仏教における空間論

6月28日の授業への質問・感想


今日の講義での建築儀礼の方向の話は、現代での風水を連想します。風水の起源はやはりインドにあるのでしょうか。
風水はキトラ山古墳や、古代都市のコスモロジーとしてよく知られるようになりました。最近ではむしろ、運勢や占いなどにもよく登場する気もします。本屋に行くと、風水に関する無数の本や雑誌が置いてあります。現代の日本人にとって風水は、もっとも身近なコスモロジーなのかもしれません。風水はインドではなく、中国が起源です。インドでは「ヴァーストゥ・ヴィドヤー」(敷地学)という分野があり、いわゆる家相や運気などについても扱うようです。今回から都市の空間を取り上げる予定なので、風水にも言及しようかと思っています。

家の建築儀礼は、現代でも重視しますよね。「その場所は鬼門だからやめた方がいい」とか、まだ何も意味とかわからないころに聞いて、不思議に思っていました。この前もテレビで地鎮祭を行わなかったため、その家族が不幸に見舞われてばかりだというのをやっていました。儀礼で神様をもてなしたり、怒りを鎮めたりというのはあまり現実味もなく信じにくいけど、さっきのような例を見ると本当なのかなと思いました。
たしかに、テレビのヴァラエティーなどで好まれそうな話ですね。実際に地鎮祭を行ったから、不幸が起こらないとか、その逆とかは、全く信仰のレベルの話なので、その是非はわかりません。現代社会のおいても、人間が生きていく上で、合理的に解釈されたり、科学的に説明される行為ばかり行っているのではないという点で、儀礼はけっしてなくなることはないでしょう。人々をそのような行為に駆り立てるものやその背後にある考え方などを考察すると、人間とは何かということに行きつくと思います。儀礼で神様をもてなすというのは、意外かもしれませんが、日本でも広く見られます(今回の後の方のコメントにも登場します)。

冒頭の寺院のスライドを見ていたら、その場所にとても行ってみたくなりました。装飾が細やかで好きです。寺院が宇宙や身体と重ねられ、生殖を表していたりするという隠喩のような構造を見て、日本神話のイザナギ、イザナミの創世を思い出しました。神話的なエピソードが生殖を隠喩的に表している、要するに創造が生殖の拡大的イメージでとらえられているものだからです。それをさらに建築で表現するというのは、日本の寺院ではあまり見られないような気がしますが、おそらく禁欲的な仏教の影響でしょう。たまに洞窟を胎に見立て、そこが聖域になっていたりするので、日本にも元々に多様な発想があったのでしょうか。
インドに行けば、ヒンドゥー寺院は無数にあるのですが、首都のデリーのようなイスラム文化圏では、意外に少ないので、仏跡参拝などのようなツアーでインドに行ってもヒンドゥー寺院を見ないで帰ってくることもあります。スライドで紹介したのは、昨年私が行った西インドのヒンドゥー寺院ですが、その壮麗さに圧倒されました。さて、寺院と母胎、あるいは生殖のメタファーですが、たしかに日本の寺院建築の構造や建築儀礼からは、そのような意味を読み取ることは困難かもしれません。仏教の影響というよりも、宇宙や空間に対する日本人のとらえ方が、インドとは異なることによるのではないかと思います。おそらくその中間にあった中国の存在も大きかったでしょう。世界の創造が生殖に見立てられることは、インドでも同様です。これは、世界を一つの生命体に見立て、それが誕生することを世界の創造に重ねるからです。当たり前のことですが、生命は生命からしか生み出されません。生命と物質の境界がどこにあるのかはわかりませんが、生命の起源をさかのぼっていけば、最終的には宇宙の創造にまでたどり着くのでしょう。なお、洞窟を胎に見立てることは、たしかに日本でもしばしば見られます。そのような場合、ご神体に生殖器(特に女性の)がまつられていることも多いようです。

うちの田舎では家を建てたら今でも餅撒きがあり、近所の人たちが集まります。そのときは男の人しか上には上がれません。高野山の女人禁制に対する先生の見解を読んで、何となく納得しました(聖性の保持)。「千と千尋の神隠し」は全く「供養」なのですね。
餅撒きというのはおもしろい風習です。ふつうは食べ物は投げたりしないのですが、餅撒きは別です。餅やにぎりめしには魂が宿っているというようなことを、柳田国男がどこかに書いていたような記憶もあります。あまり関係ありませんが、私の住んでいた高野山では、秋になるとお寺や神社などいろいろなところで餅撒きがありました。ほとんど連日のときもあり、真剣に参加すれば、食べきれないほどの餅を手に入れることができます。餅と一緒に番号札も袋に入れて投げ、投げ終わった後で番号に従っていろいろな景品が当たるという趣向もありました。高野山を含む和歌山県は、餅撒きが盛んなところだそうで、餅を拾うための専用のエプロン(広げておいて、そこに落ちるようにする)もあるそうです。「千と千尋」の中の湯屋が、神々が訪れて風呂に入り、食事をして帰るところは、たしかにインド的な意味での供養です。日本では供養というと、死者に対する追悼の意味あいが強いのですが、このことばに訳すことの多い「プージャー」には、そのようなニュアンスはありません。神と死者(祖霊)はまったく別のカテゴリーなのです。なお「千と千尋」は日本の古い異界のイメージと、昭和の煩雑な大衆文化との融合があるようで、どこか懐かしさを感じるアニメです。しかし、私はDVDで1回見ただけですが、今ひとつ、何が言いたい映画であるのかよくわかりません。「生きる力」などと言われますが、むしろ、神々とか魑魅魍魎のあのグロテスクさが、人間の根源的なカオスを表しているような気もします(少なくとも、子どもが楽しめるような映画ではないと思います)。絵などが丁寧に描かれていることはわかるのですが・・・。

寺院の平面構造を人体としてもとらえているところがおもしろいと思った。『リグ・ヴェーダ』の原人賛歌において、プルシャから万物が誕生するというストーリーが語られているが、これは世界各地でいわれている。とくに最初読んだとき、中国の神話を思い出した。
中国の創世神話では、盤古(ばんこ)という、やはり巨大な人間が登場します。インドのプルシャの場合、このような原人が解体されることで、世界が創造されますが、農業や作物の起源として、類似の解体神話(たいていは女性)も各地に伝えられています。日本の神話でもスサノオノミコトに殺されるオホゲツヒメは、死体からさまざまな植物が発生する生命起源の女神です。このようなタイプの女神にまつわる神話は、東南アジアを中心に幅広く分布し、神話学で「ハイヌヴェレ型神話」と呼ばれています。

パタンの階段井戸は、下に行くほど重要な部分になるのがおもしろいです。空間重視のインド観において、上か下かの違いは大事だと思うのですが。「空」の思想と関連して、世界の表象(地表:仮の世界)から、内部の真理(地下)へと向かう「世界のへその緒」のような気もします。また、最下部から水がわき出す井戸は、世界のへその内部で創造しているようにも感じます。さらに、階段井戸は船のような形になっていますが、地下のカオスの海に浮かんだ、神々を乗せた船とすれば、地上の諸々は、海の表面(水面)に浮かんだ藻くずともとれます。とすると、最下部(船底)の井戸は、藻くずに汚されないカオスの海が漏れ出る地点であり、より真理に近い気がします。
階段井戸が船のイメージであるというのは、思いつきませんでしたが、たしかにそういうこともあるかもしれません。ふつうの寺院が凹凸の凸だとすれば、階段井戸はそれをひっくり返した凹という感じで、私は見ていました。尊像の配置のプログラムから、何らかの世界観がそこから読み取ることができるかもしれません。「世界のへそ」ということで思い出すのは、仏教でシャカが悟りを開いたブッダガヤの金剛座がそのように仏典で呼ばれていたことです。この場合の世界のへそとは、世界の中心であり、しかも世界が滅ぶときにも最後まで残り、世界が誕生するときには最初に出現するといわれます。大乗仏教の場合、ブッダガヤはシャカ以外のすべての仏も悟りを開く場となります。宇宙論的にも重要な位置を占め、そこを「へそ」と呼ぶのです。

寺院の建設には、創世神話があり、建設の図面には、ヴァーストゥプルシャ・マンダラがありました。このマンダラには神が意識されており、寺院の建立の際には、神の急所を避けよというものであったと私は記憶しております。ここで、そのマンダラの神の姿勢に目を向けてみると、神はその場に座り、両足を組み、手を組んでいる。これは私たちがよく見る仏像を彷彿させるものではないでしょうか。さらに、その神の姿勢を注視してみると、その姿は左右対称で安定し、静止的であることが特徴であると私は思います。ここで質問なのですが、なぜヴァーストゥプルシャマンダラの神の姿は、私が上にあげたような形なのでしょうか。マンダラの中に神を描くとしても、そのすがたはさまざまに考えられ、それらおのおのに応じて、その急所の位置も多様に変化する。つまり相対的になるのではないでしょうか。
ヴァーストゥプルシャ・マンダラには、プルシャすなわち原人のような人の姿を敷地全体に描いた場合と、グリッド(碁盤目)の区画を作り、各区画にさまざまな神々を置く場合の2種類があります。授業で紹介した『ブリハット・サンヒター』という文献では、この二つは組み合わされていますが、元々は別のものではなかったかと私は考えています。別の文献には、プルシャは地面から離れて浮遊するので、神々がその上に乗って地面に押さえつけたため、それぞれグリッドの区画を神々が占めるようになったという話もありますが、これは、二つを結びつけるための後世の創作だと思います。プルシャをどのように描くかは定まってはいなかったようで、資料にあげたものが研究書などによく用いられているのですが、それほど古いものではありません。仏像のイメージとは少し違うと思います。

階段井戸の飾りがすごいと思いました。母胎を表しているということは、寺院=女の人の身体(男の人ではない)ということではないですか。
寺院の内陣に相当する部分に「ガルバグリハ」という名称が一般に用いられ、これは「胎の家」を意味することから、前回のような説明をしました。ただし、内陣の部分は母胎のイメージで間違いはないのですが、寺院全体が女性の体であるとはいえないようです。むしろ、寺院などの建築儀礼では、寺院を建てる敷地、すなわち大地が女性(女神)で、儀礼を執り行う司祭が神(男神)に相当し、両者の生殖行為によって、子供として寺院が生み出される(つまり建立される)という図式になっているようです。これは、農耕儀礼の性格も持ち、大地に種をまき、その結果、作物が実るように、寺院ができるということで、実際に寺院を建てる前に地面の中に穀物の種などを埋蔵します。これは日本の地鎮祭などでも行われていたようです。

能登地方の農民の間にアエノコト祭りという伝統的な民間習俗があります。これは冬になると田の神様を自宅に招いて、ごちそうして、逗留してもらい、春になると礼を尽くして田に帰ってもらうものです。インドの祭礼に比べると沐浴ではなく単純ですが、神様を招待し、大切にして、また帰ってもらうところがにていておもしろいと思いました。
アエノコト祭りは私もラジオなどで紹介されているのを聞いたことがあり、興味深く思っていました。たしかに賓客接待の形式を持った儀礼で、インドのプージャーとも構造は似ていると思いますが、日本の場合、農耕儀礼としての性格も顕著で、収穫を終えたことで、田の持つ豊穣性が枯渇して、これを再生させるような目的もあるのではないかと思います。また、類似の儀礼が日本各地にあり、場合によっては、祖霊信仰や大師信仰などとも結びついているようです。

この講義の一番最初に先生がいっていた「空間→構造→イメージするもの」の意味が最近ようやくわかってきたというか、実感になった。でも「時間→言葉→歴史」のところはまだよくわからない。
空間論ということで授業を進めていますが、同時に時間も視野に入れることで、インドと日本の文化のあり方の違いのようなところに、しばしば議論が収斂しています。時間と空間、歴史と構造、イメージと言葉という対にするとわかりやすいのではないかと思っています。はじめのときには、さらにそれを「ねじれ」させるとどうなるかという問題設定をしましたが、こちらはまだ私自身よくわかりません。


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