仏教における空間論

7月5日の授業への質問・感想


修法が灌頂より俗っぽいというのは、修法が民衆に開かれていて、灌頂が密室で行われているということですか。
密教にはさまざまな儀礼がありますが、どれも同じ重要性を持っているわけではありません。たとえば、密教の僧侶としての資格を授与する灌頂は、数ある密教儀礼の中でももっとも重視される儀礼で、その分、儀礼の秘密の厳守が強く求められます。特定の仏と関係を持つことを可能にする「結縁灌頂」という、世俗の人を対象にした灌頂もありますが、これも、一般の灌頂(伝法灌頂などの名で呼ばれます)に準ずる扱いを受けます。平安時代には天皇や貴族を対象に、頻繁に行われました。これに対し、護摩は比較的よく知られた密教儀礼ですが、参拝客などが見ることのできる場所で、しばしば行われます。後七日御修法で、中央の空間が幕で閉ざされ、その外で護摩が焚かれていたのは、幕の中で行われる主要な儀礼に対して、儀礼護摩が補助的な儀礼であることを表しています。平安時代の中期以降にさかんに行われたさまざまな修法は、別尊曼荼羅と総称される特殊なマンダラを本尊として行われましたが、その目的は息災(除災)や増益(そうやく、ものや人、お金などを増やすこと)、安産、祈雨、降伏など、世俗的なものがほとんどでした。これらは朝廷や平安貴族の関心や要望に合致したものです。目的は世俗的ですが、この時代の密教儀礼が民衆に開かれていたということはありません。

儀礼の中で「インド以来左回りをしない」というのはどういうことですか。
インドの習慣として、左よりも右を優位に扱うことがあります。礼拝の対象(たとえば釈迦や仏塔)の周りを回って、敬意を表するという方法があるのですが、必ず相手が自分の右側に来るように、右回りをします。これを右遶(うにょう)といいます。仏塔などにはまわりに礼拝用の通路がありますが、これも右遶道と呼ばれます。授業で紹介した灌頂道場の指図では、人の動きが点線で示され、はっきり右遶をとっていることが分かります。ちなみに、このような指図はインドにはまったく存在せず、儀礼に関するテキストなどを読むときたいへん苦労します。どのような空間で、どのように道具などが配置され、儀礼を行う人がどのように動くのかを、想像しなければなりません。日本にはこのような儀礼の指図がかなり残っているようで、日本の仏教儀礼の歴史を知る上で重要であるばかりではなく、インドで行われた類似の儀礼を理解するためにも参考になります。

西洋の建物は部屋にひとつずつ意味づけがなされ、人が移動する。しかし、日本では部屋に意味づけがなく、用途に合わせて部屋を作り替える。つまり、ふすまや布団、ちゃぶ台などを出したり片づけたりしたりして、空間を自在に用いると本で読んだ。今日の灌頂儀礼や護摩儀礼の空間が、次第に内包され、あるいは屏風で囲って現れたりと、本当に儀礼の空間でも日本人の空間認識が働いているのだと知った。
三条白川房では共通の部屋が修法道場や灌頂道場として用いられ、そのつど、建具のようなもので変更を加えられたというのは、たしかに日本的な空間利用と見ることができるかもしれません。三条白川房全体が、寺院でありながら居住空間もそなえた複合的な建造物であることも、関係するでしょう。ただし、日本の密教寺院は、儀礼のためには専用の建造物を持つことが一般的でした。授業で紹介した神護寺などの灌頂堂もそうですし、護摩を行うための護摩堂は、それ以外の用途に使うことはできません。後七日御修法は宮中の真言院という専門の建造物をわざわざ建てました。密教以前の奈良仏教には、このような特定の儀礼のために、専用の建物を建てることは一般的ではなかったようです。ただし、戒律を授ける「戒壇」などは別です。

インドと異なり、儀礼空間にコスモロジーを投影せず、かわりに時代(時間)を混入させるというのが興味深かった。王権儀礼もそうだが、過去の聖性を引き継ぐことで、場の聖性を高めようとしたのであろうか。
日本密教の儀礼空間がコスモロジカルな構造を持たず、時間的な存在である祖師の像を必要としたことが、ひとつの特徴であると考えています。インドには密教寺院は遺跡以外の形では現存しませんが、祖師の像が飾られたとは考えられません。それどころか、祖師像のような歴史的な人物は、単に絵画や彫刻の形でも表されることがほとんどなかったようです。インドでは「聖なる空間」が時間とはまったく関係を持たないことと同じように、「聖なるイメージ」も歴史性を排除した、いわば超時間的な存在としてとらえられていたのでしょう。

日本とインドの寺院構造は受ける印象がだいぶ違う。インドの方が空間を重視しているような配置だったのに対し、日本の寺院(密教においての)の儀礼的配置は、単なる象徴であるようだし、インドに比べて、意味を持っているようには見えない。文化的基盤が大きな要因なのだろうか。
実際にインドの寺院に入ると、その違いはさらに強く感じられます。基本的にインドの寺院は石でできているのに対し、日本は木材であることも、関係するでしょう。石でできていると言われると、日本人は「冷たい」感じを連想しますが、インドのような風土では、岩山を彫って作った石窟寺院も、石材を組み合わせた石積み寺院も、ともに「適度な暖かさ(あるいは涼しさ)」を感じさせるものです。さらに、建築には様式や技術のような問題も関係してきます。寺院のような建築物は、単に「聖なる空間」を作り出すだけではなく、できるだけ堅牢に作る必要があります。「神の家」が簡単に壊れてしまっては困りますから。寺院の構造や、イコンの配置プログラムなどから、われわれは空間の持つ意味を読み解こうとしますが、実際に建てた人たちにとって、それはあくまでも付加的な要素で、建築物の強度や機能の方がむしろ優先されたでしょう。

二つの対比するものを作り上げて、それらを全体とするという話がとても興味深かった。この「二つ」というのは「二つの両極端」ということなのだろうか。至上の「聖」と、それと相対する「魔」(?)のあいだに、すべてが存在するという思想は、世界のさまざまなところで見られるような気がする。しかし、インドでは違うかもしれない。あと、そういったことと金剛界、胎蔵マンダラとの関係はよくわからない。なぜ、この両界マンダラは対比するものなのだろうか。
日本の両界マンダラは「二つの両極端」という考え方とは少し違います。また、これらが「聖」と「魔」(あるいは宗教学でよく用いられるのは「俗」)に対応することはありません。歴史的に見れば、これらの二つのマンダラは『大日経』と『金剛頂経』という中期密教を代表する二つの経典にそれぞれもとづいています。しかし、インドやチベットでは、日本のように「二つでひとつ」という扱いは受けていなかったようです。おそらく、中国密教での新しい解釈を、空海が長安で学んだことによります。伝統的に日本の密教では、金剛界は智恵を、胎蔵界は慈悲をそれぞれ表すと解釈して、その両者が備わることが、悟りには必要であるという立場をとります。そこでは、マンダラそれぞれが完結した「世界」を表すという発想はありません。もともと、日本人は哲学的な意味での「世界」に対して、ほとんど無関心でした。なお、「二つの両極端」というのは宗教学では大きな意味を持ちます。相反する二つの原理は、しばしば同じところに帰結することがあります。たとえば、浄と不浄という二つの枠組みを立てた場合、明らかにこれらは反対のものを指しますが、いずれも宗教においては「聖なるもの」として扱われることがあります。このようなことを、エリアーデは「反対物の一致」という言葉で表現します。

真言八祖のような歴史上の人物の画をまわりに配することは、「時間−歴史」で体験・認識するということと関係あるのだろうか。以前の著名な僧たちが仏になっていったのと同じ感覚を得ようとしているのだろうか。
真言八祖のような人物を配することを、「空間への時間の導入」という見方で説明しましたが、密教の考え方からも説明する必要がありました。密教の教えは広く万人に開かれているわけではなく、師(阿闍梨)が十分に吟味して、適切であると判断した弟子にのみ伝える「秘義」でした。そのため、師から弟子への教えの伝授ということを、インドでもチベットでも、そして日本でも非常に大切にします。チベットでは自分が受け継いだ教えが、自分の師、さらにその師、さらにまたその師という具合に、次々にさかのぼることができ、しかもそれを何度も反復する瞑想もあります。順に祖先をたどっていき、教えが遺伝子のように伝わっているかのようです。日本密教でもこのような師子相伝(ししそうでん)はきわめて重視され、教えの系図が家系図のように描かれます。これは血脈(けちみゃく)図 と呼ばれますが、ここでも教えの伝統があたかも「血のつながり」のように扱われています。真言八祖はそのような系図における「最も重要なご先祖様」に当たります。われわれから見れば「歴史上の人物」ですが、その教えを受け継いだものにとっては決して過去の人ではなく、自分の中に生き続けている存在です。


(c) MORI Masahide, All rights reserved.