観音の図像と信仰

12月2日の授業への質問・感想



不空羂索観音は観音なのに雄々しく男性らしさを感じます。正面性が強く、左右対称にそびえ立たれると畏怖を覚えるからでしょうか。(それとも肩幅が広いためかもしれませんね)。観心寺の如意輪観音の彩色を見て驚きました。髪が青く、白目もあって極彩色でした。仏像は金色一色なのかと思っていたので、意外だったのですが、マンダラ由来だからでしょうか?(孫悟空が持っている如意棒も如意の一例ですか?中国ですけど)。
不空羂索観音からはたしかに男性的なイメージを感じますね。十一面観音や一般の観音のように腰をひねったポーズを取らないこともその一因だと思いますが、三眼を有したり、鹿皮をかけるなど、インドの観音のイメージや、『不空羂索神変真言経』などにある大自在天のイメージが、日本でも意識されていたからとも思われます。観心寺の如意輪観音が彩色されていることと、マンダラとの関係もご指摘の通りですが、一般に密教の仏は色が重要な要素であるため、彩色されているものがかなりあります。これは密教の瞑想や儀礼と関連し、仏の姿を観想する、つまりありありと思い浮かべることが、それらの基本にあるため、色についての情報が詳しいのです。そのため、密教では彫刻以上に画像が重要な役割を果たします。平安期、とくに前期の仏画の傑作は、ほとんどが密教関係のものです。如意棒については他の方からも質問がありましたが、中国文学や文化史の専門家にお尋ねすべきところで、よくわかりません。「如意」ということば自体はサンスクリット起源でcint撃ニ言い、授業で紹介したように「考え」や「望み」を表す仏教用語です。しかし、インドの場合は「如意宝珠」「如意輪」「如意樹」「如意牛」などはありますが、「如意棒」はないと思います。また、インドの場合、これらはいずれも望んだものを何でももたらす富のイメージなのですが、如意棒は望みどおりであるのは長さだけで、如意棒そのものも武器以外の役割は持たないのではないでしょうか。仏教以外のところに起源があるとすれば、道教などにそれを求めるべきかもしれませんが、それもいささか安易なような気もします。


資料として仏像の技法に関するものがありましたが、奈良の大仏とかは作るのが相当にたいへんだっただろうと思った。修学旅行で一度だけ見たことがありますが、あのような大きな大仏を昔の人はどうやって作ったのかとても不思議です。何人くらいの人があの大仏を作るのにたずさわったのでしょうか。
奈良の大仏の制作過程は、記録がよく残っているので、かなり詳細なところまでわかります。基本的には、下の方から少しずつ層を高くするように作っていったのですが、たしかにたいへんな労力、技術、そして経済力などが要求されます。詳しいことは『奈良六大寺大観』の東大寺の巻などを見て下さい(付属図書館にも比較文化にもあります)。奈良の大仏はできあがった後も、重さに耐えかねて、亀裂が入ったり、傾いたりと次々と問題が起こり、それをくい止めるための苦労がつねにつきまといました。余談ですが、最近の小学校の歴史の授業では、大仏を作るというトピックをかなり大きく扱い、具体的な制作方法などについても取り上げています。インターネットで検索すると、いろいろな小学校の取り組みが紹介されていますが、中には校庭に実物大の大仏を描き、その巨大さを実感するというのもあります。ある小学校のホームページにはその上に立っている小学生たちの姿の写真が掲載されていて、「仏様にのるなんて」と思いました。関心を持つのはいいことなのですが・・・。

乾漆像は抹香などを混ぜた木くぞ漆を使うということを聞いて、よい香りがしそうだと思った。先日「世界不思議発見」で金アマルガム法を取り上げていたのだが、当時の人々は水銀の性質を科学的に知らないのに、そのような製法を編み出したのには非常に驚いた。
乾漆像の香りは当初はしたのでしょうが、今は残っていないでしょうね。水銀は現在でも重要な鉱物ですが、歴史的にもいろいろなところで登場します。有名なものでは西洋における錬金術で、これが近代的な科学のはじまりともいわれています。中国では不老長寿のために、水銀が用いられました。日本でも古くから「丹生」ということばで水銀が表され、今でも各地にこれを含む地名が残っています。神道には「丹生津姫」という女神がいますが、やはり水銀と関係があるそうです。

インドと日本の不空羂索観音の腕の数が違うというところで、インドと日本では違いも出てくるだろうとは思っていたが、改めて考えてみると、その違いは何によるのだろうかと思った。日本では八本にしたというのは、日本特有の考えがあって、八本がいいと思ったから八本にしたのだろうか。そう考えると仏教はインドから中国とかを渡ってきたとはいっても、昔から根付いている日本風の考え方に染まっていくのだろうかと考えたが、あまり詳しく仏教のことを知らないので、ちょっと自信がない。
インドと日本で密教の同じ仏たちの姿がとてもよく似ていることは、私の教養の授業でもしばしば取り上げるのですが、そのときに強調するのは「似ていることよりも、似ていないことの方が説明がむずかしい」ということです。似ているというのは、歴史的にその伝達が確認でき、いわば状況証拠を固めることで説明できるのですが、似ていない場合、その理由は「単に伝わらなかったから」だけではすまされません。たとえば、伝わっているのにあえて似ていない姿に表す場合もあり、そこには何か積極的な理由が必要です。不空羂索の場合も同様で、インドではほとんど作例のない八臂の観音を作り、しかもそれがもっとも一般的であったということを説明する必要があります。いろいろその理由を考えてみてください。

今日の不空羂索、如意輪、馬頭の観音は、それぞれ顔や立坐に特徴が見られるのだが、それぞれの観音のイメージというのは、中国大陸から伝えられる文献や絵などから得られたものなのであろうか。またそのような統一のイメージは、どのようにして日本国内で広がっていったのか気になった。
日本の密教美術の場合、一般に仏たちの姿はかなり統一的です。また、いくつかのタイプがあっても、そのほとんどは文献に記述があります。作品と文献が完成された状態で伝わったという日本の密教美術の特異性がそこにはあるのですが、さらに「図像集」と一般に呼ばれる仏像の基本的なイメージ集があったことも重要です。何のイメージももたない者が文献の記述だけで仏像を制作することはおそらく相当困難であったはずです。また、参考にすべき仏像がすでにあったとしても、それを新しく制作する場所まで移動することもほとんどなかったでしょう。それに代わるものとして、さまざまな仏の姿を紙に墨で描き、場合によっては簡単な彩色を施したような「デザインブック」が、密教美術ではたくさん残っています。そのため、仏像や仏画を研究するときには、必ずこのような図像集(白描集ともいわれます)を参照する必要があります。

秘仏についてもう少し知りたいと思います。どのような基準で秘仏を選ぶのかとか、秘仏として公開しないいきさつとか・・・。たまに公開する方がありがたみが増すからというような感じなんでしょうか。でも紛失してしまったらどうしようもない感じですね。
秘仏というのはたしかにおもしろい存在ですが、宗教美術の本質とも言えるかもしれません。つまり、崇高なものや聖なるイメージは、それほど簡単に目にすることはできないはずで、秘密にすることによって、その聖性が高められることになります。しかし、まったく公開しないのでは忘れられた存在になるので、定期的に(その周期はさまざまですが)公開することで、その作品の存在が社会的に再確認されるのでしょう。そのときには、秘仏を中心にした聖なる時間や空間が出現することになります。「紛失してしまったら・・・」というのはそのとおりで、ずっと秘仏にしていたら、いつのまにか無くなっていたということも聞きます。あるいは高野山の講堂(現在は金堂)の例ですが、ここにはかつて平安初期の密教仏が秘仏としてあったのですが、秘仏中の秘仏で写真すらも残っていなかったため、昭和元年の火災で焼失してしまい、研究者の間でも惜しまれています。その一方で、「秘仏」をタイトルにする本も何冊も出ていて(たとえば毎日新聞社や平凡社)、秘仏の写真が多数掲載されています。「聖なるもの」とかというより、「普通には見られないものを見たい」という人間の本性が、この場合大きいのかもしれません。

あやふやな記憶ではありますが、三十三間堂にある一千一体の千手観音像と二十八部衆像の中に、必ず訪れた「自分の顔」があるといわれているような気がしますが、これは真実なのでしょうか。大阪・葛井寺の千手観音の手は、私はほとんど背景だと思いました。千本もあったら何も持ったりしていない手もあって、千という数だけになぜそんなにこだわったのかなと疑問に思いました。
三十三間堂の千手観音の顔については、他の方からも質問がありました。ガイドブックにも載っている有名な話なのでしょう。そう言われれば、そんな気もしますが、拝観者向けのわかりやすい説明という程度のものです。人間の顔の形態には、われわれが思うほどは種類がないということかもしれません。これらの千手観音は鎌倉時代初期に京都で活躍していた湛慶(運慶の長男)の工房で作られたもので、作者が誰であるかも一部はわかっています。一見、同じように見えますが、衣の着方や表現方法などで、いくつかのグループに分かれるようです。現在ではすべてに番号が振られていて、その番号でどの作品であるかを示します。千手観音の千という数は、まとまった大きな数の代表として用いられています。インドでは神々の特徴や威力を示すときに、しばしば千という数が現れます。たとえばインドラは「千の目を持つ者」という異名があり、実際に全身に千の目を付けて表されることがあります(これにもおもしろい由来があるのですが省略します)。

私は昔から如意輪観音や弥勒菩薩の半跏思惟像などの「考えているポーズをした仏像」がとても気になります。たぶんミステリアスというか謎を秘めた感じがあるからだと思いますが、自分がよくする格好が仏像になっている驚きがあります。イメージ的に仏が崩した姿勢をとっている様子は珍しい気がします。あと疑問なのですが、如意輪観音はいかにもいろんなことを自分の思い通りにしてしまいそうな風に見えるのに、どうして何となく物憂げなのですか。あまり楽しそうじゃないというか、どちらかというと、自分の神通力?を持て余しているように見えます。また、昔の、仏像を見る側の人々はどう見ていたのですか。
半跏思惟像はインド、中国、日本の仏教美術史における大きなテーマです。この形式の仏像が現れたのはガンダーラで、そこでは弥勒ではなく観音がこのポーズをとっていました。観音の他にも、降魔成道の場面での魔王のポーズにも現れます。弥勒と半跏思惟が結びついたのは中国です。日本では有名な広隆寺の弥勒半跏思惟像がありますが、この像が弥勒であることについては研究者によって疑問視されることもあります。ヨーロッパの美術でも、この「考える人」のモチーフは長い歴史があります。とくにルネッサンス期にネオプラトニズム(新プラトン主義)という思想が流行したときに、四気質という考え方と結びつきます。これは世界を構成する原理を四つとし、人間の類型も四種類とします。そのうち、憂鬱気質(メランコリア)というグループは、当初はその名称のとおり、単に無気力で怠惰なタイプの人間と見なされていましたが、時代が下ると芸術家となる人がこの気質を持つと理解されるようになります。そして、本来は劣った者と見なされていた憂鬱気質の者に、真理や美を追究するものという積極的な意味が与えられるようになったのです。そして、その表現として「考える人」のモチーフが好まれました(たとえばオランダの画家デューラーに「メランコリアII」という有名な銅版画があります)。如意輪観音から「物憂げな印象」を受けるのは、実は自然なことなのかもしれません。仏教美術における半跏思惟像については宮治昭『仏像学入門』(春秋社)、ヨーロッパのメランコリア像についてはザクスル『土星とメランコリア』(晶文社)が参考になります。


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