのとおりで、普通の人はマンダラということばや個別の作品を知っていても、それが何を意味しているかはほとんど知りません。歴史的に見ても、一般の日本人がマンダラに接する機会はほとんどなかったでしょうし、僧侶であってもその意味を探求する必要はなかったと思います。マンダラが表す「宇宙」や「世界」は、日本人にとってもきわめてなじみの薄い概念です。今回は日本のマンダラの位置づけや特徴を取り上げますが、日本独自のマンダラの展開に、日本仏教のみならず、日本人のイメージや文化を読みとることができればと思います。

コレクションのマンダラの中に、六ぼう星や三角形に囲まれたマンダラがありましたが、こういったものは西洋の影響があるのでしょうか。
西洋の影響はありません。基本的にマンダラは円と正方形で構成されますが、無上ヨーガ・タントラの母タントラに属するマンダラには、ご指摘のように六角形や三角形、あるいは八角形のものがあります。また、上向きと下向きのふたつの三角形を組み合わせたものもありますが、これはヒンドゥー教のヤントラの影響を受けているようです。下向きの三角形は男性原理、上向きの三角形は女性原理を表すという説明もなされます。下向きの逆三角形のみでできたマンダラは、しばしば調伏の機能を持ったマンダラで、中尊はたいてい恐ろしい姿をした尊格です。三角や円などのシンプルな図形に象徴的な意味を持たせるのは、普遍的に見られるものです。

夫のかわりに妻が中心にすえられたマンダラが面白かった。以前から思っていたのだが、なかなか日本人の発想からは、男女が対という考えは生まれないと思う。どちらかといえば西洋的だ。日本では男性(父性)イメージ、女性(母性)イメージが各々別個のものとして、より確立している気がするのだが、どうでしょうか。
そういうところはたしかにありますね。でも、男女はともかく、二項対立的にものごとをとらえることは、けっこう日本人は好みとするところです。金剛界と胎蔵というもともと関係のない二種のマンダラを、相互補完的な関係に位置づけ、両者がそろうことを金胎不二とよぶことも、そのひとつで、これについては今回取り上げます。また、真言宗の中では異端とされましたが、立川流という流派があって、これはインドやチベットの密教と同じように、男女の二原理を重視し、その交合を悟りの手段として重視しました(だから異端視されたのですが)。女尊を中心とするマンダラが生まれたのは、インド中世の女神信仰の興隆とも関係があります。立川流については以下の本が入手できます。
真鍋俊照 1999 『邪教・立川流』筑摩書房。