仏教における空間論

5月10日の授業への質問・感想


・コメント・カード集を読みましたが、たしかにカント哲学にあてはめて考えると、ヴァイシェーシカ哲学はわかりやすくなる気がしました。運動や重さや色などは、すべて私たちが勝手に壺に付けているダルマであると理解してもよいでしょうか。でも、カントは空間・時間という認識の枠組みや色・形などの知覚は、私たちが生まれ持っているもの、要するに私たちの「内」にあるものとし、ダルミンにあたるものは「もの自体の世界」のものとしています。ヴァイシェーシカではそういった認識される側とする側の区別がないというか、すべて「もの自体の世界」に「属性」も含まれているような気がします。また、そのように考えると仏教の世界観では「もの自体の世界」が「ある」のか「ない」のかとちょっと混乱しました。仏教においては「一切は解釈である」ということが言えるのでしょうか。縁起に依ってしか諸法が存在しない、すべてが空だとしたらやはり「もの自体の世界」の存在を認めていないのでしょうか。
・「悟りは一瞬」ということばを聞いて、宗教的な悟りとは「思索」ではなく「気づき」なのかもしれないと思いました。
・授業の真ん中に、カードを書く時間が欲しいです。何を書こうとしていたか忘れてしまうので。
ヴァイシェーシカ学派とカントの哲学との比較は、私自身よくわかりませんので、ご自分で調べてみて下さい。ダルマ・ダルミン関係におけるダルマは、「私たちが勝手に壺に付けている」ものではなく、ダルミンに依存して実在しているものです。認識する側が「仮托」しているものではありません。認識主体と認識対象は、ヴァイシェーシカでは明確に区別されています。認識は覚(buddhi)と呼ばれ、属性のひとつになります。『サプタパダールティー』によれば、覚は想記と経験知の二つがあり、経験知には正しい知(真知)と誤った知(偽知)の二つにさらに分かれます。さらに前者の正しい知には直接知覚と推論知の二つがあります。このうち、推論知をめぐって、インド論理学の壮大な理論が展開され、さらにそれは仏教の論理学ともさかんに議論を戦わせることになりますが、それはまた別の話です。仏教では基本的に「もの自体の世界」はないという立場ですが、ないとすると、それにも執着することになるので、やはりそれも認められていません。『中論』で紹介した「仮」というのは、その状態をあらわしたことばです。悟りの内実は、おそらく「思索」と「気づき」の両方があるでしょう。インドと日本では、その割合が異なり、禅宗に見られるように「気づき」のみを重視する立場もあります。ただし「悟り」のような宗教体験は、おそらく時間を超えた次元で起こるので、それまでの「思索」や、あるいは修行のような実践が長い時間を要することにくらべると、一瞬と言った方がふさわしいと思います。アビダルマで空間は実在して、かつ煩悩を生み出さない無為法であるのに対し、時間がその逆の有為法であると分類されるのは、このような実際の体験に根ざしたものかもしれません。カードを書く時間を授業の途中で確保するというのは、たしかにいい考えです。できれば今回から実施します。

ひとつの絵に複数の異なる時間の情景を描写する画法は、現在、われわれが知っている「ひとつの(人の視覚によった)空間とひとつの(人の感覚に依った)時間を写生した絵」とくらべて、ずいぶん観念的であると思います。人の感覚によってないという点では客観的であるかもしれません。時間の流れを無視して描くというのは、客観的に見て物理法則を無視しているようにも見えますが、そもそも「時間の流れ」という概念が、人間の主観によったものであるとも言えます。あるいは、マンダラのように宇宙を表すのに、人間の視覚影像からはかけ離れた空間表現をすることから見ても、このころの表現技法は、現在のわれわれの知る「絵」にくらべ、やはり観念的であったように思えます。
バールフットのジャータカ図で見られたような異時同景図は、説話的な物語を表すときに、しばしば用いられる手法で、けっしてインドのものだけではありません。また「われわれの知っている絵」の範囲が、どのあたりまでを指しているかはわかりませんが、むしろ「ひとつの視点から見た、ひとつの時間帯に属する情景」を描いた絵の方が、実際はきわめて限られています。ひとつの消失点を持つ線遠近法で描かれたルネッサンスの時代の絵画がその代表ですが、それ以外の時代ではほとんど見られません。立体的な構造を持った世界を、キャンバスという平面に移し替えるということは、それだけで、何らかの約束ごとにしたがった変形が加えられることを意味します。絵というのは、文字通り、絵空事であり、フィクションなのです。そういう意味では、あらゆる絵は「観念的」なのです。蛇足ですが、写真が「ありのままの姿」をうつしていると思っている方も多いかもしれませんが、これも同様です。マンダラについてはわたしの専門ですので、いろいろこれに関連して書いておきたいこともあるのですが、省略します。ただし「複数の視点」という考え方は、マンダラを読み解く上でも有効だと思っています(くわしくは私の『マンダラの密教儀礼』の「マンダラの図像学」を参照)。仏教の空間論を扱っているのも、私自身のマンダラや仏教絵画への関心から来るものです。遠近法を含む空間表現は、今回からの主題ともなっていきます。

ジャータカは日本には伝わらなかったのでしょうか。日本にも菩薩という存在が伝わっているので、それに関する説話も伝わってきてもおかしくないと思うのですが。
ジャータカは日本にも伝わっています。平安時代にできた『今昔物語』にいくつか含まれています。また、ジャータカは漢訳経典にも含まれているので、仏典としても伝えられています。ちなみに、インドの説話はヨーロッパにも伝わり、イソップ物語などにも影響を与えています。先週配付した資料にも書いてありますが、ジャータカはすべてお釈迦さんの前世の物語ですが、実際は別の主人公の物語を、お釈迦さんの前世にあてはめてできたものが大半です。ジャータカのはじめにある因縁話、つまり、どのような状況でその物語が説かれるようになったのかと、さいごの解説、つまり、物語の誰が釈迦で、その他の配役が誰か(たとえば、悪役がデーヴァダッタ、主人公の家来が仏弟子など)を明らかにした部分を新しく加えれば、どんな説話もジャータカにかわります。

百界千如と三種世間で三千種の世界ができるということですが、「三千大千世界」という仏教語の三千という語は、この三千種の世界のことですか。
別です。三千大千世界はアビダルマの宇宙論で用いられ、小世界を基本としています。小世界を千個集めたものが小千世界、それを千個集めたものが中千世界、それを千個集めたものが大千世界となります。三千大千世界はこれと同じで、小世界が千の三乗、つまり10億集まっていることを指します。このようなコスモロジーは、つぎのまとまりで扱う予定です。

「仮→空→仮」の認識は、絵を描くいとなみに似ている。つまり、たとえば、リンゴを見ながら描くとき、リンゴという球体は、まわりの空間との間に、からだの境界線を持つわけではない。(リンゴの皮のどこかに、線が書かれているのではない、ということ)しかし、それを紙面に移すとき、空間とリンゴを分ける線を引く。この線が、仮のものとして眼前に現れていて[仮]、画家はそれを実在しないものと知りながら[空]、表現手段として仮の線を引く[仮]というわけです。知人はこのことを非常に意識して、わざと黒々と太い線を引きます。かぶき絵に影響されたというゴッホも、このことに直感的に気づいていたのでしょうか。また、印象派はこの「線」を否定しますが、「色分け」によって否応なく「線にかわるもの」が画面上に現れる結果となります。名前は忘れましたが、一切線を使わず、原色に近い微細な点の集合で1枚の絵をしあげる画家もいます(森注・おそらくスーラです)。
哲学的な内容を具体的なたとえで考えてみるのはいいことです。リンゴの絵の話はよくわかります。ただ、それが「空」と「仮」の関係と言えるかは、よくわかりません。むしろ、上で書いたような立体の平面化のような問題のような気がします。リンゴの絵を描いている場合、リンゴそのものは絵とは別に「存在」していると考えるのがふつうでしょうし、輪郭線以外でも、ツヤや色なども、絵にする段階で別のものに置き換えていると見ることができます。その一方で、輪郭線に注目するのは人間の言語活動に対比できるかもしれません。つまり、人間は自分のまわりの存在を言語化することで、認識しています。それは、何も描いていない画用紙に、輪郭線を描く作業に似ているように見えるからです。いずれにせよ、授業の説明では空はよくわからないという方がほとんどでしたが、空の問題は仏教の思想でもっとも重要であり、おもしろい分野ですので、関心があればいろいろ本を読んでみて下さい。『講座大乗仏教 7 中観思想』(春秋社)などが手がかりになります。

ブッダは過去においてさまざまなものになり、善行を積んだため、悟りを開けたということですが、ブッダは死んだ後、どうなるんですか?悟ったいうことは解脱できたのだから、もう輪廻に組み込まれることはないということですよね。無になってしまうんですか。
死というのは輪廻の一環ですから、ブッダはもう死にません。涅槃に入ります。それがどのようなものかはわかりません。涅槃の原語のニルヴァーナ(パーリ語ではニッバーナ)は、「炎が吹き消された状態」とよく説明されますが、言語学者によれば、これも本来の意味であるかどうかはわからないそうです。少なくとも、われわれが生死を繰り返す世界とは別の境地にいたるのでしょう。後世の大乗仏教では、仏は永遠の存在で(久遠実成)、釈迦のようにわれわれの前に姿を現したのは、法を説くための現れた仮の姿にすぎないという考え方もあります。その場合、涅槃は一種のパフォーマンスとなり、本来とはその持つ意味が変わってきます。


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