仏教における空間論

5月24日の授業への質問・感想


人間の視野は遠近法でないというのを聞いたことがあります。だから宮崎駿は遠近法を避けたり、遠近法で被写体をとらえる写真を見ながら風景を描くことを避けたりといった指示を出すそうです。遠近法絵画の歴史が短かったのも、それに関係しているのかなと思いました。
たしかに、人間の目はルネッサンスの線遠近法のようには、外界を認識していないようです。たとえば、視野そのものも楕円のような感じですし、視野の周辺にはあいまいな映像があるだけで、すべてがはっきりしているわけではありません。線遠近法は見る者(画家)と対象との間にスクリーンのようなものを置いて、そこにうつる映像を明晰な線でたどった結果であり、一種のフィクションです。しかし、もともと絵というのは絵空事という表現もあるように、フィクションです。立体的な構造を持つ世界を、平面に置き換えるために、人間はさまざまな工夫をしているのです。ピカソが描いたような絵の場合、、それは現実の姿とはかけ離れているように見えますが、画家にとって最も自然な工夫をした結果と見るべきでしょう。宮崎駿氏の遠近法についての考え方ははじめて知りましたが、なかなか興味深いです。この場合の遠近法は線遠近法を指すと思いますが、同じ論理にしたがえば、宮崎駿氏にとって最も適切な表現方法が別にあるということでしょう。実際、スタジオ・ジブリのアニメを見ると、私が子どもの頃に見たアニメと、まったく違うレベルというか、異質の映像であることを痛感します(子どもの頃から、すでにこのようなアニメになれている皆さんとは世代の差を感じます)。たとえば、空を飛ぶシーンがどの映画にもありますが、あのようなパノラマ的というか、鳥瞰的な映像は、慣れない者には一種の酩酊感を覚えます。

降魔成道の釈迦のまわりにいる悪魔が「あっかんベー」や「いーっ」をやっているのが、とてもおもしろいというか不思議です。そういう行為って意外と世界共通なんですね。釈迦から仏がわくというのはどうなんのだろうと思いました。すごいうということを強調しすぎのような気がします。
降魔成道の魔(マーラ)の描き方は、インド内部でも地域や時代でずいぶん異なります。ガンダーラではグロテスクな姿のマーラがいろいろ登場しますし、その中にはヘレニズム的な要素も認められます。これに対し、アマラヴァティーやナーガールジュナコンダに代表される南インドのアーンドラ地方の仏教美術では、太ったこびとのような滑稽な姿をした人物がマーラとして描かれます。これはヤクシャと呼ばれる下級神と考えられますが、インドの民間信仰の主役の一人です。アジャンターで「あっかんべー」や「いーっ」をしているのも、これらのヤクシャの流れを汲むものです。アジャンターでは赤ん坊のようなヤクシャがあっかんべーをしている装飾もあります。また、いーっをするヤクシャとしては、マトゥラーに彫刻があり、これもなかなかおもしろいです(キャラクター商品になりそうなユニークさです)。いずれも『世界美術大全集 東洋編第13巻』に含まれているので、興味がある人は見て下さい。アジャンターのマーラの表現には、ガンダーラ的な要素と南インド的な要素の両者が現れるようです。千仏化現で釈迦のまわりに無数の仏たちが現れるのは、「舎衛城の神変」と呼ばれ、文献にも登場する有名な逸話です。このほか、釈迦自身から水と火が同時に発せられ、空中を飛んだりする神変が説かれる経典もあり、これもなかなかすごい光景だったでしょう。実際の作例では、肩から火が燃えさかり、足の下から水流がわき出る姿が、ガンダーラから多数出土しています。これらの神変の意味はいろいろ解釈されますが、生命力や豊穣性をダイナミックに表したものというのが、妥当なところでしょう。

遠近法がしっかりした絵画を見ると、自然に消失点あたりに意識がゆき、かっちりと画家の術中にはまってしまう。ダヴィンチなどやはり天才と呼ばれるだけあって、計算され尽くしてるといった感じで、 分析した図を見ても、かなり意識的にやっているのがわかります。しかし、ミケランジェロなんかは見る場所は定まらないけれど、もう超人的迫力のせいか、全部がドォーンと一気に目に入ってきて、逆に迫力があって、すごいと思った。
ダヴィンチの絵は計算され尽くしたというのが本当に妥当な表現で、遠近法以外にも登場人物の配置や動きなども同様です。絵画がフィクションであることを最大限に利用しつつ、それを逆に感じさせないというところが、天才なのでしょう。また、ミケランジェロのシスティーナ礼拝堂の一連の壁画は、別の意味での完全な天才的な表現なのでしょう。ダヴィンチよりも少し時代が遅れるだけですが、その人体表現や空間の処理などは、まったく異質なものとなっています。よけいな話ですが、授業で紹介した「最後の審判」の壁画の登場人物は、はじめはすべて裸だったそうです。これが気に入らなかった後のローマ教皇が、別の画家に腰布を描くことを命じました。そのため、この画家は「ふんどし描き」というありがたくないあだ名を付けられたそうです(先週配布の若桑氏の論文で紹介されています)。

独立しているシーンを建造物でつないでいるのがとても興味深いものだと思います。そのシーン同士は時間的に空間的に異なったものを表していますが、なぜ、境界線が建造物なのでしょうか。木とか花とか、川とか、何か他の例はあったりしますか。
山や川などの自然の景観も境界になることはあります(たとえば、ルル鹿本生の壁画)。しかし、建造物が用いられることが、圧倒的に多いようです。これは、物語の背景として、実際に建造物が必要となることがあることも理由と考えられますが、さらに、 石窟という閉ざされた空間の中に、擬似的に奥行きのある空間を作りだしているようにも感じられます。画面の配列からは物語の流れをたどることができなかったように、物語の筋よりも、物語の舞台となった空間が重視されていたとすれば、そのような効果をねらった可能性もあったと思います。時間よりも空間が優位におかれるというインドの考え方が、ここにもあるのかもしれません。もっとも、建造物で奥行きを表現するとともに、場面の区切りを示すのは、アマラヴァティーでも見られましたので、そのような図像表現の伝統も考慮に入れる必要があります。

ストーリーが流れているときは、斜め上の視点で傍観者となり、ストーリー上で時間が止まったときは、視点が正面になる・・・というのが興味深かった。現在の劇でも、この用法は当てはまると思った。つまり、ロミオとジュリエットでは、大部分は役者は、役者同士で向き合ってしゃべるけど、ジュリエットが仮死の時、ロミオは観客に向かってせりふを言うなど(ストーリーが止まったから)。
演劇と対応することは、私自身、あまり考えていなかったので、興味深い指摘でした。演劇理論などでも、観客と役者との視点の関係が論じられているのかもしれません。演劇の舞台も一種の擬似空間としてとらえると、宗教的な空間とつながりがありそうです。大道具や小道具は写実的であるよりも、むしろ記号的です。演劇というもの自体が、かつては宗教的な場面と密接に結びつき、儀礼や儀式として演じられたことも関連づけられます。儀礼空間については授業のもう少し先の方で取り上げる予定ですが、パフォーマンスや演劇理論を視野に入れると、いろいろなことが見えてくるかもしれません。

「仏そのものとの対面を描くときは正面で描く」というのはなんだかとても納得できました。横向きとか何かの動作をしている途中のところは、どうも聖性がないというか、俗っぽいまでいわないけど、あまり拝みたくならないというか、たしかにストーリーの方を前面に出している感じがすると思いました。やはり絶対的なるものは、常に正面を向いて、いつも同じ姿をしているものなのでしょうか。「正面」とか「中心」とかって、聖なるものを描くときに大事なんですね。エリアーデの「聖なる空間は中心を作り、そこから方向付けが生まれ、世界が創造される」という言葉(うろおぼえ)を思い出しました。
エリアーデの言葉はおそらく『聖と俗』のはじめに含まれると思いますが、そのとおりですね。中心を持ち、左右や上下の対称性が「聖なる空間」の基本的な特徴としてあげられています。今回からインドの世界観から空間を考えていく予定ですが、その中でもこれに該当する事例が出てきます。聖なる空間とその表現方法という点では、仏を描くことと仏の世界を描くことは同じことなのかもしれません。ただし、インドにおいては「聖なる姿」である仏像やヒンドゥー神の像が、つねに正面向きであるかといえば、必ずしもそうではありません。一つの原理だけで説明できないことがおもしろいところでもあります。

以前、テレビでやっていたのですが、レオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」は、イエスの右耳のあたり(?)の消失点のある部分に、穴があいてるそうです。テレビに曰く「消失点にピンを刺し、そこから糸を八方に張って、正確な遠近法を実現した!」とか・・・。さらに、この絵が描かれていたかつての食堂は、絵と「地続き」になっていたとも言っていました。つまり、本物の食堂の壁に、その食堂を延長するような遠近法をとって、この絵が描かれているということです。おまけに、絵の中のキリストたちがいる食堂は、実際の食堂と同じ広さに設定されているらしいです。ダヴィンチの見た食堂とは、キリストたちを中心に据えた細長い部屋だったのですね。
手もとの画集の解説を見たところ、たしかに奥にも部屋があるかのように見える一種の「だまし絵」のような効果が計算されているそうです。ただし、少し疑問も覚えました。前半の説明ですが、消失点にピンを刺して、糸を張るというのは、実際の描き方としてはあまり現実的ではないように思います。おそらくこのような大規模な壁画を描くときには、下絵を描いて、それを壁にあてて、主要な線を引くことができるように、ピンでしるしを付けたと思います(テンペラ画の描き方)。消失点の穴は、この穴なのではないでしょうか。また「最後の晩餐」は、およそ4メートルの高さにあるので、これを見る人からは、自分たちがいる食堂と同じ大きさの食堂が、絵の中に広がっているようには感じられず、少し浮き上がって見えたのではないでしょうか。つまりこの絵が自然な光景に見えるためには、4メートルの高さの空中にたたなければならなかったということです。ただし、私はルネッサンスの絵画の専門家ではないので、反論するだけの自信はないのですが・・・。


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