仏教における空間論

4月25日の授業への質問・感想



今日の話は本当にむずかしかった。ヴァイシェーシカ学派は、世界を細かく分類し、世界を体系化しようとしたのでしょうか。まるで初めて学名を考えたリンネのようですね。
「世界を細かく分類し体系化する」という理解で正しいです。インドの思想には大きく分けてヴェーダやウパニシャッド以来の正統的な哲学と、それに対する非正統的な仏教やジャイナ教があります。日本人にとっては仏教はインドの代表的な思想という思いこみがありますが、インドの思想の流れから見れば異端です。授業でも紹介しましたが、世界や神の存在を認めないことが、その決定的な違いです。正統的な哲学に6つの代表的な学派があり、ヴェーダーンタ、ミーマーンサー、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカ、サーンキヤ、ヨーガです。これらはさらに、この順で二つずつのまとまりを形成します。ヴァイシェーシカとニヤーヤが一組となります。ヴァイシェーシカ学派のカテゴリー論を紹介した前回の授業は、「難解」「よくわからなかった」という感想が多く見られました。たしかに理解しづらいところもあるかもしれませんが、世界の構成要素を有限個のカテゴリーに分類して、その構造や関係で世界を説明するという考え方は、むしろ近代的な分類法にも共通し、われわれにとってはなじみやすいと思います。そういう意味で、植物学のリンネの業績にも確かに通じるものはあります。授業の主題との関係で言えば、実体のはじめの五つである地水火風空(虚空)は、五大としてひとまとまりで扱われることが多いのですが、ヴァイシェーシカ学派のカテゴリーでは、虚空はそれ以外の4つとは区別され、時間や方位と一体のものと見なされることに注目しました。ダルマ・ダルミン関係は、その違いを理解するために必要な情報です。虚空に関する哲学的な議論にまでは立ち入りませんが、このような虚空の位置づけは、宗教的な文脈での空間理解にも重要な意味を持つと考えています。

天井にマンダラが描かれたり、マンダラの中心となる仏が描かれたりするのは、地(床)に対する天を見上げる形で体感できる構造だと思います。去年の哲学概論の授業で、「それが他者である」とは「私はそれではない」ということであると、サルトルは考えたそうです。ヴァイシェーシカの句義の中の「特殊」とは、下位の「普遍」の中のどれかが、「私にあってそれにはない」ということでしょうか。
 天井にマンダラを描く理由はひとつではないと思います。西チベットのトゥンガル遺跡の場合、ドーム状の天井が階層化され、これに法界マンダラという大規模なマンダラが投影されています。必ずしも天上世界とか天界という意図は読みとれないようです。そもそもマンダラというものが、立体的な構造をもった建造物を平面化したものであるため、建造物に投影するのは、もとの姿に戻すようなものなので、チベット以外でもよく見られます。インドネシアのボロブドゥール、ネパールのスヴァヤンブーの仏塔、日本の密教系の仏塔(多宝塔といいます)などは、その典型です。授業で紹介したポン教のお寺の天井は、マンダラではなく、成就者たちの姿で、彼らのグループそのものはマンダラとは無縁ですが、天井全体を螺旋状の構造にして、それを埋めるための素材として用いられています。この場合も、天界という発想はありません。日本では、有名なところではキトラ古墳や高松塚古墳に星宿図が天井に描かれているので、天井と天は重なるような印象を受けますが、その起源はおそらく中国で、インドまではさかのぼれません。チベットでは寺院の壁に須弥山世界図や天文学的な軌道図が描かれますが、天井に描かれることはおそらくないでしょう。
 「特殊」と「普遍」の関係はそういう理解で正しいと思います。授業でも用いた『サプタパダールティー』という、この分野の教科書のような文献でも「特殊は普遍を欠くものであり、ひとつの実体に存する」と定義されています。ただし、普遍や特殊を含め7種のカテゴリー(句義)は抽象的な観念ではなく、いずれも「実在」するものです。したがって、両者は密接な関係がありますが、必ずしも「表と裏」のような関係ではなく、それぞれ単独でダルマとなります。この定義に対する説明も、ヴァイシェーシカ学派ではつぎのように行います。おそらくわれわれの思いつくような説明ではないでしょう(このあとはかなり込み入った話になりますので、関心のない人はとばしてください)。
 もう一度、定義を示します。「特殊は普遍を欠くものであり、ひとつの実体に存する」。ここには2つの規定があります。このうち「普遍を欠くもの」という前半の規定は、7つのカテゴリーから実体、属性、運動を除外するためです。これらの三つは普遍をダルマとして有するからです。7つのカテゴリーの中から、普遍をダルマとするものを除くと、残りは普遍、特殊、和合、無が残ります。定義の後半の「ひとつの実体に存する」というのは、「実体に和合する」とも言い換えられるので、これによって残りの4つの中から、和合と無を除外することになります。和合と無は、他のダルミンと和合しないからです(ややこしいですが、和合は和合そのものと和合しないし、無と他のダルミンの関係は自体関係と呼ばれて和合とは別です)。これで、残りは普遍と特殊になります。「ひとつの実体に存する」という定義は、さらに普遍と特殊を区別する働きもあります。普遍は実体、属性、運動という三つのダルミンに対して、ダルマとして存するから「実体にのみ存する」という規定に合致しないからです。これに対して、特殊の場合は、ひとつひとつの特殊がひとつひとつの実体に依存します。このようにして「特殊は普遍を欠くものであり、ひとつの実体に存する」という定義によって、特殊が規定されることになります。
 なお、これに先立つ段落で、特殊の定義として、つぎのようなものがすでにあげられています。「特殊は存在する数だけの常住なる実体に依存するから、無数である」。これはつぎのように説明されます。常住なる実体とは、9種の実体の中の虚空、時間、方角、マナス、アートマンです。これらはそれぞれ共通の本性は存在しない、すなわち普遍は存在しないので、特殊のみが存在することになります。実体の残りの4つ、つまり地、水、火、風は、原子の状態であれば常住なので、やはり特殊が存在することになります。また、はじめの五種のうち虚空、時間、方角はそれぞれひとつですが、マナスとアートマンは無数にあり、地水火風の原子も無数にあるので、特殊の数も無数になります。
 以上、句義の説明は菱田邦男『インド自然哲学の研究』(山喜房)を参考にしました。

本の中にある石像が、ほぼ女性の石像でした。男も少しはいましたが、並べてみると女性像の方が多い。なぜなんでしょうか。女性ってだいたい穢れてるからってことで、昔は差別されてるはずなのに、女性像が多いのはよくわかりません。とくに、仏教ってそのケが強いと思うんですが。ヴァイシェーシカ学派の、無の捉え方がすごくおもしろかったです。目に見えたり、鼻でかいだりできないのは、そこにあるものが無を含んでいるからだっていうのは、すごく新鮮でした。
本というのはパタンの階段井戸の本のことですよね。細かい神々の名前は確認していませんが、必ずしも女神が多いというわけではなく、ヴィシュヌやその変化身(アヴァターラ)など、男神も多くいたと思います。おそらく、神像と神像の間にある装飾的な女性像が目に付いたのではないかと思いますが、これらは神よりも人間に近い存在です。ヒンドゥー教の寺院装飾には、このような女性像が昔から多く現れます。それとは別の話ですが、ヒンドゥー教には女神の信仰も重要です。有名なものではドゥルガーやカーリーという名の女神が知られていますが、それ以外にも無数にいます。中世のインドは女神信仰の興隆が顕著になった時代でもあり、仏教でも多くの女尊(じょそん)すなわち女性の仏を生み出しました。しかし、女性の神や仏が多いからといって、女性の社会的な地位が高かったというわけではありません。日本でもアマテラスがいますし、山の神のような民俗的な神は、しばしば女性です。その一方で、日本的な「ケガレ」観で、インドの信仰や文化をとらえることも危険です。ややこしくなりましたが、女性=ケガレという図式は決して普遍的ではないということです。無については、以前、理科系の人と話していたら、コンピューターの発想に似ているとおっしゃっていました。今回の質問でもそのような指摘をされた方がいます。数学的な発想に通じるのでしょう。よく言われることですが、ゼロという数をたてたのもインド人です。またインドにはすぐれた数学の伝統があり、現在ではIT大国になりつつあります。それはともかく、授業で問題にしている虚空や、大乗仏教の重要な概念である空(くう)などと、無との違いにも注意して下さい。

ヴァイシェーシカ学派における属性の中に、「嫌悪」「努力」というものがあるが、実体に結びつく「嫌悪」「努力」とは、どういうことなのかがよくわからなかった。嫌悪感を抱かせるとか、努力したいと思わせると認識すればよいのか。
24種の属性の多くは、色、形、におい、数などの特徴としてとらえられるものが多いのですが、たしかに「努力」や「嫌悪」、あるいは「法」「非法」などは特徴とは言えず、わかりにくいかもしれません。嫌悪はその前の欲と対になっています。いずれも対象となるものによって説明されます。欲の対象は快楽や幸福で、そのための手段も対象に含まれます。人間というダルミンに欲というダルマが和合することで、人間はこれらを対象とする、つまり、求めたり、手に入れたりします。嫌悪はその逆で、苦痛や不幸を対象とし、さらにその手段(というか原因)も対象とします。同じことですが、人間に嫌悪が和合すると、不幸やその原因を忌避します。努力もこれらと似ていて、「聖典で規定されたなすべきこと」「聖典で規定されたなすべきではないこと」「そのいずれでもないもの」という3種を対象とします。努力がダルマとして人間に和合すると、そのような倫理的な基準が判断でき、行動に移せます。最後の「そのいずれでもないこと」とは倫理的な基準とは無縁の行動です。たとえば「からだの痒いところに手をのばして掻く」という動きがそれに相当します(バカみたいな説明ですが、ちゃんと注釈書にのっているものです)。「法」は社会的な規範を指し、法をダルマとして持つ人間は、道徳的な人物ということになります。もうこれ以上の説明は省略しますが、普通の日本人の発想ではないですね。

ヴァイシェーシカ学派は非常にむずかしいです。途中で挫折したせいもあるけど、とくにダルマ、ダルミンあたりがさっぱりわかりませんでした。仏教の方はまだ理解できそうな気がします。
先回は途中で挫折した人や睡魔に襲われた人が多かったようで、やはり抽象的な話を取り上げるのはむずかしいと私も痛感しました。ダルマ、ダルミンの関係は、慣れればそれほどむずかしくはないのですが、一般の日本人の物事の捉え方とはずいぶん違うようです。私の先生の立川武蔵氏は『はじめてのインド哲学』(講談社現代新書)という本を出していますが、執筆中に編集の人から、ヴァイシェーシカの章が一番難解だと言われたと嘆いていました。この本は先週の授業のタネ本のひとつでもありますので、ためしに一度読んでみて下さい。講義に関しては、先週途中までになってしまった仏教の方に期待をしてほしいとは思うのですが、実は私自身は仏教の方が難解だと思っています。とくに、前半のアビダルマよりも後半の天台の方が、さらに輪をかけて、ついていけないのではないかと危惧しています。

森先生が空間のインド的理解を、パワーポイントを使って説明される前に、チョークを手に取り、「この赤いチョークの色、重さ、形・・・をすべて取り除いたら、何か残ると思いますか」とおっしゃったことに、大変心引かれました。というのは、森先生のこの言い回しはドイツ人哲学者であるイマヌエル・カントの『純粋理性批判』の中での言い回しを私に思い出させてくれたからです。カントは先生と同様の問を発した後に、「物体(チョーク)はすっかりなくなってしまうかもしれない。しかし、諸君はその物体(チョーク)が占めていた空間そのものを取り除くことはできないだろう」と答えた(と私は記憶しています)。これをもとに、カントは空間を直感(知覚)のア・プリオリな(先験的な)形式と考えました。カントは空間とともに時間もア・プリオリな形式と考えました。つまり、空間、時間概念はともに必然的(私たちの心・思考・認識からは切っても切り離せないもの)なのです。やや、話がそれましたが、カントの「物体が占めていた空間そのものはなくならない」(余談ながらこの考えは現代のアインシュタインの相対性理論、および量子力学によって解体されつつある、もしくは解体されました)という考えは、仏教の「何もない」という考えに当てはまるのか、それともヴァイシェーシカ学派の「何か(実体)がある」に当てはまるのでしょうか。また、今回のインド思想による認識論にも大変興味を覚えました。これに関する何かよい研究書・参考書はないでしょうか。
長文のコメントありがとうございました。カントの話は知りませんでした(基本的に私は宗教学や図像学のことは専門ですが、あまり哲学のことは知りません)。同じような問題設定から、空間と時間が残るところが興味深いですね。「物体が占めていた空間そのものはなくならない」というのは、おそらく仏教よりもヴァイシェーシカ学派の考えに近いのでしょうが、基本的な体系が異なるので、安易に「似ている」とは言えないのではないかとも思います。ヴァイシェーシカ学派やインドの思想については、上記の『はじめてのインド哲学』が一般向けの入門書のひとつです。『インド思想史』(東大出版)は、説明はやや不親切ですが、網羅的なことと、原文の翻訳が読めるという特徴があります。中身を見ていないのですが、宮元啓一氏の『インド哲学七つの難問』と『ビックリ!インド人の頭の中?超論理思考を読む』(石飛道子氏と共著)は、このような問題をわかりやすく説いているのではないかと思います(どちらも講談社)。


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