観音の図像と信仰

1月27日の授業への質問・感想



*今回は最終回なので、全体を通した感想などもいくつか見られました。カードに書いていただいたものを、原則としてすべて掲載し、私のコメントや回答は最小限にとどめました。

葬送儀礼の話がおもしろかったです。私は文人コースなので、儀礼とかよく出てきますが、観音の世界にも独特の儀礼があるんだなぁと思いました。

今日の本題とはずれるのですが、今日の資料を見ていて、外国人の記述が日本の学界で重要視されているケースを知り、驚いた。ルイス・フロイスの資料がもっともくわしい補陀洛渡海の資料とは・・・。そう考えると、日本の古人が記したものにも、どこかの国の重要な手がかりになるものがある気がして、おもしろいなぁと思いました。

仏教は日本文学に本当に大きな影響を与えています。そういった意味でも魅力を感じて楽しく講義を聞かせてもらいました。ありがとうございました。観音のために書かれたような多くの文学作品を、今期に入ってからもつぎつぎと見つけることになりました(探してみたのです)。「大慈大悲の観音様」はただただありがたいものとしてたくさん登場します。姿などくわしく描かれないのがほとんどなので、勝手に想像しながら私は読みます。この講義を受けて「観音様もいろいろいるんだぞ」と思うようになりました。観音が変化して、変化した観音がまた変化する・・・そんなおもしろさを知っていくうちに、かつて読んださまざまな文学作品を読み直したい気持ちも起こりました。いろいろなものに変化して、身近に現れてくれる観音様は、好きになってありがたいと思わずに入られませんね。変なまとめになりました。観音も仏教も人とともにあるんですね。
授業の内容を自分の研究に反映させてもらえているようで、うれしく思います。

今でも死ぬことを「他界」というのは、死ぬことで別の世界へ旅立つという仏教的発想が根本なのだろう。普通に「別の世界」として思い浮かぶのは天国と地獄だが、仏教では一口に「天国」と言っても数多くあるが、「地獄」のパターンはあまり多くないように思えるが、どうなのだろう。(血の池や針山は「地獄」という世界の中にあるひとつひとつの場所のように思われるので)。浄土への往生は説かれても、地獄に堕ちることはあまり大っぴらに説かれないような。
末法思想で有名な源信の『往生要集』などには、さまざまな地獄が克明に描かれていて、それが当時の人々の恐怖心をあおったようです。時代が下ると、このような地獄のイメージがステレオタイプ化して、恐怖心をあまり感じさせないような地獄絵も登場するようになりますが。

熊野観心十界曼荼羅図に何が描かれているのかは、解説がないとうまくつかめません。仏教に精通している人は別として、当時の人も似たような感じではなかったかと思います。同時に曼荼羅がどの程度、人の目にふれていたのかということも気になります。渡海船を自分で沈めるというコメントにちょっと驚きました。
解説のことを「絵解き」と言い、一種の芸能として広く行われていました。参詣曼荼羅と密教の曼荼羅とはまったく扱いが異なり、密教の曼荼羅が通常、一般の人の目にふれることがなかったのに対し、参詣曼荼羅は人々に解説することを前提にして作られています。それを聞く人々は、仏教という意識はなくても、地獄のイメージなどはかなり共有していたのではないかと思います。

ルイス・フロイスの著書の中にある渡海する人々が袖の中に多くの金銭を入れるのはなぜなのかなと思った。渡海船の四つの鳥居の大きさは、前後が人が入るために大きくしてあるのだろう。卒塔婆は船の中を死の世界として現世から隔離するためだろうかと思った。貧窮からの救済の説話が多いのは、日本の多くの民衆が、いつの時代も貧しく苦しい生活をしており、人々に仏教を広めるのにむいていたからだろう。

蛇に娘の婿にしてやるといってしまった父親の話が、八犬伝の出だしに似ていると思った。敵将の首と蛙の命では大きな違いだが・・・。伏姫はおとなしく犬の嫁になったが、この話では観音が助けてくれてしまっている。「娘の婿に・・・」などと軽々しく言ってしまった父親が悪いのに、観音は約束を反故にするようなことをしてもよかったのだろうか。

わらしべ長者のモデルの話が、今昔物語であることをはじめて知った。縁起絵巻は、それぞれの場所の仏、神の効果などを説話を通して紹介していたと思うが、昔話にもけっこう、身近にあるもんだなぁと思いました。千手観音はもともと、よく知られている観音ですが、自分にとっては子年の観音であるので、けっこう、昔からとくに身近でした。

補陀洛渡海はさすがに今は行われていないと思いますが、それに変わるような何か行事みたいなものはあるんでしょうか。あと、今昔物語は、そこに出てくる寺の宣伝みたいな感じもするんですけど、そのような意図はあったのでしょうか。
補陀洛渡海に変わるような行事は、たぶん、ないと思いますが、法要があるかもしれません。あるいは観光客のために何か新しく行うようになったかもしれません。今昔などの説話が寺の宣伝になるというのはたしかにそうで、たとえば『長谷寺験記』という長谷寺の観音の霊験を集めた説話集は、『長谷寺絵巻』とともに、各地で勧進を行うときに用いられたと言われています。文字を誰でも読めるという現代と異なり、当時は誰かが読まなければその物語は伝わりませんから、説話のテキストは人々に読み聞かせることが前提に作られています。

今昔物語にも40話ほどもの観音に関する話があるとは知らなかった。身代わりになる話はよく聞くし、絵巻物などでもよく見るが、異類婚系の話が気になった。他の仏でも化身となって現れる話はよくあるものなのだろうか。
おそらく観音が一番多いと思います。

修験道というと何かあやしげなイメージもありますが、実際はどうなんでしょう。たしか「臨兵闘者皆人裂在前」と呪文?を言っていたような(何でも鑑定団のある修験者の依頼人が)、でも司馬遼太郎の「梟の城」で、主人公の伊賀忍者も同じ呪文を使っていました。
修験道は少しもあやしい宗教ではありません。日本人にとってはもっとも「日本的な」宗教です。漫画や小説、映画などではおどろおどろしく描かれているかもしれませんが。

曼荼羅というのは金剛界や胎蔵界のみを示すものだと今まで思っていたので、参詣曼荼羅というものには驚いた。金剛界など仏が延々と並んでいるものもおもしろいが、死出の旅路などを描いたものはさらにおもしろいと思う。こちらの方があまり曼荼羅に明るくなくとも理解しやすいからだろう。渡海船は本当に水上の墓場だなと思った。私にしては卒塔婆があったり鳥居があったりと非常に不気味だが、信者にとっては天国への豪華客船だったんだろう。圧倒された。ぜひ一度自分の目で見てみたい。肉食を禁じられた僧の前に瀕死のイノシシの姿であらわれる観音の話は、何だか皮肉っぽくておもしろかった。

「那智参詣曼荼羅」と「熊野観心十界曼荼羅図」のように、時の流れが一枚の図面に収まっているものがおもしろい。とくにこのように宗教色の強いものが、現実の世界と教えの世界が区別なく、同じ図面に描かれているのは、当時の人々の世界観をよく表していると思う。

ルイス・フロイスが補陀洛渡海のことを、悪魔に生け贄を捧げる儀式と書いているのを知って、たしかに海の神様の怒りをしずめるための生け贄の儀式と似ている部分もあるように思いました。補陀洛渡海を行った僧は、全員補陀洛に行ったことになっているのでしょうか。

救済する側とされる側が似た姿をしているというのが、おもしろいと思った。

今昔物語、一話分読み切ってしまうぐらいおもしろかった。

竹の芽を掘り出すことを、なぜ地獄で行うのだろうか。現代的に問題があるとだけおっしゃったが、どういうことなのか意味が分からなかった。授業の本質からは離れる質問ですが、気になったので、よかったらどういうことなのか教えて下さい。
紛らわしいことを言いましたが、それほど深い意味があるわけではなく、これは石女(うまずめ)地獄と言って、子供を産まなかった女性が堕ちる地獄です。

私はすべての授業の中で、観音の像よりも曼荼羅などの絵画に興味を持ちました。仏教美術は他の美術作品とはまったく異なっていて、その独特の世界はすばらしいなと感じました。
曼荼羅に関心がある人には、私の『マンダラの密教儀礼』をすすめています。

どうして人はここまで仏(観音)をうやまうのか。実際に今昔物語にあるようなことはないだろう。ありえるはずはない。けれど、人々はお参りをする。人は何かに頼らないと生きてゆけないということか。それとも物語などが先行し、わたしたちの中に観音とはこういうものという概念ができあがっているのか・・・。
宗教は人類が存続する限り、存在するでしょう。かつては科学技術の発展などから、宗教は姿を消すというようなことが言われる時代もありましたが、そんなことはありえません。むしろ、より過激な宗教が登場しているような気がします。

観音が大衆的な姿で現れるということは、観音の存在をより身近なものとしてとらえることができ、観音信仰を普及させるのに役立ったのだろうかと思った。

日本昔話に出てくる話は、仏教説話がもとになっているものが多いのでしょうか。今の授業に出てきた「わらしべ長者」もそうですが、自分に縁が遠そうな仏教説話は、実は昔からテレビなどで見ていたのだと思うと、身近なものに感じられました。
今昔物語をはじめとする平安時代の説話文学は、日本の昔話の源泉のひとつです。それはさらにインドにまでさかのぼることができるものもあります。

霊験説話は欲まみれストーリーだと思った。あと、娘の父ちゃんアホすぎ。

講義中に蟹満多寺の話を読んでなかなかおもしろかった。主人公が動物を助け、あとになってその動物が恩返しをしてくれる話は昔からよくあるんだなぁと思った。蟹が主人公を助けてくれる話ははじめてだった。

日本人の他界観がおもしろかったです。昔、外国人は通っていけないところは、人が通れないようにしておかなければならないけど、日本人には止め石で十分ということを聞いたことがあります。見えない境界というのに、日本人は敏感なのかなと思いました。捨身では人間の肉体があまり残らないように思います。即身仏とはどのように異なるのですか。今回も非常に興味深いお話と貴重なスライドを見せていただき楽しかったです。つたない質問にも丁寧な回答をありがとうございました。
捨身も方法によっては肉体が残る場合があると思います(石子詰めや焼身など)。即身仏も修験に関係があると思いますが、よくわかりません。よく「日本のミイラ」と呼ばれますが、即身仏を作るのも一種の葬送儀礼ではないでしょうか。

補陀洛渡海は信仰に対する実践のことであるとの説明であった。信仰によって命を投げ出すということは私に考えられないが、世界的に見るとイスラム教とはイスラムの教えによってか、ジハードといっては自分の命を捨てて、自らの憎むべき相手に攻撃を仕掛けている。イスラムの教えはもともとそうではなかったと聞いたことがある。信仰に対する実践は、「死」に対する考えとつながって、常識的には考えられないような行動を可能にしているのではないかと感じた。

今までの授業を思い出しながら、総集編を聞いていました。授業を通して、仏教に対するイメージがたいへん変わりました。半年間ありがとうございました。

説話の中で観音の霊験があるときは、観音が助けてくれたということは後付の理由で、「ああ、あのときは観音様が助けてくれたんだ」とされることが多いように思えた。観音は夢の中でなら観音の姿で現れることができている。現実世界に出てくる際には、化身となっていると思った。
「夢の世界では観音の姿で現れる」というのは重要な指摘だと思います。当時の人々にとって夢とは「聖なる時間」「聖なる世界」であって、観音がそのままの姿で現れることが可能だったようです。

渡海船の「鳥居」がストゥーパに似ているという話は、そういえばそうだなと納得しました。神社の入口にも鳥居があるし、あの渡海船に乗っている人は、もう異界に行く(行ってしまった)人だし、鳥居とか門には異界との区切りの役割があるのだなと思いました。観心十界曼荼羅の人生の出入り口にも鳥居がありましたね。輪廻して異界からやってくるということなのでしょうか。全体では向源寺の十一面観音がやっぱりすごくきれいでした。あと、東慶寺の水月観音がすごく好きです。装飾品や着ているものなど、中国的な感じがします。那智の参詣曼荼羅も細部まで描き込まれてすごかったです。スライドでたくさんの図像を見れて、とてもよかったです。

今昔物語の観音説話の特徴に貧窮からの救済が圧倒的に多いとあるが、今昔物語が広まったのは「貧窮」という時代の抱える問題に対しての救済が描かれてたことが大きいのではないかと思う。これを通して信仰者も増えたのだとしたら、現代がかかえる社会問題を救済する観音の話があれば、そして世に広まれば、少し仏教信者になって救われる人が増えたりしないのかなと思った。

船の鳥居は衝撃的でした。外国にもたとえばキリスト教圏ならば、教会やマリア像などを載せた船があるかと想像しました。

今昔物語などの古典は高校の時にも扱われていたが、観音がどのようなときにどのように変化して人の前に現れる話はなかったので、今回の授業の話は興味深かった。

仏像にまつわる思想とか意味とかは別にして、作品としてすごいなぁと思うものがたくさんあった。スライドでたくさん仏像を見られてよかった。

掲載されていた今昔物語を読んだがおもしろかった。観音が女性の姿の化身となることが多いというのはすんなりと理解できる気がする。なんか男の姿ではいやですし・・・。

この授業を通して、これまで仏教や仏像などにまったく興味がなかったが、これからは仏教の世界にも目を向けてみたいと思った。父が仏像などにたいへん興味があり、旅行に行くと必ずひとつは仏教美術を見に、お寺や博物館などに行くので、これからは私も積極的にそういうものを見たいと思う。

復元の補陀洛渡海船の模型がおもしろかった。実際には残っていないというのが残念だと思った。沈没の仕組みもおもしろかった。あと、今昔物語も蟹とか蛇とかおもしろかった。

観音が仏ではなく、一歩こちらに踏み込んだ形として現れるのは、とても日本的でおもしろかった。日本古代(神話、神の時代)においても、人間味あふれる神々の説話が残っていることにも、共通する点が見られるのではないか。

わらしべ長者が長谷の観音様の話だったとは驚きました。沢蟹の話も聞いたことがありますが、小さい頃の記憶なので、観音の話だと思っていなくて驚きました。こう見ていくと、日本昔話に出てくる話は、大半が観音信仰にまつわるものなんじゃないでしょうか。当時の庶民にいかに観音信仰が重要だったかを表していますね。

今昔物語で、観音が蟹になって蛇を殺す話もあれば、観音が蛇になって現れるパターンもあるのだなと思った。蛇は聖なるものというイメージがあるのは何となく知っていたが、悪いものとして扱われることもあるので、よくわからない。どっちなのか。
どちらでもあります。蛇は動物なのにウロコがあったり、水の中(上)を行くことができたり、足がなかったりと、ひとつのカテゴリーの中に収まりません。このような動物は「両義的存在」と呼ばれたりして、しばしば「聖なる動物」として宗教的に重要な意味が与えられます。

熊野観心十界曼荼羅を見て、人の一生と死後の世界を一枚の絵の中に治める構成力に感心した。さまざまな地獄の様子が描かれたものはよく見かけるが、天国でのさまざまな具体的な様子が描かれたものはあるのだろうか。
浄土図があります(今期は月曜「浄土教の美術」の授業でくわしく見ました)。阿弥陀のいわゆる極楽浄土が一般的ですが、弥勒や薬師などの浄土図もあります。

今昔物語の中で蟹が出てくるのは驚きました。昔話のさるかに合戦でも出てくるように、蟹のイメージはよかったのでしょうか。
手がはさみであったり、横向きにしか歩かないなど、特異な特徴がある蟹は、宗教的にも重要な動物のひとつでしょう。星座にも「蟹座」があります。精神分析家のユングが蟹をしばしば重要なシンボルとしてあげています。

すべて同じように見えていた観音も、いろいろと違いがあり、その違いもひとつひとつ理由があるのだと、この授業を通して思った。

講義の最後でもあったように、たしかに観音が救済する際に、そのままの姿で現れるというイメージは、私にもなかった。何か、まわり回って最後に観音様のおかげだと気づくパターンが多いと思う。それが日本的イメージなのだろうなと思った。

功徳を積まないとこうなるよみたいな感じの地獄の絵との対比は、西洋でもフレスコ画などによく描かれていたと思う。参詣のありがたさが数倍増しになるのではないだろうか。渡海船は意外にちゃんと船の構造をしていたのだなぁと思った。てっきり、壊れやすいとか、穴があいているのかと思っていた。観音の霊験の内容にはやはり貧窮が多い。貧窮から逃れたいという願いが、当時の社会に多かったのだろう。そういうことも考えると、農村(まずしそうなイメージ)にも、信仰者がたくさんいたということなのだろうか。ヨーロッパの聖人伝でも、農村と都市の聖人は守護してくれるもの違ったので、信者の要求にけっこう対応しているのかなと思った。

熊野観心十界曼荼羅図に個人的に興味を持ちました。曼荼羅の中心より少し上に「心」と書いてあって、いわれたらそういうことかとわかりましたが、ただ見てるだけでは何を意味するのかわからないです。当時の人はこれについてどう考えていたかが気になりました。
「心」の文字を中心においた絵画には先行例があり、「一心十界図」といいます。これは、輪廻の世界である十界を心のまわりに描き、われわれの輪廻もすべて心の働きにすぎないという教えに用いられました。熊野観心十界図は、それを「老いの坂」と「地獄図」、阿弥陀三尊などと組み替えたものです。「老いの坂」も六道絵と言って、輪廻の世界を描いた絵画の、「人道」つまりわれわれと同じ人間の世界のところに登場します。

今昔物語集の説話はとてもおもしろかったです。観音信仰の様子が仏像がどーんと並べられているのを説明してもらうよりもわかりやすかったし、必ず証拠を残しているというのも、それは何なのか探すのはおもしろいと思いました。

徐福は伝説の人物ということでしたが、架空の人物という意味なのでしょうか。日本の各地で徐福が上陸した伝説があるのに、徐福自体が架空の人物だとしたら、まるで架空の人物なのに住居等が残されているシャーロック・ホームズのようだと思いました。今昔物語とかにと蛇の話や、わらしべ長者などは昔話で読んだ覚えがあり、懐かしく感じました。
実在の有無はよくわかりませんが、仮に実在していなくても、人々が「あれが徐福だったのだ」と思えば伝説はできると思います。シャーロック・ホームズが住んでいたとされる地番は、たしか今はホテルが建っていると記憶しています。

半年にわたって観音の勉強をしましたが、観音という仏尊は衆生の祈り、願望、欲望が育て、成長させ、変化させてきた仏尊であると思いました。つまり衆生の願いを一身に背負っているという感じです。

今日で終わりとなり残念です。もっともっと本気で勉強できたはずだったが、今ひとつだった。たまにうとうとしてしまいました。すいません。でも楽しい授業でした。

今昔物語の中に描かれている庶民の姿がおもしろかった。仏教がごく身近に存在している様子がうかがえる。

観音が救済される側と同じ姿をとるというのはおもしろいと思いました。観音に限ったことではないのかもしれませんが、救済された側がせめてものお礼をすることで救ってくれたのが観音であることに気がつくということが多いような気がします。説話なので、気がつかなければ意味がないのかもしれませんが・・・。観音が観音のまま現れると畏れ多すぎて、救済しにくくなるのかなと、何となく思います。

祖父の納骨式の時に、お経を上げていただいたお寺の方が、説教というか、みんなに向かってちょっと話をしたときに、「どんなに悪い人も善人も、死んでから49日の間に必ず次の生まれ変わりの身体(器)を見つけてゆきます」と言っていました。生まれ変わるということは、輪廻転生ということで、それを言うならば今の私も前世があるということで・・・と考えていくと、お盆や正月に帰ってくる魂とはいったいどこから還ってきて、誰が還ってくるのでしょうか。その辺の矛盾というのはいったいどう説明されるのでしょうか。
輪廻思想と祖霊信仰は別のものととらえた方がいいでしょう。死んでから別の生命として生まれ変わるのが輪廻思想で、死んだら祖霊となって、どこか死者の国のようなところにとどまっているのが祖霊信仰です。日本は本来、祖霊信仰を基本としていましたが、仏教の伝来とともに、その基礎となっている輪廻思想が有力となります。しかし、祖霊信仰も生き続けたため、両者が併存することになります。同じ様なことはインドでもあり、インドの宗教の基本を形成したアーリア人は祖霊信仰を持っていたのに対し、インド土着の人々は輪廻思想を信じていたようです。

観音のヒーローっぷりと、仏教文化の持つ重層性が、図像をともなってよくわかる授業でした。さまざまな場所や理由によって生まれる思想(あるいは願い)が、土の下から上へと花開いたもののうちのひとつが、観音に関する文化現象であるととらえてよいでしょうか。

半期にわたって仏像を見てきて、仏像というものをもう一度考え直してみたいと思った。あと、さまざまな観音が見れて、おもしろかったです。仏教というと尊いために近寄りがたいというイメージでしたが、そのイメージが親しみがあるなどに変わりました。


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