仏教における空間論

5月31日の授業への質問・感想


小世界の図だけでも計り知れないのに、それが1000倍、また1000倍と、こんなに想像もできない世界をよく考えたものだなと思います。時間に関しても逆に私たちが生きている時間は、ほんの一点にでも表せないだろうと思いました。後、須弥山とかの山の図が不思議でした。ピラミッドみたいなものでしょうか。海を隔てて須弥山の次の山とかも、大陸だけで山になっているのかなぁと不思議な感じでした。
インドのコスモロジーは、われわれ日本人にはとても考えつかないような構造をしています。これは『倶舎論』という文献に説かれているので、倶舎論的世界観とか、中心になっている山の名称から、須弥山世界観と呼ばれることもあります。『倶舎論』というのは、インドの空間論を取り上げたときに、五位七十五法を説く文献としても紹介しています。世界を有限個の原理に分析し、その組み合わせによってすべてを説明しようとする立場をとり、それが宇宙論にもよく現れていると思います。時間についての説明はあまりくわしくできませんでしたが、基準となる「劫」がすでにとてつもなく長い時間です。しかし、限りなく無限に近くても、それはあくまでも有限の時間の単位であるところがポイントです。これをさらに組み合わせることで、宇宙のサイクルを作り出したり、われわれ人間とは別のレベルとして、神々の時間を想定して、その基本的な単位として用います。空間的な広がりを持つ宇宙も、そこに流れている時間も、特定のサイクルを持ち、反復しているところが注目されます。須弥山の断面図は、あまりこれまで意識していませんでしたが、たしかにピラミッド型をしていますね。おそらく『倶舎論』にそのような規定があるのだと思いますが、その理由はわかりません。

宇宙が燃えたり水害が起こったりというのは、どうも不思議な感覚だと思いました。この場合、地下の地獄も被害に遭うんですよね。火関係の地獄などだったら、水が来て助かったと思ってしまうような気がしてしまいます。幼稚な発想ですが。
インドでは世界は周期的に破滅と再生を繰り返します。ちょうど、手塚治虫の『火の鳥』のようです(ちなみにこのマンガはきわめて仏教的な内容を持っています)。宇宙全体がわれわれ生物のように、死と再生を繰り返すところが、いかにもインド的であり、それが空間の構造や時間との関係にも現れています。宇宙が破滅するときに地獄がどうなるかはあまり考えませんでしたが、おそらく同時に滅亡するのでしょう。ただし、宇宙のサイクルはわれわれ人間にはとらえられない長さを持っているので、それに比べれば地獄を含む六道を輪廻する各サイクルは、一瞬にも満たないでしょう。レベルがまったく異なるということです。もっとも、このような宇宙のサイクルと、地獄の思想は、もともと別のところに起源があるので、結びつけること自体が無理のようです。

宇宙の時間や大きさの単位が今いちピンとこないが、それらが成立した当時の人々には、最適な言葉だったのだろうか。由旬が7キロとかいったいどうやって定まっていったのか、知りたいものだ。
たしか、由旬(yojana)は軍隊が1日に進軍する距離に基づいた距離ですが、おそらくこのような単位は、当時の人々の日常生活には関係のない言葉だったと思います。時間の単位の劫(kalpa)も同様で、経典の中では「たとえ」によって表され、実用的な意味はほとんどないでしょう。インドの長さの単位は、身体の各部、とくに腕の長さが基準になります。むしろ、日常的な世界で用いられる長さや時間の単位と、経典の中で説かれる宇宙論的な単位とが、まったく別であることが注目されます。「神々の世界」や「あの世」がわれわれの世界とは異なるレベルでありながら、計測可能な構造を持つという考えは、日本人的な他界観などとはまったく異質なものだからです。日本人にとって、地獄や極楽までの距離やその構造を数値で表すような発想は見られません。

遠近法が使われた絵画が、西洋と東洋ではまったく違った印象を受けた。東洋のものの方が、構成にゆとりが感じられ、一枚の中に流れる時間があると思う。反対、西洋のものは一瞬を切り取った感じがした。
たしかにそれはありますね。むしろ、西洋の絵画、とくにルネッサンス以降の絵画のように、時間の軸の中で、その一点のみを限定して描くという手法が、きわめて特殊なのかもしれません。『信貴山絵巻』でも、蔵が飛んだりするシーンはこのような一瞬を描いたものですが、絵巻物ですからその前後には別のシーンが連続しています。異時同景図の手法が頻繁に用いられているのも、スライドで紹介したとおりです。このような描き方は現代の漫画にも通じるものがあります。日本でこれほど漫画が流行したのは、絵巻物の伝統があるからだと主張する研究者もいます。たしかに、欧米の漫画を見ると、ひとつひとつの絵の描写力は優れていても、連続するコマの流れるような躍動感は日本の漫画に比べると劣るような気がします。それはアニメの質にもつながるのかもしれません。

「頭でっかちの世界」について。遠くに行くのと同じ割合で大きくなるのなら、特定の一地点から見れば、すべての世界が同じ大きさに重なって見えるはずです。とすると、実在するある山をひとつ「須弥山」と決めれば、その向こうに存在する世界は見えなくてもよいわけです。これなら架空の宇宙をいくつでも追加設定できるし、それを証明する単位も必要ない(A1の1000倍の距離にA2があり、その大きさはA1の1000倍といえばよいから)わけです。
斬新な見方のような気がしますが、私には正しいかどうか判断できません。「特定の一地点から見る」ということ自体は、これまで見てきたヨーロッパ的な線遠近法的な発想で、仏教を含むインドの空間論とは相容れないような気がします(ちなみに、遠くのものを大きく描くというのは、逆遠近法として、遠近法の一種として知られています)。逆に、視点を中心の高いところに置けば、世界は遠ざかるほど小さくなります。基本的にインドの宇宙論は、このような鳥瞰的な視点からできあがっているような気がします。小世界から中世界、さらに大世界へと1000倍ずつ爆発的に広がる場合、距離が問題になるのではなく、増え方というか広がり方そのものが、それまでとは違うレベルで説明されていると思います。私のイメージでは「爆発的に増殖する宇宙」といった感じです。「膨張する宇宙」という現代的な宇宙論で見てしまうのかもしれませんが。

須弥山的世界観はいつ頃作られたのですが。そしてそれは仏教独自のものですか。それともそれ以前のヒンドゥー教に起源があるのですか。
『倶舎論』が成立したのは5世紀頃といわれています。著者は世親(サンスクリットではヴァスバンドゥ)という高名な学者です。『倶舎論』はアビダルマの理論を集大成した文献で、後世のインドやチベットの仏教に大きな影響を与えました。日本でも奈良時代の南都六宗の中に、倶舎宗というのがあります。『倶舎論』が完成段階とすると、それ以前の発展途上の世界観も当然あります。アジャンタの五種生死輪をあつかった定金氏の論文では、阿含という初期の仏教の文献群の中に、このような経典がいくつか紹介されています。『世記経』(『長阿含経』に含まれる)『大楼炭経』『起世経』『起世因本経』などだそうです。実際に内容を確かめていないのですが、『倶舎論』ほどは整理されていないプリミティヴな宇宙論があるようです。ヒンドゥー教も須弥山を宇宙の中心におくことが一般的です。世界創造神話では、神々とアスラが須弥山を攪拌棒にして、乳海を混ぜて、さまざまなものを生み出します。ただし、ヒンドゥー教のタントラ文献などには須弥山を中心としない宇宙論も現れるようです。仏教でも後期密教に属する『時輪タントラ』では、『倶舎論』とは異なる宇宙論や時間論が説かれます。


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